Phantom

3.0
Phantom
「Phantom」

 2008年11月26日。インド人にとって忘れられない日だ。当時インドに住んでいた僕にとっても。それは、ムンバイー同時多発テロが起こった日。パーキスターンから海路、ムンバイーに上陸した10人のテロリストが、市街地で殺戮の限りを尽くした。治安部隊との攻防は3日間続き、164人が死亡、300人以上が負傷した。実行犯の内の一人、アジマル・カサーブが生け捕りにされたのも、この事件を特異なものとした。

 ムンバイー同時多発テロ事件を題材にした映画には、ラーム・ゴーパール・ヴァルマー監督の「The Attacks of 26/11」(2013年)がある。この映画は事件そのものの経過をドキュメンタリータッチで追った作品で、事件を概観するにはいい作品である。一方、2015年8月28日公開の「Phantom」は、ムンバイー同時多発テロ事件を受け、その黒幕に超法規的手段で報復する復讐ファンタジー映画だ。事件の黒幕とされる人物たちを、実名、もしくは、特定できる形で名指しし、しかも映画の中で殺害している。キャッチコピーは「真実だったらと願うストーリー」。過去には、非公式にテロ事件に対処する架空の諜報部隊を描いた「Baby」(2015年)や、1993年のボンベイ同時爆破テロ事件の首謀者とされ、現在パーキスターンに匿われていると信じられているダーウード・イブラーヒームをモデルとしたマフィアのドンを暗殺する物語「D-Day」(2013年)など、同様の映画がある。現実世界でなかなか引導を渡せないテロリストたちを、映画の世界で成敗するという、新たなトレンドが生じているように感じられ、興味深い。

 「Phantom」の監督はカビール・カーン。日本でも公開された「Ek Tha Tiger」(2012年/邦題:タイガー 伝説のスパイ)の監督で、イスラーム教や印パ問題を題材にした映画を好んで作って来ている。「Phantom」より一足先に公開された「Bajrangi Bhaijaan」(2015年)は大ヒットとなっている。作曲はプリータム、作詞はアミターブ・バッターチャーリヤとカウサル・ムニール。

 キャストは、サイフ・アリー・カーン、カトリーナ・カイフ、ムハンマド・ズィーシャーン・アユーブ、サビヤサーチー・チャクラバルティー、ミール・サルワール、Jブランドン・ヒル、シャーナワーズ・プラダーン、ミダト・サーハブなど。ちなみにこの映画は、フサイン・ザイディーの小説「Mumbai Avengers」(2015年)を原作としている。

 2015年。インドの対外諜報機関RAWの局長ロイ(サビヤサーチー・チャクラバルティー)は、ムンバイー同時多発テロ事件の黒幕たちに対して未だに報復できていないことに業を煮やしていた。信頼できる部下たちを集め、会議をする中で、首相官邸には秘密で、非公式に黒幕たちを暗殺する計画を立てることになった。その立案をしたのが若き諜報部員サミト・ミシュラー(ムハンマド・ズィーシャーン・アユーブ)であった。その作戦のために白羽の矢を立てられたのが、元インド陸軍のダニヤール・カーン(サイフ・アリー・カーン)であった。

 ダニヤール・カーンはロンドンに飛び、セキュリティーエージェントのナワーズ・ミストリー(カトリーナ・カイフ)の協力を得て、ムンバイー同時多発テロ実行犯の訓練を行ったサージド・ミール(ミール・サルワール)を、ガス漏れ事故に見せかけて暗殺する。次にダニヤールは米国のシカゴでわざと殺人の容疑を受け、刑務所に入る。そこには、ムンバイー同時多発テロ事件前にインド入りして実地調査を行ったデーヴィッド・ヘードリー(Jブランドン・ヒル)が収容されていた。ダニヤールは、ナワーズからの送金を受けながら、密かに持ち込んだ毒を使ってデーヴィッドを暗殺する。そして予めの打ち合わせ通り、ダニヤールに殺されたとされていた人物を突然出現させ、無罪放免となる。

 いよいよ本丸である、ムンバイー同時多発テロ事件の首謀者、サバーウッディーン・ウムヴィーとハーリス・サイード(シャーナワーズ・プラダーン)の暗殺に計画を移すことになった。しかし、2人はパーキスターンにいるため、何とか同国に忍び込まなければならなかった。ダニヤールは、ヨルダンのベイルートからISの支配下に置かれたシリアに入り、パーキスターン側の諜報機関ISIのエージェントと接触してパーキスターン入りする計画を立てたが、ナワーズが彼を誤って救出してしまい、計画は頓挫してしまう。この事件を機にダニヤール・カーンの存在が印パ両国にも知れ渡ることになり、ロイは作戦中止を決断する。

