Kaun Kitney Paani Mein

3.0
Kaun Kitney Paani Mein
「Kaun Kitney Paani Mein」

 インドは多くの問題を抱えているが、水もそのひとつだ。工場排水や生活排水などによる河川の汚染、灌漑の未整備に起因するモンスーン頼みの農業、規制なき井戸掘削・汲み上げによる地下水の水位低下、劣悪な上下水道インフラ、水不足にかこつけて暴利をむさぼる水マフィア、河川を共有する州の間での水の取り合い、水資源を巡る中国との摩擦など、様々なレベルの水問題があるが、端的に言えば、12億人の人口に、必要かつ安全な水を恒常的に届けられない状況にあるということだ。言うまでもなく、水は命の源であり、水がなければ生き物は生きられない。水はインド文明の中核をなす物質であり、他のどの文明よりも水を尊重する文化を育んで来た。それにも関わらず、情けないことに、インドの水問題はどの国にもまして深刻であり、今後ますます酷くなることが容易に推測される。

 映画界も水問題に関心を寄せ始めている。例えば、「エリザベス」(1998年)などで有名なインド人監督シェーカル・カプールが、水不足が危機的なレベルにまで達した2040年の世界を舞台にしていると言われる映画「Paani」を制作中である。これがどのような作品になるか分からないが、実は「Paani」を待たずして、ひとつ水問題を考える上で参考になる作品がある。2015年8月28日公開のヒンディー語映画「Kaun Kitney Paani Mein」である。題名を直訳すると「誰がどれだけの水の中に」。これは、「誰がどのような状況にいるのか」という意味の慣用句であるが、この映画に関しては直訳の方が内容をよく示しているだろう。

 「Kaun Kitney Paani Mein」の監督はニーラ・マーダブ・パンダー。「I Am Kalam」(2011年)や「Jalpari」(2012年)などの子供向け映画を得意とする監督だが、この「Kaun Kitney Paani Mein」は大人向けの映画だ。キャストはクナール・カプール、ラーディカー・アープテー、サウラブ・シュクラー、グルシャン・グローヴァー、ヘーマー・スィンなど。

 オリシャー州のとある村は、丘の上にあるウプリー(上)と、丘の下にあるバイリー(外)に分かれており、その間には石の壁が設けられていた。かつて、ウプリーに住む王の娘が、アウトカーストの男と恋に落ち、それが発覚したことで、騒動が起こったことがあった。王はその男と娘の両方を殺し、二度と低地に住む不可触民が入って来られないように、ウプリーとバイリーの境界に石の壁を作らせたのだった。このことから、バイリーの人々はウプリーの人々を心の底から憎むようになった。

 ところが、ウプリーに住む者は、王から民まで怠け者だった。この地方では雨量が少なかったが、ウプリーの者たちは水に大した注意を払わず、遊び暮らした。一方、バイリーに住む不可触民たちは、カールー・ペヘルワーン(グルシャン・グローヴァー)のリーダーシップの下、貯水池を作って、年に数度降る雨を大切に蓄えた。それから一世代後、ブラジ・スィンデーオ(サウラブ・シュクラー)の治世には、ウプリーの土地は全て干上がってしまったが、バイリーは緑豊かな農地に恵まれるようになった。水不足が深刻化したウプリーでは、水の袋が貨幣として流通するようになった一方で、バイリーで収穫された米はジャガンナート寺院への奉納が認められるほど高い評価を受けるようになった。カールーは、ロークヒト党から出馬し、州議会議員になることを夢見るようになった。

 ブラジ・スィンデーオは、ウプリーの土地を売り払って都会に移住したいと考えていたが、水のない土地を誰も買おうとしなかった。彼はウプリーの窮状を何とかするため、息子のラージ・スィンデーオ(クナール・カプール)を使って策略を巡らす。それは、カールーの娘パーロー(ラーディカー・アープテー)を口説いて妊娠させ、結婚を懇願しに来るカールーを意のままに操るという低俗なものであった。そこでブラジ・スィンデーオは公衆の面前でわざとラージとの喧嘩を演出する。ラージは父親と絶縁したと見せ掛け、バイリーに転がり込む。そこでロークヒト党に入党し、カールーの手下として働くようになる。ラージとパーローは出会い、二人の間は自然に接近して行く。ラージは、ウプリーとバイリーの融和によって問題を解決する道を探るようになる。ブラジ・スィンデーオもそれに乗り、必要な人員を集める。

 州議会選挙が近づいていた。ロークヒト党の党首アムリター・デーヴィー(ヘーマー・スィン)に気に入られたラージは、ウプリーとバイリーの融和のために彼女の力も借りる。あるときラージはカールーに、パーローと結婚したいと切り出し、カールーの怒りを買う。ラージとパーローは閉じ込められ、怒ったカールーは武器を持ち、バイリーの民たちを連れてウプリーに乗り込もうとする。一方、ウプリーの民たちも武器を取り、バイリーの民に立ち向かう。カールーとバイリーの民は、石の壁を破壊し、ウプリーに侵入する。その裏でラージとパーローは何とか逃げ出し、ウプリーにあるビハーイー女神寺院まで行く。そこでは全ての準備が整っていた。ウプリーの民とバイリーの民が刃を交えたそのとき、ビハーイー女神が乗り移ったように見せ掛けたパンディト(僧侶)が女神の声(実際にはウプリーに住む売春婦グラービーの声)で、ウプリーとバイリーの間の争いをやめ、ラージとパーローの結婚を認めるように命令する。信心深い村人たちはそれを信じ、争いをやめて手を合わせる。奇跡を演出するため、村人たちの前で水を降らせる。

