Matir Moina (Bangladesh)

4.0
Matir Moina
「Matir Moina」

 ジャワーハルラール・ネルー大学(JNU)には、外国人留学生の交流と福祉のために外国人学生組合(FSA)があり、キャンパス内でいろいろなイベントを主催している。本日からFSA主催の映画祭が開催中であり、JNU留学中の外国人が持ち寄った作品が毎日上映されている。僕も日本の映画(DVD)を提供するよう頼まれたのだが、インドのDVDプレーヤーやPCで再生できるリージョンであること、そして英語字幕付きであること、という2つの条件があり、この両方を満たすDVDを入手するのは困難であった。特に新作は難しい。結局、インドのCD/DVD店で売られている古めの邦画を提供することになった。僕はスタジオ・ジブリの名作2本――「風の谷のナウシカ」(1984年)と「天空の城ラピュタ」(1986年)――と、古典的邦画から2本――「宮本武蔵」(1954年)と「ゴジラ」(1954年)――を選んでFSAの会長に渡し、選考委員会で気に入ったなのを選ぶように言った。僕は個人的にはスタジオ・ジブリのアニメーション映画を推していたのだが、最終的には三船敏郎主演の「宮本武蔵」が選ばれた。

 ところで、現在FSAの会長はバングラデシュ人であり、おそらく彼の意向が強く反映されたのだろう、オープニング作品はバングラデシュ映画となった。2002年公開の「Matir Moina」、英語の題名は「The Clay Bird」。ちょうど監督のターリク・マスードが2011年8月13日に交通事故で急死したこともあり、追悼の意味を込めて、この作品が選ばれたようである。この映画は、カンヌ国際映画祭で国際批評家賞を受賞し、アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされた最初のバングラデシュ映画となった。

監督:ターリク・マスード
制作:キャサリン・マスード
音楽:モウシュミー・ボウミク
出演:ヌールル・イスラーム・バブルー、ラッセル・ファラーズィー、ジャヤント・チャットパディヤイ、ロケヤ・プラチ、ショエーブ・イスラーム、ラミーシャー・R・リムジム、モイーン・アハマド、ムハンマド・ムスリムッディーン、アブドゥル・カラーム、マンジラー・ベーガム、ムムターズ
備考:JNU SSS-Iオーディトリアムで鑑賞。英語字幕付き。

 1960年代の東パーキスターン。フルプルに住むアヌ(ヌールル・イスラーム・バブルー)は、新しくイスラーム教徒に改宗した薬剤師カーズィー・サーハブ(ジャヤント・チャットーパディヤイ)とその妻アーイシャー・ビービー(ロケヤ・プラチ)の息子であった。アヌには妹のアスマー(ラミーシャー・R・リムジム)がいた。また、カーズィー・サーハブの弟ミロン(ショエーブ・イスラーム)も同居していた。

 ある日アヌは父親によって突然マドラサに放り込まれてしまう。アヌはマドラサでロコン(ラッセル・ファラーズィー)という不思議な少年と友達になる。ロコンは他の生徒たちからいじめられていたが、全く気にせず、一人空想の世界に閉じこもっていた。

 また、ミロンは近所の若者たちと共に独立運動に身を投じていた。厳格なイスラーム教徒になることを目指すカーズィー・サーハブは、イスラーム教徒がイスラーム教徒を殺すはずがないと信じており、親パーキスターンの立場であったため、弟の行動を面白く思っていなかった。

 イードゥル・ズハー(犠牲祭)に合わせ、アヌは家に帰って来る。途中通り掛かったメーラーでアヌは妹のために陶製の小鳥を買って来る。ところがアヌはその後高熱を出し寝込んでしまう。カーズィー・サーハブはホメオパシーの薬剤師だったため、アスマーをホメオパシーで直そうとする。ところが効果はなく、間もなくアスマーは死んでしまう。アヌをマドラサに送られ、アスマーを失ったアーイシャー・ビービーは、怒りと悲しみの内に夫と口を利くのを止めてしまう。

 その頃、パーキスターンでは政変があり、ヤヒヤ・ハーンが大統領に就任する。ヤヒヤ・ハーンは1年以内の総選挙を宣言し、実際に選挙が行われるが、東パーキスターンで地元政党アワミ連盟が圧勝したことを受け、大統領はベンガル人を武力で制圧し始める。

