Cosmic Sex

4.5

 アッサミー語映画「Local Kung Fu」(2012年)に引き続き、オシアンス・シネファン映画祭でベンガリー語映画「Cosmic Sex」を鑑賞した。今回がワールドプレミア、つまり世界初上映となる。ネット上にあまり情報がなく、キャストやクルーなども大部分が不明だが、今回の映画祭において最もセンセーショナルな作品であることには間違いない。

監督:アミターブ・チャクラボルティー
出演:リーなど
備考:スィーリー・フォート・オーディトリアム1で鑑賞。オシアンス映画祭。

 コルカタに住むクリパーは1年前に母親を亡くし、そのトラウマから抜け出せずにいた。父親のスダーンシュはサラーという女性と再婚した。クリパーはひょんなことからスダーンシュと取っ組み合いになってしまい、父親を殺してしまう。クリパーはショック状態のまま家から逃げ出す。

 クリパーが道端で出会ったのがデーヴィーという売春婦であった。デーヴィーは彼を自分の家まで連れて帰り、セックスをする。ところがデーヴィーの住む娼館の主でヒジュラーのジョーナキーがクリパーに一目惚れしてしまい、部屋に乱入して来る。取っ組み合いの中でクリパーはジョーナキーを階下に突き落としてしまう。クリパーはまた脱走する。

 街中を彷徨う中で、クリパーは死んだ母親にそっくりの女性を見つけ、後を付ける。彼女の名前はサーダナー(リー)といい、デーハタットヴァ(性交によって解脱を得る密教)の修道女であった。サーダナーはビールブームに住む行者ラーフル・バーバーの養女で、彼からデーハタットヴァを伝授されたのだが、ラーフル・バーバーの死をきっかけにコルカタへ来ていた。サーダナーは、殺人を犯して行き場を失ったクリパーを受け容れ、彼にデーハタットヴァの手解きをする。クリパーはサーダナーの肉体を通し、性欲をコントロールしながら性交をする術を習う。

 その内クリパーはスダーンシュが死んでいないことが分かる。スダーンシュはクリパーの捜索願を出し、テレビにも出て、クリパーに家に帰るように訴える。クリパーは父親に電話をし、無事であることを伝える。そして父親を公園に呼び出す。スダーンシュは、クリパーが死んだ母親と一緒にいるのを見て幽霊だと勘違いして逃げ出す。クリパーは父親を追い掛けるが、それを止めたのがジョーナキーであった。ジョーナキーも死んでおらず、クリパーを必死に探していたのだった。

 クリパーはジョーナキーの求愛を拒絶し、サーダナーと共にラーフル・バーバーの修道場へ向かう。ところがジョーナキーとその手下たちも後を付けて来ていた。乱闘の中でサーダナーは腹をナイフで刺されてしまう。クリパーはジョーナキーたちを追い返し、サーダナーをラーフル・バーバーの修道場まで送り届けようと必死になる。

 題名に「セックス」とあるが、インド映画のことだからそこまで過激な内容でもないだろうと高を括っていた。ところが、はっきり言って内容や映像の方はさらにセンセーショナルで、度肝を抜かれた。何しろ女優のフルヌード(バストからヘアまで)が惜しげもなく映し出されるし、セックスシーンも堂々と描写されている。もちろん、スピリチュアルなタッチで描かれており、ブルーフィルムという訳ではないのだが、インド映画でここまで踏み込んだ性描写に挑戦した映画を今まで観たことがなかったので腰を抜かしてしまった。ベンガリー語映画にはほとんどタッチしていないのだが、性描写においてはもしかしたらインド映画の中で最も進んでいるのかもしれない。

 どうやらサードナーを演じたリー(本名はリトゥパルナー・セーン)という女優がヘアヌードやベッドシーンを厭わない大胆な演技でこの分野を牽引しているようだ。リーはバイセクシャルを公言している。彼女の出演作に興味が沸いたので、彼女が主演し、同じく過激な性描写のあるベンガリー語映画「Gandu」(2010年)や、ドキュメンタリータッチでインド人の性愛を追った作品「Love In India」(2009年)などをネットで探して観てみたが、やはりヒンディー語映画ではちょっと見られないような性描写がいくつもあった。特に「Love In India」のテーマはこの「Cosmic Sex」と共通しており、理解の手助けとなる。ただし、監督は異なる。ちなみに、「Love In India」や「Gandu」の監督であるQ(本名はカウシク・ムカルジー)は、リーの恋人である。

 この映画のキーワードは性欲である。純朴な青年クリパーの視点を通し、人間の性欲が深く掘り下げられて行く。まず、マハートマー・ガーンディーのブラフマチャリヤ(禁欲)が議論に上がる。ガーンディーは晩年、性欲を克服するため、2人の若い女性と共に裸で寝ていた。ガーンディーにとって、性欲のコントロールはセックスをしないことで実現するものであった。クリパーはガーンディーのその奇妙な実験に疑問を感じ、継母に質問を投げ掛ける。継母はクリパーに対し、ガーンディーではなくセックスに興味があるのではないかと見透かしたように質問を返す。その後、クリパーは売春婦と出会い、性欲に身を任せたセックスを経験する。だが、さらにその後にクリパーは死んだ母親にそっくりな女性サーダナーと出会い、彼女からデーハタットヴァの手解きを受ける。