 こうしてウプリーとバイリーの争いに終止符が打たれ、ウプリーの水不足も解消した。ラージとパーローは結婚し、ブラジ・スィンデーオとカールー・ペヘルワーンも仲直りした。

 かつて、「Matrubhoomi」(2003年)という映画があった。インドでは、花嫁側から花婿側に贈る持参金の問題などから、女児の出産を喜ばない風潮があり、それが女児堕胎へとつながっている。「Matrubhoomi」は、女児堕胎を繰り返していた村から、遂に女性がいなくなってしまったという、極端な設定の物語だった。もちろん、女性が全くいなくなった村というのは、今でもインドにおいて現実のものとはなっていないと信じたいが、それに近いことは男女比のいびつな地域から起こって来ている。結婚適齢期の男性の人口だけが増え、深刻な嫁不足となっているのである。「Matrubhoomi」は、完全なフィクションながら、容易に想像し得る未来を描き、時代に即した警鐘を鳴らすことに成功した作品だった。

 「Kaun Kitney Paani Mein」も、水不足が深刻化するあまり、水が貨幣として流通するようになった村を描いており、「Matrubhoomi」を思わせる極端な設定が売りの映画である。ただ、水がないと人間は生きて行けないし、他の様々なこともできなくなるため、水が貨幣として流通するような極端な状況をすんなり受け容れることは難しかった。例えば、劇中ではソーダ水よりも水の方が貴重であるようにほのめかされていたが、ソーダ水が手に入るならば、水もペットボトルで手に入るのではなかろうか。水が貨幣となった村という発想は面白いのだが、水がなければ今あるあれがこうなるといった想像力をもっと働かせて、そのような状況をスクリーンで細部に渡って再現すると良かった。

 水不足は天災であると同時に人災であることがウプリーとバイリーの対比において強調されていた。では、バイリーの民は雨の希少な土地で何をしたのか。それは、雨水を蓄え、それを生活や農業に使うことだ。いわゆるレインウォーター・ハーベスティングである。これはインドが今もっとも必要としている技術であり、この映画によって部分的にでもそれが示されたことは無意味ではないと思われる。残念ながら「Kaun Kitney Paani Mein」はヒットしなかった映画だが、何かのきっかけで、水不足に悩む地域の農民などがこれを観れば、ヒントが得られるのではないかと思う。

 「Kaun Kitney Paani Mein」は、水問題の映画であると同時に、カースト問題の映画でもある。「Manjhi: The Mountain Man」(2015年)もそうだったが、露骨なカースト差別を描いており、いかにインドにおいて低カースト者やアウトカースト者が酷い扱いを受けて来たかを垣間見ることができる。カースト間結婚の不幸な末路となる名誉殺人のシーンもあった。ただ、この映画は単にカースト差別を赤裸々に描写したものではない。上位カースト者が怠慢で、水というもっとも大切な物質の確保においてもその怠慢さを発揮したがために、いつの間にか立場が逆転し、不可触民として差別されて来た者が今では裕福な生活を送っている様子も描かれていた。この逆転現象は、現実社会に通じるところがある。特に、今まで差別を受けて来た人々は、留保制度の導入と拡大によって進学や就職の際に優遇されており、逆に上位カースト者が不利益を被る場面が多くなって来ている。インドの社会は、まるでウプリーとバイリーの間に立てられた石の壁のように、留保制度を享受できる層と留保制度から除外されている層に大別されるようになり、近年では特定のコミュニティーが運動によって留保制度を獲得しようとする動きが盛んになって来ている。

 まとめ方についてはもうひとひねり欲しかったと思う。迷信深い村人たちを騙すような形で無理矢理騒動を終わらせていたが、この迷信深さも、言ってみればインドが抱えるひとつの問題である。水問題やカースト問題を解決するために、すぐに迷信を信じるインド人の問題ある習性をツールとして使ってしまうのは、いかがなものであろうか。しかも、それを画策したのは、マハーラージャーと政治家が結託したグループであり、まんまと計画がうまく行ってほくそ笑む彼らの姿をエンディングで映し出すことは、結局は権力者は権力を握る続けるという、いささか味気ない結論につながりはしないか。

 「Kaun Kitney Paani Mein」は、水が貨幣となるまで水不足が深刻化した村を描いたフィクションの映画である。とは言っても、映画が取り上げる問題は水だけでなく、カースト制度や名誉殺人などにも踏み込んで問題を浮き彫りにしようと努力している。不可触民が働くことで力を持ち、上位カーストと肩を並べる勢力となった点は、現実社会を如実に反映していると言える。興行的にはほとんど鳴かず飛ばずの作品だったが、一見するに値する。