Himmatwala

3.0
Himmatwala
「Himmatwala」

 ヒンディー語映画の暗黒時代は1980年代とされている。テレビやビデオの普及により中上流層が映画館に足を運ばなくなり、映画はテレビやビデオを買うことができない貧困層をターゲットにしなければ売れなくなってしまった。その上、海賊版ビデオが爆発的に流通し、映画業界の収入を奪い去った。南インド映画界から女優や監督が大挙してヒンディー語映画に進出し、低レベルな映画を量産したのもこの頃である。ヒンディー語映画がネガティブなイメージと共に語られる際に想定される特徴の多くは、この1980年代に醸成されたものだと言ってもいいだろう。

 だが、その後「Hum Aapke Hain Koun..!」(1994年)や「Dilwale Dulhania Le Jayenge」(1995年)などの大ヒットにより、中上流層が映画館に回帰し、海外市場にも活路が見出されるようになった。ヒンディー語映画界は、作品から貧困の匂いや不幸の影を消し去り、悪役を設定せず、富裕層や海外在住移民を主人公にした、フィールグッドな映画を作るようになった。マルチプレックスの普及もこの流れを推し進め、ヒンディー語映画は中上流層をターゲットにした映画作りに専念し始めた。だが、当然のことながら、今度は下流層が映画から置き去りにされることになった。

 その流れに変化が表れた年を僕は2008年だと考えている。具体的な作品名を挙げるならば「Ghajini」(2008年)だ。南インド映画をリメイクしたアクション・ロマンス映画で、大ヒットした。この作品は同年最後の週に公開されたため、実質的には2009年としていいかもれしれない。いつの間にかマルチプレックスは大都市限定のものではなくなっており、地方の中小都市にまで拡大していた。それに伴い、マルチプレックスで映画を鑑賞する層の趣向も、総合して平均値を算出すると変化が生じるようになった。ヒンディー語映画界が「低俗」として長らく敬遠していたアクション映画がヒットするようになり、「Ghajini」を皮切りに、さらに多くのアクション映画が量産され始めた。ネタ元の多くは南インドのアクション映画だったが、ヒンディー語映画の暗黒時代に作られたヒンディー語アクション映画のリメイクも作られるようになった。「Agneepath」(2012年)がその代表例だ。

 2013年3月29日に公開された「Himmatwala」も、いわゆる暗黒時代のヒンディー語アクション映画のリメイクとなる。同名の映画が1983年に公開されている。この1983年の「Himmatwala」を撮ったKラーガヴェーンドラ・ラーオ監督は例によって南インド人であり、自身が監督したテルグ語映画「Ooriki Monagadu」(1981年)をリメイクした。主演はジーテーンドラとシュリーデーヴィー。1980年代を代表する大ヒット作となったと記録されている。2013年の「Himmatwala」は、確実にポスト「Ghajini」以降のトレンドに乗っかった形でのリメイクである。

 2013年の「Himmatwala」の監督はサージド・カーン。「Heyy Babyy」(2007年)や「Housefull」シリーズなど、安っぽいコメディー映画で名を売って来た人物だ。「Himmatwala」も、アクション映画である以上にコメディー映画である。音楽はサージド・ワージドとサチン・ジガル。作詞はサミール、マユール・プリー、インディーヴァル。主演はアジャイ・デーヴガン。ヒロインは南インド映画界で活躍しているタマンナーで、本作が実質的なヒンディー語映画デビュー作となる。その他のキャストは、パレーシュ・ラーワル、マヘーシュ・マーンジュレーカル、アディヤヤン・スマン、ザリーナー・ワッハーブ、リーナー・ジュマーニー、アニル・ダワン、アスラーニーなど。リテーシュ・デーシュムクとチャンキー・パーンデーイが特別出演している他、アイテムガールとして、ソーナークシー・スィナーを始めとして、スルヴィーン・チャーウラー、アムルター・カーンヴィルカル、サヤンタニー・ゴーシュ、リンクー・ゴーシュ、モーナー・ティバーが出演している。題名の「Himmatwala」とは、「勇気ある者」「勇者」という意味である。

