Agneepath

4.5

 共和国記念日の本日(2012年1月26日)より、今年最初の超話題作「Agneepath」が公開された。これは1990年の同名映画のリメイクである。アミターブ・バッチャン主演の1990年版ではヤシュ・ジョーハルがプロデューサーを務めたが、2012年版はその息子カラン・ジョーハルがプロデュース。1990年版「Agneepath」は父ヤシュ自身が出来に不満を持っていた上に、カランのお気に入りの作品だったこともあり、彼は前々からリメイクの計画を温めていたと言う。自ら監督をしなかったのは、それが彼自身の得意ジャンルではないことを自覚しているかららしく、代わりに長年彼の補佐を務めて来たカラン・マロートラーを監督に抜擢した。

 1990年版「Agneepath」では、アミターブ・バッチャンの父親で著名なヒンディー語詩人であるハリヴァンシュラーイ・バッチャンの詩が引用される。それは以下のものである。

अग्निपथ

वृक्ष हों भले खड़े,
हों घने, हों बड़े,
एक पत्र छाँह भी
माँग मत, माँग मत, माँग मत,
अग्निपथ, अग्निपथ, अग्निपथ।

तू न थकेगा कभी,
तू न थमेगा कभी,
तू न मुड़ेगा कभी,
कर शपथ, कर शपथ, कर शपथ,
अग्निपथ, अग्निपथ, अग्निपथ।

यह महान दृश्य है,
चल रहा मनुष्य है,
अश्रु, स्वेद, रक्त से
लथपथ, लथपथ, लथपथ,
अग्निपथ, अग्निपथ, अग्निपथ।

火の道

たとえ木が立っていようと
葉が生い茂っていようと、大木であろうと
1枚の葉の陰も
望むな、望むな、望むな
火の道を歩め、火の道を歩め、火の道を歩め。

疲れてはならない
止まってはならない
振り向いてはならない
誓え、誓え、誓え、
火の道を歩め、火の道を歩め、火の道を歩め。

なんと偉大な光景か
ただ前へ進む人間の姿
涙、汗、血に
まみれながら、まみれながら、まみれながら
火の道を歩め、火の道を歩め、火の道を歩め。

 この詩が2012年版「Agneepath」でも効果的に使われており、まずはこの詩を理解することから映画の理解が始まると言っていい。苦役や苦難に自ら立ち向かって行く人間の美しい姿が高らかに歌われた、非常に力強い詩である。韻の踏み方も絶妙でリズムがある。この詩の中で言う「火の道」とは、酷暑期の炎天下を指していると受け止められる。

 主演はリティク・ローシャン、ヒロインはプリヤンカー・チョープラー。悪役のサンジャイ・ダットはこの映画のために思い切ってスキンヘッドにしており、迫力満点。他にカトリーナ・カイフがアイテムガール出演。このキャストだけでも期待が高まる。

監督:カラン・マロートラー(新人)
制作:ヒールー・ヤシュ・ジョーハル、カラン・ジョーハル
音楽:アジャイ・アトゥル
歌詞:アミターブ・バッターチャーリヤ
振付:サロージ・カーン、ブリンダー、レーカー・チンニー・プラカーシュ、チンニー・プラカーシュ、ガネーシュ・アーチャーリヤ、フィーローズ・カーン
衣装:マンディラー・シュクラー、ナヴィーン・シェッティー、マニーシュ・マロートラー
出演:リティク・ローシャン、プリヤンカー・チョープラー、サンジャイ・ダット、リシ・カプール、オーム・プリー、ザリーナー・ワハーブ、サチン・ケーデーカル、カトリーナ・カイフ(特別出演)
備考:DTプロミナード・ヴァサントクンジで鑑賞、満席。

 1977年。ボンベイ近海に浮かぶ小島に広がるマーンダワー村は、マスタージーと慕われる教師ディーナーナート・チャウハーンによって発展の道を歩もうとしていた。彼は島に製塩工場を作り、村人たち皆の努力によって村全体の生活を向上させようとしていたのである。また、ディーナーナートにはヴィジャイという1人の息子がいた。負けん気の強いヴィジャイに対し、ディーナーナートは、力を持つことよりも使い方を知ることの大切さを教えると同時に、ハリヴァンシュラーイ・バッチャンの詩「火の道」を読み聞かせ、苦難に満ちた人生でも勇気を持って勤勉に生き抜く道を説いた。

