Baahubali 2: The Conclusion

5.0

 テルグ語映画界が総力を結集して送り出した「Baahubali」シリーズの第2作にして完結編、「Baahubali 2: The Conclusion」。インド本国では2015年7月10日に公開された「Baahubali: The Beginning」の2年後、2017年4月28日に公開された。これら2部作はテルグ語とタミル語で作られ、ヒンディー語やマラヤーラム語などの吹替版も作られた。これらは、各言語および合計で、予算額から興行収入までほぼ全ての記録を塗り替え、インド映画史上伝説となっている名作「Sholay」(1975年)に次ぐ観客動員数を達成したとされている。

 元々2部作構成で作られた映画であり、監督や俳優は前作と共通している。監督はSSラージャモウリ、主演はプラバース。ヒロインはアヌシュカー・シェッティーとタマンナー。他に、ラーナー・ダッグバーティ、ラマヤー・クリシュナン、サティヤラージ、ナーサルなどが主要な役で出演している。音楽監督はMMカリーム(MMキーラヴァーニ)である。

 前作「Baahubali: The Beginning」は、サティヤラージ演じるカッタッパーが、プラバース演じるアムレーンドラ・バーフバリ前王を殺害したことが明かされ、終幕となった。バーフバリの忠実な下僕であるはずのカッタッパーがバーフバリを自らの手で殺めたことへの衝撃は大きく、「カッタッパーはなぜバーフバリを殺したのか?」という謎について、インド全体で議論が沸騰した。その答えが「Baahubali 2: The Conclusion」で明かされるとあって、多大な期待を寄せられていた。

 これで第2部が尻すぼみであったら残念な結果となっていたのだが、「Baahubali」製作陣は、第1部を上回るスケールの続編を用意していた。その大部分は、「現在」から25年前、アムレーンドラ・バーフバリ前王が戴冠直前に奸計に掛かり、王位を逃したばかりか、王国を追われる身となり、最終的にカッタッパーに殺害された理由の説明に費やされる。

 カッタッパーがなぜバーフバリを殺したのか、それについてはここでも書かない。「Baahubali」シリーズを第1部から鑑賞し、自分の目で確かめて欲しい。

 まだ第2部が公開される前に書いた第1部の批評では、「Baahubali」シリーズを「新たなインド神話の創造」と評価した。世界でもっとも豊富な説話のストックを持つインドにおいて、新しい神話を創造する必要があるのかと思われるかもしれない。だが、インドの神話は宗教と密接に結びついており、自由に改変することが困難であるというデメリットもあった。神話のみならず、歴史についても、映画化しようとすると必ず横槍が入る。インドの「過去」は、神話であれ歴史であれ、誰かの利害、信仰、人生と結びついており、作家の自由な想像力を適用しにくい。その点、インド神話をベースとしながら、全く新しい神話を作り出すことで、作家は自由な想像の翼を手にする。「Baahubali」の勝算はここにあった。

 だが、インド神話から離れつつも、インド神話らしさは失っていなかった。「Baahubali 2: The Conclusion」で強く感じたのは、「誓い」の大切さだ。これはインド神話でも同様で、一度口から出た誓いは、神様でも戻すことができない。例えば、「マハーバーラタ」に登場するビーシュマは、「一生独身を通す」という誓いを立て、それを守り抜いた。インド神話の世界において、公衆の面前で口頭で述べられる誓いは尊い。それが一国の王によるものならば、尚更のことである。誓いを守れないならば、王は王でなくなる。「Mughal-e-Azam」(1960年)においても、アクバル大帝は、数十年前に侍女と交わした約束を守り、その娘アナールカリーの命を助けた。この価値観は、架空の叙事詩である「Baahubali」の世界でも踏襲されていた。

 だが、複数の王族が相反する誓いを立てることで衝突が起き、自らの首を絞める不幸も起こり得る。いや、むしろ、この相反する誓いが「Baahubali: The Conclusion」では強烈なドラマを生み出していた。不用意にしてしまった誓いのせいで、国母シヴァーガーミーは愛息子アムレーンドラ・バーフバリを失うことになり、デーヴァセーナーはシヴァーガーミーと対峙することになり、そしてアムレーンドラは国を追われることになった。

 かつてない想像の翼を得たことで、戦争シーンも驚きの連続であった。アムレーンドラやマヘーンドラの一騎当千の強さもさることながら、彼らが考案する戦術は、常識に囚われた人間では思い付かないものだ。牛を突撃させ、ダムを決壊させ、そして人間を弾丸にして椰子の木のバネを利用して射出する。インドのダンスシーンは空想と現実が入り乱れることが常だが、戦争シーンにまで空想と現実をミックスさせ、まるでアニメのような戦いを実写で表現することに成功した。

 終始無敵のアムレーンドラであるが、彼のコミカルな側面にクローズアップするのも忘れていなかった。この辺りは、一本の映画にあらゆる娯楽要素を詰め込もうとするインド映画らしい配慮であり、もっと言うならば、南インド映画らしい配慮である。近年のヒンディー語映画では、映画の本筋から離れるこういうボーナスシーンは減った。アムレーンドラがカッタッパーと共に国を周遊するシーンがあるが、そこで彼らは身分と強さを隠し、デーヴァセーナーに召し抱えられることになる。カッタッパーは急におべっか使いとなり、アムレーンドラはでくの坊を演じる。その様子がとてもおかしく、中盤、ホッと一息付ける時間帯となっている。

 王子が城を出て諸国を巡る、というのも、インド神話の定番である。ただ、「Baahubali 2: The Conclusion」では、見聞を広め、国民の悲喜を知るため、という理由での漫遊の旅と、追放の2回があったが、「ラーマーヤナ」のラーム王子は14年間のヴァンワース(森住)となり、「マハーバーラタ」のパーンダヴァ五王子は12年間のヴァンワース(森住)と1年間のアギャートワース(隠遁)を科せられた。日本人がよく知るガウタマ・スィッダールタも王城を捨て放浪の旅に出て、ブッダ(悟った者)となった。インドにおいて、王族がどんな理由であれ一度外の世界を巡るというのは、必要不可欠のこととされていたように思われる。だが、別の視点から見れば、彼らは王子でありながら外の世界を自らの目で見て歩いたことで、今日まで語り継がれる伝説的な統治者になれたのだと言える。インド全土には、ラームやパーンダヴァ五王子が訪れたとされる場所がいくつも残っている。それらの全てが本物とは思えないが、もし彼らが外の世界に出なければ、それらの存在は人々から信じられることもなかった。ラームが、アルジュンが、ビームが、この地を訪れたかもしれない。そういう思いが信仰となって、インドの津々浦々に広がる原動力となったのだと思われる。そういう意味では、アムレーンドラもマヘーンドラも、マヒーシュマティー王国の外に足を踏み出したことで、伝説となり得る資格を得たのだと言える。

 「Baahubali 2: The Conclusion」は、第1部に勝るとも劣らない作品となっており、インド全土を揺るがした叙事詩の完結編にふさわしい。インド映画史上に残る傑作。テルグ語映画ではあるが、ヒンディー語映画に与えた影響は計り知れない。第1部と併せて、観ない理由はない作品である。