 時は1983年。ラームナガルは、サルパンチ(村長)のシェール・スィン(マヘーシュ・マーンジュレーカル)に暴力と恐怖によって支配されていた。村人たちの土地は借金の担保としてシェール・スィンに差し押さえられており、誰も彼に逆らえなかった。シェール・スィンの嫁弟ナーラーヤン・ダース(パレーシュ・ラーワル)は、シェール・スィンの権威を盾に威張り散らしていた。また、シェール・スィンの娘レーカー(タマンナー)は貧乏人を毛嫌いしており、村人たちをいじめてばかりいた。

 あるとき、ラームナガルに謎の男がやって来た。彼は村に着くなり、サーヴィトリーという女性を捜し始めた。サーヴィトリー(ザリーナー・ワッハーブ)は娘のパドマー(リーナー・ジュマーニー)と共に村外れに住んでいた。その男は、サーヴィトリーを見つけると、自分は息子のラヴィ(アジャイ・デーヴガン)と名乗る。

 彼らが生き別れになった経緯はこうだった。ラヴィの父親ダラムムールティ(アニル・ダワン)は寺院の僧侶で村人たちから慕われていた。ある日ダラムムールティはシェール・スィンが殺人をする現場を目撃し、通報しようとする。するとシェール・スィンはダラムムールティに泥棒の濡れ衣を着せ、村からの追放を無理矢理決定させる。それにショックを受けたダラムムールティは自殺してしまう。息子のラヴィはシェール・スィンに復讐しようとするが失敗し、逆に彼の家は焼き討ちに遭う。ラヴィは逃げ出すが、母親と妹は家の中に取り残されてしまった。ラヴィはサーヴィトリーとパドマーが死んだと思ったため、その後、二度と村に戻ることはなかった。だが、実際には2人は生きていた。彼女たちはシェール・スィンによって村から追い出されたため、村外れに住まざるを得なかった。

 それを聞いたラヴィはすぐにシェール・スィンを殺そうとするが、サーヴィトリーはそれを止める。彼女は、シェール・スィンの死ではなく、父親の汚名をシェール・スィンの口から晴らすことを望んでいた。そこでラヴィは中央捜査局(CBI)のオフィサーの振りをしてシェール・スィンやナーラーヤン・ダースを脅す。次にラヴィは公衆の面前でレーカーに恥をかかせる。シェール・スィンはラヴィを買収しようとするが、ラヴィは自分がCBIのオフィサーではなく、ダラムムールティの息子であることを明かし、さらに彼を怯えさせる。レーカーは虎を村に放ってラヴィに挑戦するが、逆に彼女は虎に襲われそうになり、ラヴィに助けられる。この一件をきっかけに、ラヴィは村のヒーローとなり、レーカーはラヴィに惚れてしまう。このままではシェール・スィンは次のサルパンチ選挙でラヴィに負けてしまいそうだった。

 その頃、イクバールおじさんがハッジから帰って来る。実はイクバールおじさんこそがボンベイでラヴィと出会い、母親と妹が生きていると告げた張本人であった。しかし、彼は本物のラヴィ(リテーシュ・デーシュムク)を見ていた。なんと、現在ラームナガルに来ているラヴィはラヴィではなかったのである。イクバールおじさんはそれをパドマーに告げる。パドマーが偽のラヴィに問い質すと、彼はラヴィの振りをして村に戻った理由を語り出す。

 彼とラヴィはボンベイの孤児院で共に育った仲で、彼はストリートファイターとして、ラヴィは胴元として生計を立てていた。あるとき二人がボンベイの街を歩いていると、ハッジ(巡礼)のためにボンベイに立ち寄ったイクバールおじさんと偶然出会う。イクバールおじさんはラヴィに、母親と妹が生きていることを教え、ハッジに旅立つ。ラヴィは村に帰ろうとするが、そのとき交通事故に遭って死んでしまう。ラヴィは死ぬ前に彼に、ラヴィとなって村に戻るように頼む。こうして家族に飢えていた彼は、ラヴィとしてラームナガルに降り立ったのだった。

