Mukti Bhawan

4.0

 「ガンジス河」としてよく流布している写真の多くは、ウッタル・プラデーシュ州ヴァーラーナスィーで撮られたものだ。ガンジス河はヒマーラヤ山中に端を発し、ガンジス平原を東に流れ、バングラデシュを通ってベンガル湾に注ぎ込む、総延長2,525kmの大河である。ガンジス河流域にはいくつもの都市があり、それぞれがガンジス河と共に発展して来たが、ヴァーラーナスィーほどガンジス河と蜜月の関係にある都市はない。ヒンドゥー教徒の多くは、ヴァーラーナスィーで最期を迎えることで輪廻転生の鎖から解放され解脱を得ると信じており、死期を悟った人々が最期の時を過ごしにやって来る。ヴァーラーナスィーには、そういう人々のための「死を待つ人の家」が存在する。

 2016年9月2日にヴェネツィア国際映画祭でプレミア上映され、インド本国では2017年4月7日に公開された「Mukti Bhawan」(英題:Hotel Salvation/邦題:ガンジスに還る)も、人生最期の時を過ごしにヴァーラーナスィーを訪れた父親とその息子の物語である。

 監督はスバーシーシュ・ブーティヤーニー。長編映画の監督はこれが初である。主演はアーディル・フサイン、ラリト・ベヘル、ギーターンジャリ・クルカルニー、パーロミー・ゴーシュ、ナヴニンドラ・ベヘル、アニル・K・ラストーギーなど。ラリト・ベヘルとナヴニンドラ・ベヘルは夫婦である。

 カンナウジ在住のラージーヴ(アーディル・フサイン)は、死期が近いことを悟った父親ダヤー(ラリト・ベヘル)と共にヴァーラーナスィーへ行くことになり、二人はガンジス河のすぐ近くにある「死を待つ人の家」ムクティ・バワンに滞在することになる。

 ラージーヴは仕事を残して来ていたため、早く帰りたがっていたが、ダヤーは死ぬ覚悟でヴァーラーナスィーに来ていたため、帰るつもりはなかった。ダヤーは、ムクティ・バワンに18年間も住んで死を待っているヴィムラー(ナヴニンドラ・ベヘル)と仲良くなり、ますます腰を落ち着けてしまった。ラージーヴが留守にしている間、顧客は失うわ、上司からは怒られるわ、挙げ句の果てに娘のスニーター(パーロミー・ゴーシュ)が婚約を破棄してしまい、頭を抱える。

 ある日、ヴィムラーが急死してしまう。葬儀をした後、急にダヤーはラージーヴに、家に帰るように言う。ラージーヴが帰宅すると、すぐに父親の訃報が届いた。ラージーヴはヴァーラーナスィーに引き返し、父親の葬儀をする。

 葬式や告別式では、故人にまつわるいい思い出が語られるものだ。死の後に、家族や友人は故人に対してもっとも素直に語りかけることができる。もしそれが故人の生前にできたなら・・・。「Mukti Bhawan」を観ていると、「死を待つ人の家」ではそれが実現していると感じた。

 ダヤーとラージーヴの父子は、必ずしも良好な関係を築いていなかった。劇中で多くは語られないが、ダヤーは教師で、ラージーヴはダヤーの教える学校に通っていた時期があることがうかがわれる。そこでダヤーはラージーヴにも厳しく接し、それをラージーヴが恨みに思っているようであった。また、ラージーヴは少年時代、よく詩作をしていたが、ダヤーから褒められなかったため、辞めてしまったようでもあった。

 ムクティ・バワンに滞在するようになり、父子は過去の遺恨をぶつけあうこともあったが、楽しい思い出を語り合うこともあった。すれ違う中にも、心が通い合う瞬間があった。ラージーヴは仕事や家族のことで悩みを抱えつつヴァーラーナスィーに滞在していたが、ダヤーは解放された気持ちで人生の最期を楽しんでいた。その対比は、まだ俗世とつながっている人と、既に俗世から解放された人の違いを際立たせた。結局、ラージーヴはダヤーの死に目に会えず、その点は後悔することになるが、しかし父親と最期の時間を共に過ごせたことは、彼にとって大切な時間となった。仕事のこと、娘の結婚のことなど、ヴァーラーナスィー滞在時にうまく行かなくなったこともあったが、何物にも代えがたい3週間だった。これも、自ら死に向かい、死を能動的に待つ習慣のあるインドならではであった。

