The Dirty Picture

3.5

 ヒンディー語映画界でもコンスタントに歴史上の人物の人生を描いた伝記映画が作られている。しかしながら、緻密な研究と時代考証に基づいた、完全なる伝記映画は作られにくい環境にある。なぜなら、ヒンディー語映画のメインストリームでは、娯楽映画としてまとめなければならないという使命があるからである。しかも、伝記映画には必ず物言いが付く。21世紀に入ってからも、「The Ledgend of Bhagat Singh」(2002年)、「Mangal Pandey: The Rising」(2005年)、「Netaji Subhas Chandra Bose: The Forgotten Hero」(2005年)、「Guru」(2007年)、「Jodhaa Akbar」(2008年)など、実在の人物を題材にした映画は作られて来たが、必ずと言っていいほどその人物の家族・子孫や関係者などからクレームが付き、問題に巻き込まれている。よって、最近では伝記映画も「実在の人物の人生にルーズに基づいたフィクション映画」を謳うことが多くなった。つまり、伝記映画ではなく、「伝記的映画」という訳である。

 ミラン・ルトリヤー監督は「Once Upon a Time In Mumbaai」(2010年)で、かつてボンベイのアンダーワールドを支配したドン、ハージー・マスターンの「伝記的映画」を作り、スマッシュヒットを飛ばした。それに気をよくしたのか、次作も「伝記的映画」を送り出して来た。今回の題材は1980年代に南インド映画界を席巻したセクシー女優シルク・スミタ。1979年、タミル語映画「Vandi Chakkaram」でバーガールを演じて人気を博し、以後450本以上の映画に出演したものの、1996年に自宅で孤独な謎の死を遂げた人物である。ヒンディー語映画界がなぜ南インド映画界のカルト的女優を取り上げるのか、その辺りは多少気に掛かるのだが、ヒンディー語映画界の「ベヘンジー(ださ女)」として知られていたヴィディヤー・バーランが主演で、今までのイメージとは打って変わってセクシーなコスチュームを着ているため、話題になっていた。また、年齢認証は「Desi Boyz」(2011年)に続きAになってしまったため、18歳未満は鑑賞できない。劇中に性的なシーンが含まれているからだとのことである。ちなみに、「The Dirty Picture」は2011年12月2日に公開となったが、この日は奇しくもシルク・スミタの誕生日らしい。

監督:ミラン・ルトリヤー
制作:エークター・カプール、ショーバー・カプール
音楽:ヴィシャール・シェーカル
歌詞:ラジャト・アローラー
振付:ポニー・ヴァルマー
衣装:ニハーリカー・カーン
出演:ヴィディヤー・バーラン、ナスィールディーン・シャー、イムラーン・ハーシュミー、トゥシャール・カプールなど
備考:PVRプリヤーで鑑賞。

 レーシュマー(ヴィディヤー・バーラン)は子供の頃から女優になることを夢見みており、結婚式の前日に家出してマドラスまで出て来た。マドラスではアンマーの家に住み込みで働き、チャンスを待っていた。しかし、何度も何度もオーディションを受けても、なかなか採用されなかった。

 レーシュマーはあるとき強引にダンスシーン撮影現場に乗り込み、そこで飛び入りで妖艶なダンスを踊る。監督のアブラハム(イムラーン・ハーシュミー)は映画祭サーキット向け作品を志向しており、レーシュマーのダンスを気に入らず、全面カットしてしまう。彼の映画は全くヒットしなかった。プロデューサーのサルヴァガネーシャンは、少しでも制作費を回収するために、アブラハムがカットしたダンスシーンを再び挿入する。すると映画はたちまちの内にヒットとなる。

 初日に映画を観に行き、自分の出演シーンがカットされていたことに落胆したレーシュマーは、諦めて田舎へ帰ろうとしていた。そこへサルヴァガネーシャンがやって来て出演をオファーする。レーシュマーはシルクという芸名を与えられ、ピンポイントのセクシー女優として映画に出演するようになる。

 ところで、シルクは子供の頃から大スター、スーリヤカーント(ナスィールッディーン・シャー)に憧れていた。シルクはすぐにスーリヤとの共演を実現するが、当初スーリヤは彼女に冷たく、彼女の生意気な発言に怒って立ち去ってしまう。そこでシルクはスーリヤの楽屋を訪れ、彼を誘惑する。気を取り直したスーリヤはシルクとのシューティングをする。以後、シルクはスーリヤの愛人として夜な夜な密会を重ねることになる。

 シルクは下層の男性陣から熱烈な支持を受け、受賞もするが、ハイソな人々からは眉をひそめられ、反対運動も起こる。女性映画評論家のナーイラーは特にシルクへの批判の筆を緩めなかった。アブラハム監督もシルクのチープな映画を嫌っていた。だがシルクはそれらのことを全く気にしなかった。シルクは正に飛ぶ鳥を落とす勢いでヒット作を重ねた。