 パドマーはそれを聞いても彼を兄とは認められなかったが、悪漢から強姦されそうになったのを彼に助けてもらったことをきっかけに彼をラヴィとして、そして兄として認める(彼の本名は明かされないため、以下、アジャイ・デーヴガンが演じる人物を引き続きラヴィと呼ぶ)。

 ところで、パドマーはナーラーヤン・ダースの息子シャクティ(アディヤヤン・スマン)と密かに恋仲にあった。それを知ったラヴィは最初激怒するが、パドマーが本当にシャクティのことを愛していると知り、ナーラーヤン・ダースに二人の縁談を持ち掛ける。シェール・スィンはラヴィに復讐するチャンスと見て、ナーラーヤン・ダースに二人の結婚を認めさせる。嫁入りしたパドマーはナーラーヤン・ダースやシャクティにこき使われることとなった。しかもシャクティは、次のサルパンチ選挙にラヴィが立候補しないようにしないと離婚すると脅す。ラヴィは妹のために立候補を辞退しようとするが、パドマーはそれを止める。

 ラヴィはレーカーと協力してパドマーを救うことを決める。レーカーは父親に、妊娠したと嘘を付き、相手はラヴィであると明かす。困ったシェール・スィンは、レーカーとラヴィを結婚させようとする。だが、ラヴィはそのために条件を出した。それは、パドマーがやらされている家事全般をナーラーヤン・ダースとシャクティが行うことであった。シェール・スィンに命令されて、ナーラーヤン・ダースとシャクティは仕方なく掃除などをする。そのままの勢いでラヴィはシェール・スィンに追加で条件を出し、村人たちに土地を返させた他、サルパンチへの立候補を辞退させる。こうしてラヴィはラームナガルのサルパンチに就任する。

 ところが、ラヴィが本当はラヴィでないこと、レーカーの妊娠が嘘であることがシェール・スィンにばれてしまう。シェール・スィンはサーヴィトリーにそれを知らせるが、彼女は逆に彼を息子として受け容れる。そこに駆け付けたナーラーヤン・ダースとシャクティは何人ものストリートファイターたちを連れて来ていた。彼らは一斉にラヴィに襲い掛かる。ラヴィは一瞬ピンチに陥るが、以前レーカーによって村に放たれた虎が救援に駆け付け、ストリートファイターたちを一網打尽とする。ラヴィはシェール・スィンを殺そうとするが、サーヴィトリーはそれを止める。以後、シェール・スィンは心を入れ替え、村人たちのために尽くすようになる。

 1983年に作られた映画を1983年の時間軸そのままにリメイクするという、近年のリメイク映画の中では珍しい手法を採っていた。しかも、多くの映画人たちから「暗黒時代」と揶揄される80年代の悪しきスタイルまで踏襲している。アクションあり、笑いあり、涙あり、恋愛あり、そして最後は神様で閉める、「マサーラー映画」の典型例だ。普通に考えたら大失敗作になるはずで、果たしてその通り、興行的にも批評家的にも惨敗の作品であった。

 ただ、僕は意外に楽しめた。アクションよりもコメディーに力を入れたおかげであろう、チープな展開に対する許容度が他のジャンルの映画に比べて高くなって様々な欠点に目をつむることができたのがその大きな原因だと思われる。アクションコメディーというジャンルでは、ローヒト・シェッティー監督の「Golmaal」シリーズが最先端を行っている。その主役を務め続けているのが他でもないアジャイ・デーヴガンであり、彼を本作でも起用したことで、コミカルな展開を受け容れることが容易となった。また、コメディアンとしてはヒンディー語映画界で一級のパレーシュ・ラーワルにフリーハンドを与えたことも、コメディー映画としての強みを助けることになった。だが、何を置いてもまず、インドで長らく様々なヒンディー語映画を鑑賞している内に、この種の映画も楽しむことができるような能力――むしろ「慣れ」に近いもの――を身に付けてしまったからであろう。こういう映画が楽しめるかどうかが、インド映画にはまるか否かの大きな分かれ目になると感じる。