 ところがマーンダワー村の村長はディーナーナートが村人たちから過度に慕われていることを面白く思っていなかった。ある日村長の息子カーンチャー(サンジャイ・ダット)が村に帰って来る。カーンチャーは村でコカを育て、コカインを作って大儲けしようとしていた。それにはディーナーナートの存在が邪魔だった。カーンチャーはディーナーナートを罠にはめて村人たちからの信用を失墜させ、村の外れにある木に首を吊して殺してしまう。また、ヴィジャイのライバルだったアーリヤはそれに乗じて彼の家や学校に火を付けて燃やしてしまう。父親を亡くしたヴィジャイは、妊娠していた母親スハースィニー(ザリーナー・ワハーブ)と共にボンベイに渡り、流れ着いたドーングリーの売春宿で暮らし始める。このとき母親が産気づき、妹のシクシャーが生まれる。

 マーンダワーを出て以来、ヴィジャイの人生の目的はただひとつ、カーンチャーの手からマーンダワーを取り戻し、父親の名誉を回復することだった。そのためにヴィジャイは人身売買を生業とし、ボンベイのアンダーワールドを支配するラウフ・ラーラー(リシ・カプール)の部下となる。このときの力関係ではカーンチャーよりもラウフ・ラーラーの方が圧倒的に上で、彼の力を使ってカーンチャーに復讐しようとしていたのだった。また、ラウフ・ラーラーのギャングに入る直前にヴィジャイはカーンチャーの息の掛かった警官を殺していた。スハースィニーは暴力に走るヴィジャイを見捨て、シクシャーを連れて別の場所で暮らし始める。それ以来ヴィジャイは母親に顔を合わせることができなかったが、毎年シクシャーの誕生日にこっそりとプレゼントを届けていた。

 15年の月日が過ぎ去った。ヴィジャイ(リティク・ローシャン)はラウフ・ラーラーの右腕としてアンダーワールドでは名の知れた存在となっていた。ヴィジャイは幼少時より警察官僚エークナート・ガーイトーンデー(オーム・プリー)に世話になっており、そのおかげで犯罪を犯しても警察に捕まることがなかった。また、同じアパートに住むカーリー(プリヤンカー・チョープラー)とは恋仲にあった。だが、カーリーはヴィジャイの野望と執念を理解しており、それを達成するまでは結婚の話は控えていた。カーリーはビューティーパーラーを経営していた。

 ところで、ラウフ・ラーラーには2人の息子がいた。アズハルは唖で知能遅れ。マズハルは覚醒剤に溺れており父親の商売を台無しにしていた。ヴィジャイはラウフ・ラーラーから全幅の信頼を受けていたため、マズハルはヴィジャイを敵視していた。ところが一度ヴィジャイがマズハルの命を自ら身を挺して救ったことがあり、その一件以来マズハルはヴィジャイを兄弟同然に扱うようになった。しかしながら、その一件は実はヴィジャイの茶番劇であった。カーンチャーの手下だったシャーンタラームを懐柔し、わざと自分を急所を外して狙撃させたのだった。マズハルはその狙撃手を捜し回っていたが、彼の結婚式の日にそれがシャーンタラームであることが分かる。ヴィジャイはわざとマズハルを一人で突撃させ、シャーンタラームに殺させる。そしてその後ヴィジャイはシャーンタラームを殺す。

 マズハルが殺されたことを知ったラウフ・ラーラーはショックのあまり倒れ、集中治療室に入院となってしまう。今や彼のギャングを束ねられるのはヴィジャイしかいなかった。その知らせはマーンダワーのカーンチャーの耳にも届いた。カーンチャーは早速ヴィジャイに電話を入れる。ヴィジャイはカーンチャーに会見を持ち掛け、マーンダワーへ向かう。