 「Mukti Bhawan」は単純に父子の物語ではなかった。他にも家族のメンバーがおり、例えば祖父と孫娘の関係にも多少の時間が割かれていた。だが、面白い効果をもたらしていたのはヴィムラーの存在である。ムクティ・バワンに夫と共にやって来たが、夫の方が先に亡くなってしまい、そのまま18年間住み続けている女性である。ヒンドゥー教では、寡婦は不吉なものとされており、家にいられなくなることも多い。ヴィムラーも、夫の死後に家に戻らなかったのは、そうした理由があったものと思われる。また、度々息子の話題も出て来たが、仕事に忙しいと言及されていたため、彼女を訪ねて来ることも稀だったのだろう。ヴィムラーは、「死ぬにも努力が要る」と愚痴をこぼしながら、自分の死期を静かに待っていた。

 ダヤーとヴィムラーの仲が一線を越えたことも示唆されていた。まさか身体的な関係にまでは至ってないだろうが、二人は共に夜を過ごすこともあった。そうした中、ヴィムラーはやっと死ぬことができた。まるで、人生の最期にダヤーとの出会いを待っていたかのようだった。ダヤーも、ヴィムラーの後を追うように亡くなる。しかも、敢えてラージーヴを家に帰した後、一人でひっそりと息を引き取った。社会的な生き物である人間にとって、死は単純な生物学的な終焉ではなく、人間関係や縁といった様々な要因によって引き起こされるものだと静かに語られていたように感じた。ムクティ・バワンで次々に死んで行く人々の姿を通して、死が生き物のようにこすり出されて行くかのようだった。

 「Mukti Bhawan」では、ヒンドゥー教徒の葬儀に至るまでの過程が描かれており、インドの文化を垣間見る手掛かりにもなる。ヴァーラーナスィーへ行く前に主人公の家族が牛に対して行っていたのはゴーダーン(牛供養)と呼ばれる儀式で、現世の罪を洗い流す行為であり、死への旅の前に行うべきとされているものだ。ヒンドゥー教徒が死ぬと、遺体は担架に乗せられ、遺族などがそれを担いで、火葬場へ運ぶ。その際は「ラーム・ナーム・サティヤ・ハェ(神の名は真実なり)」などと掛け声を掛ける。ヒンドゥー教では遺体は火葬され、灰は河に流される。ヴァーラーナスィーにあるマニカルニカー・ガートという火葬場はもっとも有名である。映画の中でもマニカルニカー・ガートが出て来ていた。また、中盤でダヤーやラージーヴなどが舟から河岸で行われる祭儀を見物するシーンがあるが、これはヴァーラーナスィーにおいて毎夕行われているガンガー・アールティ(ガンジス河礼拝)である。

 主演のアーディル・フサインは、「English Vinglish」(2012年/邦題:マダム・イン・ニューヨーク)などに出演していた演技派男優であり、今回も、祖父のわがままに付き合わされ焦燥感に駆られる中年の息子を巧みに演じていた。その祖父を演じたラリト・ベヘルもベテラン俳優である。また、ヴィムラーを演じたナヴニンドラ・ベヘルもお婆さんだがキュートだった。

 舞台は言わずと知れたヴァーラーナスィーだが、主人公の家族はカンナウジ在住であった。どちらも同じウッタル・プラデーシュ州の都市ではあるが、カンナウジからヴァーラーナスィーまでは400km以上あり、自動車で移動すると、確かに半日掛かりとなる。ただ、列車で移動していなかったのは不思議に感じた。

 「Mukti Bhawan」は、ヴァーラーナスィーの「死を待つ人の家」で死を待ち始めた老齢の父親と、それに付き合わされる息子の人間関係を主軸にしたドラマである。インド本国での一般公開では興行的に振るわなかったようだが、ニューヨーク・インド映画祭で作品賞などを受賞しており、品質は保証付きだ。インドでもっともインドらしいヴァーラーナスィーが舞台になっていることも、外国人にとっては興味深いだろう。観て損はない映画である。