 僕は原作の方の「Himmatwala」を観たことがないので、比較することができないのだが、2013年の「Himmatwala」で特に興味を引かれたのが、女性問題への言及だった。ほとんど通りすがりのような言及ではあったが、パドマーの強姦未遂シーンは明らかに2012年12月にデリーで発生した集団強姦事件を意識している。あの事件が社会に与えた影響は非常に大きく、映画界にもその影響が表れることは予想されたが、これほど早く反映されるのは驚きである。事件発生後から3~4ヶ月しか経っていない。また、パドマーが嫁入り先でいじめられるシーンも、女性問題と密接に関わっている。劇中では、救世主のような一人の最強男が現れて全てを解決してしまうので、現実的な解決法は何も提示されていない。また、原作の方でも同様のシーンがあったのか分からない。しかしながら、デリー集団強姦事件が最も早く映画に取り込まれた例として記憶しておいてもいいだろう。

 あまり褒めるところのない映画だが、台詞回しだけは素晴らしかった。サージド・カーン監督作品を始めとして、ヒンディー語のコメディー映画は概して台詞が緻密に組み立てられていることが多く、それらのニュアンスをひとつひとつ正確に読み取って楽しめるようになると、その面白さが分かって来る。インド映画の中でコメディー映画が最も理解するのにハードルの高いジャンルである。それ故に僕はコメディー映画を「ヒンディー語映画の真髄」と呼んでいる。外国人がヒンディー語を学ぶ際、ヒンディー語コメディー映画を観てどれだけインド人と同じタイミングで笑うことができるかが、語学力達成度の重要な指標となる。

 「Himmatwala」の台詞で特にこだわっていたのは言語ネタや地域ネタだ。例えばレーカーが結婚式を妨害する場面では、彼女の部下たちが様々な言語で啖呵を切る。マラーティー語、パンジャービー語、タミル語などである。彼らを打ちのめした後、ラヴィはそれぞれの言語で勝ち台詞を言う。英語字幕が出るので、大体の内容は分かるが、このような言語ネタは意外にインド映画で少なく、面白い例である。また、5人のアイテムガールが出演するダンスシーン「Dhoka Dhoka」では、5人がそれぞれパンジャーブ州、マハーラーシュトラ州、西ベンガル州、ビハール州、グジャラート州を代表している形になっている。それに加えてパレーシュ・ラーワル演じるナーラーヤン・ダースは、インドの地名を使ったダジャレのような台詞をしゃべっており、面白おかしい。

 1983年という時代設定についても少し切り込んでおいた方がいいだろう。劇中ではマイケル・ジャイキシャンなるマイケル・ジャクソンの偽物キャラ(チャンキー・パーンデーイ)が登場していたが、正にこの頃、「スリラー」などでマイケル・ジャクソンが世界中で大フィーバーとなっており、インドでもテレビの普及と同調して人気が沸騰していた。原作の「Himmatwala」が公開されたのもこの年で、劇中でもこの映画の名前が言及されているし、当時の物価の安さも感じさせられる台詞が時々出て来る(2,000ルピーは大金だ、など)。また、この頃はまだインドにおいて銃器が一般に出回っておらず、ギャング同士の争いも刃物での殺傷が主流だった。徐々に犯罪者たちが銃器を手にして行く様子は、「Gangs of Wasseypur」(2012年)によく描かれている。「Himmatwala」にひとつも銃器が登場しないのは、そういう理由からだと考えていいだろう。村には電柱はあるが電気が来ていない、ということも言われていたが、それも1983年という時代設定が成せる技だ。

 さすがに「Himmatwala」は万人向けの映画ではないが、世間で言われているほど悪い映画でもない。2008年頃から始まった南インド映画&過去映画リメイクのトレンドの一角に位置する映画であり、その流れを理解する上では一定の意義を持った作品だ。台詞回しの妙があるため、コメディー映画として観れば佳作で、その上アクションや涙がオマケで付いて来るので、得した気分になれる。捨てるに捨て切れない、妙な愛嬌のある映画であった。