 マーンダワーに到着したヴィジャイは、幼年時代のライバル、スーリヤに迎えられる。焼け焦げた学校、かつての自宅、そして父親が首を吊られた木などを見て悔しい思い出が蘇って来た。カーンチャーに歓迎されたヴィジャイは、ボンベイとマーンダワーの交換を持ち掛ける。その大胆な要求に驚いたカーンチャーはとりあえずヴィジャイを縛り上げて拷問する。だが、最終的にカーンチャーはその商談を受け容れる。カーンチャー側の条件は、ガーイトーンデー警視総監の死体であった。ラウフ・ラーラーが昏睡状態の今、ボンベイを支配するのに障害となるのは正義漢ガーイトーンデー以外になかった。

 ところがこのときラウフ・ラーラーは意識を回復していた。ヴィジャイがカーンチャーと交渉しに行ったことを知ったラウフ・ラーラーはヴィジャイの裏切りを理解し、彼の妹シクシャーを誘拐して売り飛ばそうとする。その知らせを聞いたヴィジャイはマーンダワーからボンベイに取って返し、ヒジュラーの集団を率いてラウフ・ラーラーを奇襲する。ヴィジャイはシクシャーを救い出し、ラウフ・ラーラーを殺す。また、このとき初めてシクシャーはヴィジャイが自分の兄であることを知る。

 ラウフ・ラーラーが死んだ今、ガーイトーンデー警視総監は治安維持のために最大の脅威となっているカーンチャーの覚醒剤密造・密輸組織壊滅に乗り出していた。ところがマハーラーシュトラ州の内務大臣(サチン・ケーデーカル)はカーンチャーと密通しており、なかなかガーイトーンデーにマーンダワー村急襲の許可を与えなかった。一方、カーンチャーはスーリヤをボンベイに送り、ガネーシュ・ヴィサルジャン(ガネーシュ像を海に流す儀式)までにガーイトーンデーを暗殺するようにヴィジャイにメッセージを送る。しかしヴィジャイは長年懇意にして来たガーイトーンデーを殺すことが出来なかった。それを察知したスーリヤは自らガーイトーンデーを殺そうとする。しかしヴィジャイはそれに勘付き、ガネーシュ像を見送る群衆の中でスーリヤを殺す。

 カーンチャーはそれまでヴィジャイの正体を知らなかったが、スーリヤの死をきっかけに、警察内の密通者からタレコミがあり、ヴィジャイがディーナーナート・チャウハーンの息子であることを知る。カーンチャーはヴィジャイを暗殺するため、刺客をボンベイに送る。

 一方、ヴィジャイもカーンチャーとの最終決戦を覚悟していた。マーンダワーへの殴り込みの前にヴィジャイはカーリーと結婚する。しかし婚姻の儀式が終わった直後にカーンチャーの刺客たちが襲い掛かって来た。ヴィジャイは運良く無傷で住むが、カーリーに銃弾が当たり、死んでしまう。

 ヴィジャイは夜の闇に紛れて単身マーンダワーに侵入し、夜明けと共に各所で爆発を起こしてカーンチャーの家に忍び込み、対決をする。しかしカーンチャーの不意打ちによって深い傷を負う。また、予めカーンチャーはヴィジャイの母親と妹を拉致していた。カーンチャーは二人の目の前でヴィジャイを瀕死の状態にし、父親を吊った木まで引きずって行く。しかし木の手前でヴィジャイは最後の力を振り絞って立ち上がり、カーンチャーに大打撃を与え、その木に彼を吊して殺す。そして力尽き、母親と妹に見守られながら目を閉じる。

 1990年の作品のリメイクということもあるが、それ以上に昨今のヒンディー語映画界に見られるリバウンド現象の代表作とでも言うべき娯楽超大作となっていた。

 サルマーン・カーン主演「Dabangg」(2010年)の大ヒットなどの影響で、ヒンディー語映画界では20~30年前に流行した典型的マサーラー映画スタイルの映画作りがリバイバルされている。21世紀に入り、マルチプレックス(複合スクリーン型映画館)が大都市を中心に普及したことにより、ヒンディー語映画は一時マルチプレックス向けのシャレた映画を量産していた。マルチプレックスのチケット代は一般に高価であるため、その数が増えるに従い、興行収入の大半もマルチプレックスから入って来るようになった。よって、映画界ではマルチプレックスの観客層に受ければ一定の収入は見込めるという考え方が主流になり、マルチプレックス観客層のみをターゲットにした割り切った映画作りが行われるようになったのだった。そのおかげで日本人を含む外国人も普通に楽しめるような高品質かつ普遍的テーマの映画が増えるというメリットがあった。