 しかしながら、シルクはスーリヤが既婚者であるという現実に直面しなければならなくなる。スーリヤは世間体を考え、頃合いを見計らってシルクを捨てる。しかし、スーリヤの弟で脚本家のラマーカーント(トゥシャール・カプール)がシルクの大ファンで、彼女にアプローチするようになる。シルクは、兄とは正反対のうぶなラマーを性欲と鬱憤のはけ口とする。

 ラマーは真剣にシルクとの結婚を考えており、パーティーの場で両親に合わせようとしていた。しかしシルクはパーティーで大暴れし、ラマーの計画を踏みにじる。とうとう温厚なラマーも憤慨し、シルクを放り出す。

 シルクの凋落は既に始まっていた。撮影を途中で放り出すなどの奇行も目立つようになり、とうとうオファーもなくなってしまった。落ち込むシルクだが、すぐに気を取り直し、今まで稼いだ金を費やし、自分がトリプルロールで主演を務める映画の制作に乗り出す。ちょうど同じ頃、アブラハムも自分がトリプルロールで主演を務める娯楽映画を撮っているところであった。二人の映画は同時に公開される。しかし、シルクの映画が大フロップに終わった一方、アブラハムの映画は大ヒットする。

 借金取りに追われるようになったシルクは、かつて自分にアプローチして来た監督を思い出し、連絡を取る。ところが撮影現場へ行ってみると、それはブルーフィルム撮影所であった。シルクは薬物を飲まされ、ブルーフィルムに出演させられそうになる。ところがちょうど警察の急襲があり、シルクも朦朧としながら逃げ出す。だが、彼女は自分の境遇に耐えられず、その夜自殺してしまう。

 アブラハムは、シルクの母親を田舎から連れて来てシルクに会わせようとサプライズを企画していたが、彼女が電話に出ないのを不審に思い、自宅へ直行する。そこには遺書と睡眠薬の瓶と共にベッドに横たわるシルクの遺体があった。

 フィクションであろうとノンフィクションであろうと、特定の人物の人生を題材にした映画には、その人物の人生自体から何らかの強烈なメッセージが感じられなければならない。フィクションの場合はストーリーを自由にコントロールできるため、尚更のことである。「The Dirty Picture」は、一応シルク・スミタの人生を参考にしているものの、監督などの制作陣は基本的にフィクションという姿勢を貫いている。よって、史実をなぞった作品に比べてより厳しい評価の目が必要となる。

 しかしながら、「The Dirty Picture」の主人公シルクからは、一貫した主張が感じられなかった。彼女の人生の頂点は受賞時であり、映画のメッセージも彼女が壇上から放つスピーチに凝縮されている。それは、映画を売るために自分を利用した監督、プロデューサー、俳優らが、自分を同じ社会の一員だと見なさないダブルスタンダードへの痛烈な批判であり、今後もシルクはシルクで居続けることの宣戦布告的宣言であった。女性映画評論家のナーイラーは彼女のその「反乱」を「解放」だと評価し賞賛する。彼女が何度も繰り返す台詞に「人生は一度しかない、だから考え直したりはしない」があるが、これも映画の重要なマントラとなっていた。しかし、その後のストーリーはシルクやナーイラーのその発言を支持する内容とはなっていなかった。シルクはあまりに傲慢になり過ぎ、映画界から見放され、起死回生を狙ってプロデュースした映画もこけ、ブルーフィルムに出演させられそうになり、結局は自殺というありきたりな結末を迎える。一人の女性が、権力、社会、慣習などに歯向かったところで、不幸な最期を迎えるだけだという、保守的でネガティブで悲劇的なエンディングであった。

 女性を主人公とした映画は最近のヒンディー語映画のトレンドであるが、その中でももっとも近いのがプリヤンカー・チョープラー主演「7 Khoon Maaf」(2011年)だ。主人公のキャラクターも、終わり方も、非常に似ている。一方で「The Dirty Picture」のシルクは最期に自殺してしまい、他方で「7 Khoon Maaf」のスザンナは修道女になってしまうという違いがあるだけである。社会の束縛を破ったり、権力に挑んだりした女性は、惨めな死に方をするか宗教的道に入って懺悔するかしか結末が用意されていないのは、インド映画界の保守性と言っていいのかもしれない。ポスターなどからはラディカルな印象を受ける映画であるし、主人公シルクの発言はどれもセンセーショナルであるが、内容は全く正反対で、人生をフルに生きようとした女性が人生に負けた、順当な映画である。

