Saina

4.0

 サーイナー・ネヘワールと言えば、インドが誇る女子バドミントン選手である。インドは人口が多い割には、クリケットの異様なまでの人気など、いくつかの事情から、世界レベルのスポーツ選手を多く輩出できていないのだが、サーイナーだけは別格である。彼女の台頭の時期はちょうど僕のインド在住期間とも重なっており、サーイナーの活躍がよく話題になったのを覚えている。2006年、16歳のときに、アジア人として初めてフィリピン・オープンで優勝したのを皮切りに、数々の世界大会で勝利を重ね、世界ランク1位にもなった。彼女の伝記映画が、2021年3月26日公開の「Saina」である。

 監督はアモール・グプテー。「Stanely Ka Dabba」(2011年)など、子供向け映画で定評のある監督である。主演はパリニーティ・チョープラー。他に、マーナヴ・カウル、イーシャーン・ナクヴィー、メーガー・マリク、スブラジョーティ・バラートなどが出演している。

 ハリヤーナー州出身のサーイナー(パリニーティ・チョープラー)は、父親(スブラジョーティ・バラート)の転勤に伴ってハイダラーバードに引っ越したことを機にバドミントンを始める。母親(メーガー・マリク)は元々州レベルのバドミントン選手で、サーイナーがバドミントンを始めたのも彼女の意向が強かった。

 サーイナーはすぐに実力を発揮し、ジュニア大会で連勝する。さらなる高みを目指すため、サーイナーはラージャン・アカデミーの創立者で有能なコーチ、ラージャン(マーナヴ・カウル)の下で英才教育を受ける。サーイナーの実力はラージャンの期待以上で、フィリピン・オープンで優勝するなど、国際大会で勝利を重ね、世界ランク3位まで達する。だが、一躍時の人となったことでサーイナーは練習が覚束なくなり、コーチとの関係が悪化したことでスランプに陥って、しかも足首を捻挫してしまう。

 サーイナーはコーチを変え、バンガロールに移り、再起を目指す。復帰したサーイナーは復調し、世界ランク1位、スペインのカロリナ・マルティネスを破って、世界ランク1位となる。

 「Saina」は、21世紀にヒンディー語映画に起こった3つの潮流の合流点となっている。

 1つめはスポーツ映画の潮流。「Lagaan」(2001年)の大ヒット以降、ヒンディー語映画ではスポーツ映画が盛んに作られるようになった。「Lagaan」以前は、「スポーツ映画は失敗する」というジンクスが業界内にあり、ほとんどスポーツ映画は作られなかったのだが、「Lagaan」が全てを変えてしまった。クリケットに加えて、サッカー、ホッケー、ボクシング、陸上競技、レスリング、カバディー、インラインスケートなど、様々なスポーツを主題にした映画が作られた。

 2つめは伝記映画の潮流。実在の人物の人生または半生を題材にした映画が作られるようになった。バガト・スィンやスバーシュ・チャンドラ・ボースなど政治家や活動家の伝記映画、シルク・スミターなど映画スターの伝記映画、そしてサアーダト・ハサン・マントーなど文学者の伝記映画と並んで、スポーツ選手の伝記映画も好まれており、クリケット選手のサチン・テーンドゥルカルやMSドーニー、陸上競技選手のミルカ・スィンやパーン・スィン・トーマル、ボクシング選手のメリー・コム、レスリング選手のポーガト姉妹などの映画が作られている。

 3つめは女性を主人公とした映画の潮流。特にヒンディー語映画の2010年代は女性の10年と言ってよく、女性が主人公かつ女優中心の映画が急増し、興行的にも成功を収めるようになった。「Kahaani」(2012年)、「Queen」(2014年)、「Neerja」(2016年)などが代表例だ。

 「Saina」には、上記3つの全てが含まれている。その点では、「Mary Kom」(2014年)の後継者と目していいだろう。まだ現役のスポーツ選手を伝記映画にしている点でも「Mary Kom」と共通している。

 アモール・グプテー監督は「Hawaa Hawaai」(2014年)でインラインスケートの映画を作った経験があるが、彼の持ち味は前述の通り子供向け映画である。「Hawaa Hawaai」は子供が主人公だったため、彼の作風がうまくはまっていた。だが、「Saina」の主人公は、幼年時代が描かれはするものの、基本的には成人前後の女性である。そうなると、グプテー監督の弱みも見えた気がする。それは、極度に悲痛なシーンを入れられないことである。

 現実世界のサーイナーが果たしてどういう紆余曲折を経て世界チャンピオンになったかは分からないが、映画「Saina」中のサーイナーは、少なくとも3回の壁にぶち当たる。

 1回目の壁は、初めて海外の国際試合に出場する直前に母親が交通事故に遭い、意識不明の重体となったことだ。だが、サーイナーは母親を病室に残し、練習に出掛け、試合にも出場する。なぜなら、母親が何を望んでいるのか、サーイナー自身が一番よく知っていたからだ。サーイナーは、「プラクティス(練習)こそがプラールトナー(祈り)だ」と自分に言い聞かせ、祈る気持ちで練習に打ち込み、試合を戦う。勝利を掴んだ後、母親の意識は戻り、事なきを得た。