 しかし、その当然の帰結として、メインストリームの映画と、地方や都市部低所得層の観客が好む映画とのギャップが広がることになり、都市部と地方では映画の上映状況や集客状況が全く異なる様相を示すようになった。メインストリーム映画の「裏切り」を補填するように、地方ではボージプリー語映画のような地方言語映画が隆盛することとなった。都市部から地方まで満遍なくヒットするユニバーサルヒットの作品が出にくくなり、かつて様々な階層の人々を一ヶ所に集める役割を果たして来た映画は、マルチプレックスの登場により、社会分断の担い手のひとつとなってしまったのである。

 しかし、2010年前後からサルマーン・カーンなどを中心に、ユニバーサルヒットを目標とした映画作りが復活して来た。それは詰まるところ古き良きインド映画の伝統の復活であった。分かりやすいストーリー、明確なキャスティング、手に汗握るスリルとアクション、狂おしいロマンス、涙と笑い、家族愛と友情、豪華絢爛な踊り。それらの伝統的なマサーラーに加え、最新技術を効果的に使い、迫力ある映像と音声を実現。成熟したマーケティング戦略を駆使し、映画ファンの好奇心を刺激。こうして、21世紀にふさわしい新たなマサーラー映画が生まれつつある。「結局インド人はこんな映画が好きなんだ」、そういう自己回帰的な娯楽作が過去数年間相次いで公開されており、その多くが広く受け容れられ、ポジティブな興行成績を残している。2011年は特にそのような直球の娯楽映画が絶好調だった年だった。これをリバウンド現象と呼んでも差し支えないだろう。

 「Agneepath」はあらゆるラス(情感)が詰め込まれている上にどれもが極端で、最近の薄味な映画を見慣れている観客には刺激が強いかもしれない。感情の奥底をえぐられるような展開が続く。終わり方も非常に暴力的であり、非暴力主義的にまとめがちな近年の傾向とも相反している。だが、テンポが非常に良く、全体に渡ってグリップ力があり、全く飽きさせない。ダンスシーンも捨て駒がなく、どれも気合いが入っていて素晴らしい。

 そしてこれが何ともインド映画のインド映画たる由縁であるが、このような血にまみれた映画であるにも関わらず、結局この映画がもっとも強く観客に訴えかけているのは家族の大切さ、家族の絆である。父ディーナーナートと息子ヴィジャイの絆、母スハースィニーと息子ヴィジャイの絆、そして兄ヴィジャイと妹シクシャーの絆。どれもが無視できないほど力強く描かれ、そのひとつひとつが涙を誘い、そして究極的にはクライマックスにおけるヴィジャイが悪役カーンチャーを殺すシーンを正当化している。「Ghajini」(2008年)では恋人を殺した悪役ガジニーを主人公サンジャイがクライマックスで殺すのだが、僕にはそのまとめ方は残酷すぎるように感じた。しかしこの「Agneepath」は、同じような結末ながら、「恋愛」の延長線上の敵討ちではなく、父親の仇という「家族」の要素が入って来るため、より受け容れやすくなっているように感じたから不思議だ。逆に言えば、ヴィジャイとカーリーの恋愛ははっきり言って弱かった。カーンチャーはカーリーの仇でもあるはずなのだが、カーンチャーを殺したとき、ヴィジャイの脳裏にカーリーは全く浮かんでいなかった。