 映画のスートラダール(語り手)はアブラハムになっていたが、それをさらに推し進め、むしろ彼を主人公とし、脇からシルクのアップダウンを見るという構成にした方が、シルクの謎めいたキャラクターにも磨きがかかり、良かったかもしれない。娯楽映画を嫌い、有意義な映画作りをモットーとする映画監督というアブラハムのキャラクターも面白かったし、彼がシルクに対して抱く感情――嫌えば嫌うほど好きになっていく――はこの映画の中でもっとも繊細に描かれていた部分であった。アブラハムが、映画祭向け映画から娯楽映画に転向する部分も、もっと突き詰めて描けば面白くなったのではなかろうか。アブラハムとシルクが作った似たような映画の比較も駆け足で終わってしまって残念だった。

 舞台は1980年代のマドラス(現チェンナイ)。街角の風景にはタミル語の看板が映っていたし、自動車や電話など、骨董品を集めていたが、あまり昔の雰囲気が出ていなかったし、タミル・ナードゥ州という感じもしなかった。ファッションの影響であろうか、登場人物が話すヒンディー語のせいであろうか。もしシルク・スミタの人生を完全に再現した映画ではないのなら、いっそのこと舞台をムンバイーにしてしまっても良かったのではないかと思う。

 ヴィディヤー・バーランは「Ishqiya」(2010年)でかなり大胆な役を演じていたが、今回はさらに大胆なコスチューム、大胆な演技で、演技派ヒロイン女優としての地位を今一度確かなものとした。しかも役作りのために体重を12kg増やして望んだと言う。確かに今回彼女の腹回りには贅肉がドップリと乗っており、グラマラスであった。彼女の演技力については改めて褒めそやす必要はないだろう。デビュー作「Parineeta」(2005年)で既に既存の多くの先輩女優を凌駕してしまったのだから。

 女性中心の映画だったために、男優陣は脇役に過ぎない。もっとも目立つのは何と言ってもナスィールッディーン・シャーだ。タミル語映画界の人気男優役を演じた。スーリヤカーント(太陽の恋人)という名前から察するに、おそらくラジニーカーント(夜の恋人)をモデルにしていると思われる。ただ、傲慢なスターか、または単なるエロ親父の顔をしているシーンばかりで、貫禄はなかった。

 トゥシャール・カプールがキャスティングされたのは、プロデューサーが彼の母親ショーバーと姉エークターであるからであって、他に理由はないだろう。元々大根俳優であり、この作品の中でも特に進歩は見られず、全く場違いであった。

 場違いと言えばイムラーン・ハーシュミーの起用も特異であった。一応終盤で彼の見せ場が来るし、「連続キス魔」の異名に恥じずヴィディヤーとキスもしているが、普段の彼の出演作で見られるオーラは見られなかった(ちなみにヴィディヤーはナスィールッディーン・シャーともキスをする)。ミラン・ルトリヤー監督の前作「Once Upon a Time in Mumbaai」で出演した縁での起用だったと考えるのが自然だ。前述の通り、彼を本格的に主演に据えて、彼の視点からシルクのアップダウンを描いた方が、伝記的映画としても、ロマンス映画としても、完成度は高くなったことだろう。

 音楽はヴィシャール・シェーカル。80年代をイメージしたのであろうか、「Ooh La La」、「Honeymoon Ki Raat」など、底抜けに明るいキャバレーソングが多い。スーフィー風味の曲「Ishq Sufiyana」もあるが、これは「Once Upon A Time in Mumbaai」で「Pee Loon」や「Tum Jo Aaye」などのカッワーリーっぽい曲がヒットしたことの焼き直しのように思われる。特に必要性を感じなかった。全体的には個性がないサントラとなっている。

 年齢認証Aなだけあって、ベッドシーンを初めとした性的描写は多い。ヴィディヤー・バーランの台詞の中にもかなり際どい発言が出て来る。また、シルクがスーリヤカーントの次にラマーカーントと付き合い始めたとき、ナーリニーは彼女のことを「ドラウパディー」と呼ぶが、ドラウパディーとは「マハーバーラタ」に登場するパーンダヴァ5王子の共通の妻である。特別な事情から5人の兄弟は1人の女性と結婚することになった。兄の次に弟と付き合い始めたシルクを風刺するのに絶好の表現だと言える。

 「The Dirty Picture」は、南インド映画界で正に身一つで地位を築き上げ、そして自惚れと共に沈んで行った一人の女性を主人公にした伝記的悲劇映画。シルク・スミタの人生をルーズにベースとしているが、彼女とは独立したフィクションと考えていいだろう。主演ヴィディヤー・バーランの気丈で大胆な演技は見物だが、メッセージが明確ではなく、娯楽映画としての完成度も高くない。「Once Upon a Time in Mumbaai」ほどのヒットは望めないだろう。