 2回目の壁は、幼少時から一緒にバドミントンの練習をして来た恋人カシヤプと別れるようにラージャン・コーチから言われたことだ。ラージャンは、「チャンピオンになれるかどうかは、何をするかではなく、何を犠牲にするかで決まる」と語る。サーイナーは、幼少時から午前3時に起きてバドミントンの練習をする毎日を送って来ていた。彼女ほどバドミントンのために犠牲を甘んじて受け容れて来た者はおらず、彼女にもその自負があった。だが、コーチにそう言われたことで、サーイナーは潔くカシヤプと別れる。カシヤプも不満ながら、サーイナーの決断を受け容れる。

 3回目の壁は、ラージャン・コーチとの不仲、スランプ、そして足首の怪我である。フィリピン・オープンで優勝し、メディアの寵児となったサーイナーの元には数々の広告オファーが舞い込み、撮影で忙殺される毎日が続いた。それがラージャンを怒らせてしまう。ラージャンの指導が受けられなくなったサーイナーはスランプに陥り、しかも試合中に足首を捻挫して、しばらくバドミントンをプレイできなくなる。サーイナーは、一度もコーチが見舞いに来なかったことにショックを受け、ラージャンの元を去る決断をする。だが、捨てる神あれば拾う神あり、バンガロールで新たなコーチが見つかり、すぐに再起する。

 つまり、いくつかの壁が用意されているのだが、それらをサーイナーが比較的容易に越えて行ってしまうため、ドラマ性が弱いのである。にっちもさっちも行かないどん底はこの映画にはない。悪役らしい悪役がいなかったこともドラマ性の欠如を助長した。悪役っぽい立ち位置のラージャン・コーチですら、完全な悪役ではない。また、バドミントンの試合も、溜めがなく一辺倒な印象を受けた。

 サーイナーがバドミントンを始めたのは母親による押しつけだったことも、少し引っかかるところだった。幼少時代にサーイナーがどういう気持ちでバドミントンに取り組んでいたのか、ほとんど描写されることがなかった。インドでは、両親が子供に過度な期待をし、重度のプレッシャーを掛けることが問題視されている。「Chhichhore」(2019年)でも、息子の大学受験に対して父親がプレッシャーを掛け、失敗した息子が自殺未遂をする様子が描かれていた。「Saina」における母親の行為は、ともすれば親のエゴを子供に押しつけることの正当化と捉えられることもあるだろう。

 だが、そういうパワフルな母親に対し、優しく協力的な父親の存在がいいバランスになっていたことも語られていた。「Saina」のような映画を観ると、インド映画における家族の表象が激変したことをヒシヒシと感じる。かつては強い父親と優しい母親というのがデフォルトのセットだったのだが、今は「Saina」のように、優しい父親と勝ち気な母親という組み合わせを目にする機会が非常に多くなった。

 インドにおいて女子スポーツ選手の映画が作られると、必ず主人公は、インド全国の女子たちの夢と希望を背中に背負うことになる。なぜならインドでは、女性は適齢期になると嫁に出されるのが常で、若い内に自分の夢を追うことが許されていないからだ。幸運にも夢を追うことを許された少数の女性たちが、そうでなかった女性たちの分まで戦うことになる。「Saina」にも、確かにそういうシーンはあった。だが、「Dangal」(2016年)のように、主人公自身が問題意識を持ってスポーツに取り組んでいたかというと、そうではなかったように感じた。よって、フェミニズム映画としての要素も弱い。

 ヒンディー語映画界でバドミントンと言えば、本当はディーピカー・パードゥコーンである。彼女の父親プラカーシュ・パードゥコーネは元世界ランク1位のバドミントン選手であり、ディーピカー自身も国レベルのバドミントン選手であった。だが、サーイナー・ネヘワールの伝記映画プロジェクトが立ち上がった際、ディーピカーを主演にする案は出なかったようだ。第1候補は実はシュラッダー・カプールで、実際に撮影も始まりかけたようなのだが、売れっ子になったことでスケジュール調整が困難となり、代わりにパリニーティ・チョープラーが起用されることになったようだ。パリニーティは、この仕事が舞い込むまで、サーイナーの試合を一度も見たことがなかったと言う。サーイナーの試合やインタビューの動画を見込んで研究し、役作りをした。なかなかどうして、パリニーティのラケットさばきや動きは悪くなかった。

 ラージャン・アカデミーのシーンでは、ラージャン・コーチの下に、なぜか日本人のサブコーチがいた。ヤマモトツヨシという日本人が演じている。大阪大学のTシャツを着ているシーンもあった。実際にサーイナーのコーチ陣に日本人がいたのであろうか。当時インドに住んでいたが、そういう噂は全く聞かなかった。

 「Saina」は、子供向け映画が得意なアモール・グプテー監督による、インドが誇る世界的な女子バドミントン選手サーイナー・ネヘワールの伝記映画である。極度に悲痛なシーンがなく、スポ根映画的な激しいアップダウンがないのは、子供向け映画を作って来たグプテー監督の持ち味であろうし、今回はそれが弱点にも感じた。しかし、主演パリニーティ・チョープラーの好演もあり、しっかりと楽しめる映画に仕上がっている。