 ところが、ダニヤールはナワーズの協力を得てパーキスターンに入国していた。ラホールのエージェント、カーリド(ミダト・サーハブ)の協力を得てサバーウッディーンとハーリスを同時に暗殺する計画を立てる。多少の計算違いもあったが、二人の暗殺に成功し、ダニヤールとナワーズは脱出を試みる。このときまでにはISIもダニヤールがパーキスターン入りしていることに気付いており、彼は追われる身となっていた。二人は陸路でカラーチーまで行き、そこから海路でインドを目指す。しかし、途中でパーキスターン海軍に見つかりそうになる。このときナワーズをかばって傷を負ったダニヤールは、彼女をインド海軍の潜水艦に送り届けるのと引き替えに海の底へと沈んで行く。

 前作「Bajrangi Bhaijaan」は、インド映画史上、もっとも親パーキスターン的な映画だった。「Phantom」も、決してパーキスターンを頭から敵国扱いしている訳ではない。明確に敵として設定されているのは、インドでテロを行ったテロリストたちである。国家もしくは諜報機関とテロ組織との癒着が描かれてはいるが、それを責めるような論調ではなかった。しかしながら、パーキスターン政府としては面白くない内容であろう。「Bajrangi Bhaijaan」はパーキスターンでも公開されて大ヒットとなったが、当然「Phantom」は公開が禁止された。映画の質から言っても、「Phantom」は「Bajrangi Bhaijaan」に遠く及ばない。スパイ映画としてもアクション映画としても中途半端で、演技の面においても光るものは感じられなかった。

 それでも、カビール・カーン監督の作品でいつも目を引かれるのは、ロケーションである。リアルなロケーションでの撮影をモットーとしており、今までアフガニスタン、トルコ、タイ、アイルランド、キューバなど、世界各国でのロケを敢行している。この「Phantom」でも、ヨルダンからわざわざシリアの国境地帯まで行って撮影を行っているし、ベイルート市街地での撮影も臨場感があった。また、冒頭のカーチェイスシーンは、カナダのヴァンクーヴァーで撮影したようである。インド国内でもロケ地を開拓している。特にパーキスターンのシーンをパーキスターンで撮影するのは困難であるため、どうしてもインドで撮る必要が出て来る。「Bajrangi Bhaijaan」ではラージャスターン州マンダーワー(Mandawa)で撮影が行われたが、「Phantom」ではパンジャーブ州マレールコートラー(Malerkotla)がロケ地となったようである。どちらも映画の雰囲気に合ったロケーションであった。カビール・カーンは、インド映画業界内ではもっとも冒険的なロケ選びをしている監督だと言える。

 ストーリーに取り立てて工夫はない。冒頭、サイフ・アリー・カーン演じるダニヤール・カーンがカーチェイスの末に人を川から突き落とし、刑務所に入れられるシーンから、過去に話が飛び、それには深い理由があったことが語られる。その辺が、唯一の工夫だっただろうか。とは言っても、容易に予想が付く展開だった。サイフ・アリー・カーンの演技は固かったし、カビール・カーン監督のお気に入りであるカトリーナ・カイフも気の抜けた演技しか見せていなかった。

 「Phantom」でダニヤール・カーンに殺された面々にはそれぞれモデルがいる。劇中で扇情的な演説を行っていたハーリス・サイードのモデルは、テロ組織に認定されているジャマートゥッダーワー(JuD)の首領、ハーフィズ・ムハンマド・サイードだ。一方、注射によって殺されたサバーウッディーン・ウムヴィーは、テロ組織ラシュカレ・タイイバ(LeT)の指導者、ザキーウッレヘマーン・ラクヴィーをモデルにしている。これらの組織は、ムンバイー同時多発テロを計画したとされている。また、実名で登場していたのがサージド・ミールとデーヴィッド・ヘードリーである。サージド・ミールはLeTの初期メンバーの一人で、いくつものパスポートを持ち、顔を整形して世界中を逃げ回っている。デーヴィッド・ヘードリーは米国人とパーキスターン人のハーフで、その欧米人風の名前を使ってインドにまんまと入国し、テロの下調べをした。現実世界のデーヴィッドは米国で拘束されていたが、司法取引により証人となって、米国やインドに重要な情報を提供している。

 「Phantom」は、テロに悩まされるインドが、鬱憤を晴らすための現実逃避として最近力を入れている復讐ファンタジーの最新作だ。2008年のムンバイー同時多発テロの黒幕たちを非公式に暗殺して行くという内容であるが、現実世界とは剥離しているため、余計空しくなるところもある。また、パーキスターンがこの映画を面白く思わないのも当然だ。リアルなロケーションにこだわるカビール・カーン監督の姿勢には素直に拍手を送りたい。だが、他に取り立てて褒めるところのない作品である。興行的にも「アベレージ」の評価となっている。