 1990年版「Agneepath」との違いはいくつかあった。例えば1990年版ではミトゥン・チャクラボルティー演じるクリシュナン・アイヤルというキャラクターがストーリー上重要な役割を果たすのだが、2012年版では全くカットされていた。妹シクシャーとの関係もかなり変わっていた。他にも多くの相違点が指摘できるのだが、ストーリーの「味」を左右するもっとも重要な変更はカーンチャーがヴィジャイの正体――彼が殺した教師ディーナーナート・チャウハーンの息子であること――を知るタイミングである。1990年版ではカーンチャーはヴィジャイに殺される間際に彼の正体を知る。だが2012年版では終盤に彼の正体を知ることとなり、刺客を送る暇まである。

 それに伴って1990年版では決め台詞となっていた「ヴィジャイ・ディーナーナート・チャウハーン、これがフルネーム」が、2012年版では力を失っていた。ヴィジャイがスーリヤを殺すシーンにそれが使われていただけだった。マハーラーシュトラ州ではミドルネームに父親や夫の名前を名乗る習慣があり、フルネームを聞けば父親または夫の名前も自動的に知れる。1990年版でヴィジャイはカーンチャーに一度フルネームを名乗るのだが、そのときカーンチャーは彼がディーナーナート・チャウハーンの息子であることに気付かず、後々それが彼の命取りとなる。

 また、題名ともなっている「火の道」であるが、1990年版ではヴィジャイが実際に火の道を走り抜けるシーンがあり、単にハリヴァンシュラーイ・バッチャンの詩をそのままタイトルに持って来ただけの作品ではなかった。しかし2012年版ではそのようなシーンはなく、「火の道」はより観念的な事物となっていた。

 おそらく1990年版と2012年版でどちらが優れているか、映画ファンの間で議論になるはずだが、僕は現代人向けに洗練された2012年版の方が面白かった。

 時代は1977年から始まり、その15年後の1992年に終わる。よって厳密に言えば現代が舞台の映画ではない。携帯電話は存在しないし、登場する自動車も現在ではクラシックカーに分類されるような種類のものばかりである。まだその頃は「ボンベイ」だったはずだが、劇中では「ムンバイー」となっていたように記憶している。また、ムンバイーの有名な行事であるダヒー・ハンディー(クリシュナ生誕祭)とガネーシュ・ヴィサルジャン(ガネーシュ生誕祭)がストーリー上にうまく絡められて登場していたのがまた古き良きインド映画の印象を強めていた。

 冷静に考えるといくつか疑問点もあった。カーンチャーの支配するマーンダワーに乗り込んでマーンダワーとボンベイの交換を申し出るシーンは、どういう意図や戦略でそんなことをしているのか意味不明であった。シクシャーを誘拐したラウフ・ラーラーを襲撃するシーンでヴィジャイは武装したヒジュラー(両性具有者コミュニティー)の一団を従えていたが、それももう少し説明が必要だったと思った。ちょっと唐突過ぎる登場だった。ラウフ・ラーラーもあっけなく殺され過ぎだ。クライマックス、ヴィジャイがマーンダワーに乗り込むシーンも端折りすぎだったと感じた。いきなりカーンチャーとの一騎打ちになってしまっていた。しかしながら、これらの疑問点を補って余りある優れた娯楽作であった。

 先ほども少し触れたが、暴力と非暴力の問題にも少し触れてみたい。死後60年以上経っても、インド建国の父マハートマー・ガーンディーの影響はインドの各界に根強く残っており、映画界も例外ではない。近年は「Lage Raho Munna Bhai」(2006年)などの大ヒットにより、ガーンディー主義的な非暴力主義が再評価されており、映画でも非暴力的価値観に沿ったストーリーの進め方やまとめ方が好まれて来ていた。ところが、「Jaane Tu… Ya Jaane Na」(2008年)辺りから反動も見られるようになり、必要とあらば暴力を使うことが正当化される内容の映画が徐々に目立つようになった。「Agneepath」でも、ディーナーナート・チャウハーンはヴィジャイに「目には目を、が世界を盲目にしてしまった」というガーンディーの有名な格言を引き合いに出し、復讐ではなく人を許す大切さを説いていた。しかしながら、父親を殺されたヴィジャイは、父親の説く道とは正反対の、力による復讐の道を歩み出す。母親も決してヴィジャイのその解決法を支持しなかったが、最終的にはカーンチャーを殺したヴィジャイを抱きしめ、彼の行為を正当化する。ヴィジャイの行為は正にガーンディーの批判する「目には目を」だったが、「Agneepath」は全体としてはその生き方を肯定的に描いており、ガーンディー主義に対するアンチテーゼとなっていた。映画における暴力と非暴力の問題は今後も注視して行きたい。