 デーハタットヴァとはベンガル地方に根付く密教のひとつの思想である。ベンガル地方の密教には、ヒンドゥー教、イスラーム教、仏教など、様々な要素が入り込んでいるため、それを何教の何派として分類することは難しいが、少なくともこの映画ではデーハタットヴァの師はイスラーム教徒であった。ベンガル地方に伝わる民謡バウルにもデーハタットヴァの哲学を歌った歌詞があり、それは劇中でも効果的に使われる。インドの神秘主義においては、神と人は元々同一のもので、地上に降り立った人は形を持たない神と分かれ、一時的に肉体を持った存在だとされる。よって、人の究極の目的は神との再合一を果たすこととなる。この辺りは神秘主義に共通した考え方なのだが、デーハタットヴァで特徴的なのは、身体が特に重視されることである。しかも、シンプルな男性の身体に比べて、複雑な女性の身体こそが最も重要とされ、神との再合一において鍵となると考えられている。女性の身体は生理の期間以外はエネルギーが内へ流れ、男性の身体は常にエネルギーが外に流れる。よって、女性の生理期間を除き、男性器と女性器を合わせることで、この流れを結合することが出来る。しかし、精液を出してはならない。性欲をコントロールし、オルガスムスを抑え、エネルギーを維持して上方に引っ張ることで、やがて神との合一が果たせる。「Cosmic Sex」や「Love In India」で語られていたことをまとめると以上のようになるだろう。

 つまり、セックスをしないことで性欲を克服しようとするガーンディーのブラフマチャリヤに疑問を感じていたクリパーは、サーダナーから、セックスをすることで性欲を解脱のエネルギーへと昇華する方法を学び、こちらの方に真実を見出すのである。

 残念だったのはエンディングであった。せっかく緻密に描写をして来たのに、最後は訳の分からない痴話喧嘩の末、サーダナーが瀕死の重傷を負ってしまい、死んだのか死なないのか分からない内に幕が閉じられてしまう。ほとんど余韻がなく、呆気なく終わってしまった。しかしながら、総じて評価すれば、インドの社会において表立って語られない性欲を、インドの底辺に流れる思想を用いて再定義しようとする試みは素晴らしく、一級の作品だと言える。

 今から15年前にミーラー・ナーイル監督の「Kama Sutra: A Tale of Love」(1996年)が「カーマ・スートラ/愛の教科書」の邦題で日本で一般公開され、OLを中心に人気を博したと言う。おそらくこの「Cosmic Sex」も日本で公開するに値する作品だと思う。エンディングは「Kama Sutra」の方が上だが、性交を通して解脱を得ると言う哲学的な部分では「Cosmic Sex」の方が勝っている。ついでに言えば、「Gandu」や「Love In India」も十分日本で紹介するに価値がある。知らない内にベンガリー語映画界がものすごい変革を経ていたことに驚く。これらの映画を観ると、もうインド映画に、性描写に関しては、タブーらしいタブーはないのではないかと感じる。

 主演男優の名前が分からなかったのだが、今回が映画デビューとなる。無難な演技であった。しかしながら、サーダナーを演じたリーの方にどうしても注目が集まるだろう。ここまで思い切って全身をスクリーン上にさらけ出せられる女優がインドにいたとは驚きである。そして単なるヌード用人員ではなく、演技力も確かなものを持っている。何より佇まいがとてもいい。一気にファンになってしまった。ワールドプレミアということで会場にも来ており、映画上映終了後、質問にも答えていた。だが、話す内容があまりまとまっておらず、フルヌードをさらしたことについても言い訳のような要領を得ない話をしており、多少興醒めであった。演技は素晴らしいので、演技だけさせておいた方がいいタイプの女優かもしれない。

 「Cosmic Sex」は、ヒンディー語映画以外にはあまり興味を持っていなかった僕にとっては、「太平の眠りを覚ます蒸気船」であった。最近のベンガリー語映画と言うとアパルナー・セーンやリトゥパルナ・ゴーシュと言った文学的な映画を撮る映画監督の作品しか観たことがなかったが、もっとラディカルな実験が行われている可能性がある。Q監督やバイセクシャル女優リーを中心とした実験的な作品群は十分に日本公開に値する先進性と美的価値とセンセーションを持っている。「Cosmic Sex」は、今回の映画祭で今のところ一番の収穫であった。あまりに性描写が過激であるため、もしかしたら映画祭サーキットのみでの上映に限定され、インドでの一般公開は難しいかもしれない。