 昨年はアジャイ・デーヴガンがサルマーン・カーンに続いて正統派アクションヒーローに名乗りを上げたが、今年はリティク・ローシャンがそのリーグの中に入って来た。元々異常なほど筋骨隆々の身体をしており、運動神経も抜群で、アクションヒーローとしては申し分ない。筋肉だけでなく、怒り、悔しさ、悲しみなどを存分に表現しており、一皮むけた印象である。今まで彼は超人的な雰囲気の役が多かったのだが、「Zindagi Na Milegi Dobara」(2011年)で一般人の役を演じ、グッと現実感ある俳優となった。この「Agneepath」で完全に血の通った人間になったと言える。

 リティク・ローシャン以上にインパクトが強いのが、サンジャイ・ダット演じるカーンチャーだ。頭部のあらゆる毛をそぎ落とし、左耳に大きな銀の輪を通し、不適な笑いを浮かべるカーンチャー。近年のヒンディー語映画ではもっとも邪悪な悪役である。リシ・カプール演じるラウフ・ラーラーも迫力があり、サンジャイ・ダットに負けていなかった。

 意外にもヒロインのプリヤンカー・チョープラーの出番が少なかった。そのせいで彼女が死ぬシーンがちっとも悲しくなかった。しかしながら「Gun Gun Guna」などのダンスシーンで彼女の踊りや表現のレベルが上がっていることが確認できたのは良かった。

 カトリーナ・カイフのアイテムガール出演は特筆すべきだ。なぜなら彼女が踊る「Chikni Chameli」は2010年のムンニー&シーラー旋風と似たヒットとなっているからである。マラーティー語映画「Jatra」(2007年)の大ヒット曲「Kombdi Palali」のリメイクで、音楽的にはそれほど目新しい部分はないが、歌詞が秀逸なのと、カトリーナの踊りが驚くほど上達していることで、見所の多いこの映画の中でも間違いなく特に注目するに値するシーンとなっている。ただ、途中タバコを吸うシーンが2回ほどあるのだが、その度に下に「喫煙は健康に有害です」とテロップが出るのは興醒めだった。制作者と検閲者の間の妥協点であろうか。

 作曲はアジャイ・アトゥル。「Agneepath」は2時間半以上の大作であるが、意外に挿入歌の数は多くない。しかし、いい曲が揃っている。大ヒットしているのは何と言っても前述の「Chikni Chameli」。その元となった「Kombdi Palali」はアジャイ・アトゥル自身による作曲である。その他にも「Gun Gun Guna」や「Shah Ka Rutba」などダンスナンバーが揃っている。また特ダネとして、「Gun Gun Guna」には日本人ダンサーのジャスミンさんがバックダンサーとして出演していることも付け加えておきたい。

 言語はヒンディー語。しかしながら、ディーナーナート・チャウハーンやカーンチャーのしゃべるヒンディー語はサンスクリット語からの借用語を多用しており、ヒンディー語初級者やウルドゥー語習得者には多少敷居の高い台詞となっていた。また、「ラーマーヤナ」や「マハーバーラタ」からの引用も見られ、台詞を完全に理解するには、その方面の知識も求められる。

 「Agneepath」は、22年前の同名映画のリメイクながら、単なるリメイクを越えた圧倒的迫力の復讐劇。マサーラー映画の現代的進化形。血生臭い映画だが、家族愛の大切さが強い芯となって映画全体を貫いている。リティク・ローシャンの「アングリー・ヤングマン」振りとサンジャイ・ダットの見事な悪役振りにも注目。暴力映画がどうしても苦手という人でなければ、まず今年必見の映画の1本と言える。アグニパト、アグニパト、アグニパト!