 アヌの村にもパーキスターン軍が迫っていた。フルプル村の村人たちは危険を察して逃げ出す。また、ミロンは同志たちと共に村に入る橋をバリケードして軍隊を食い止めようとする。だが、カーズィー・サーハブはまだ軍がイスラーム教を守るためにやって来ているのだと信じ込んでいた。アヌが家に戻って来たところでフルプル村にも軍隊が押し寄せる。アーイシャー・ビービーとアヌはジャングルに逃げ込んで一夜を明かすが、カーズィー・サーハブは家に留まったままだった。翌朝、アーイシャー・ビービーとアヌが家に戻ってみると、家は焼け焦げていた。カーズィー・サーハブは無事だったものの、彼が大事にしていた本が全て焼失してしまい、茫然自失の状態だった。アーイシャー・ビービーはミロンの心配をするが、橋で軍に立ち向かった者は皆殺しにされたと聞き、うなだれる。もはや家に何の未練もなくなったアーイシャー・ビービーはアヌを連れて家を出る。

 バングラデシュが東パーキスターンと呼ばれていた頃の話。1947年にパーキスターンはイスラーム教を統合理念としたイスラーム教徒の国家としてインドから独立したものの、東パーキスターンの住民は主に3つの点から抑圧されていた。まずは新生国家パーキスターンのいびつな領土。パーキスターンはインド亜大陸の西の端と東の端という全く地理的に隔絶した2つの領土から成る奇妙奇天烈な国家となった。ふたつめは、政治と権力の中心が西パーキスターンに置かれ、東パーキスターン人は独立後も相変わらず植民地のような扱いを受けたこと。みっつめは言語問題。パーキスターンではウルドゥー語が国語となり、東パーキスターン人の大部分の母語だったベンガリー語が蔑ろにされたこと。これらの理由から、1960年代に東パーキスターンで独立運動が盛んになった。「Matir Moina」はその頃を時代背景とした映画である。

 ただし、劇中では、バングラデシュ独立運動に身を投じる若者ミロンというキャラクターがいたものの、この映画は独立運動そのものを扱ったものではない。もっと広範なテーマであるイスラーム教原理主義や、イスラーム教の政治利用についてである。監督はスーフィズムやリベラルなイスラーム教寄りの立場からこの映画を作っており、西パーキスターンによる東パーキスターン人(ベンガル人)の弾圧を糾弾する以上に、イスラーム教原理主義を批判していた。監督の立場を代弁する存在として、マドラサで教えるイブラーヒーム・サーハブがおり、彼の口から「南アジアにおいてイスラーム教が浸透したのはスーフィーたちの活動のおかげだ」などと言った発言が聞かれる。イブラーヒーム・サーハブは、ヘッドマスターがマドラサを政治的な訓練場とし、子供たちに過激な思想を植え付けることにも反対だった。これはターリバーンなどの過激派の隆盛を暗示している。また、劇の要所要所で、主人公アヌの村を訪れるバウルなどの放浪の音楽家たちの口から、スーフィズム的思想が込められた歌が歌われる。

 題名となっている「土の鳥」にしても、直接意味するものはアヌが妹アスマーにお土産としてあげた陶製の鳥であるが、実際にはもっと深い意味がある。バウルの歌の中では「鳥かごの中の鳥」は、元々神と合一していたものの、神から離れ、人間の身体という容器に入れられてしまった魂の隠喩としてよく使われる。スーフィズムでは神との再合一がしきりに希求されるが、それは鳥かごに囚われた鳥が大空に羽ばたくことを夢見ることに喩えられる。よって、死は悲しい出来事である以上に、神との再合一という嬉しい出来事である。アヌがミロンに「なぜイードのようなめでたいときでも、葬式のような悲しいときでも、人は白い衣服を着るのか?」という質問をしていたが、一見子供らしい無邪気な質問ながら、非常に深い意味を持っていた。

 劇中には実物の鳥から陶製の鳥まで、また、直接的なものから間接的なものまで、いくつかの鳥が出て来る。妹アスマーは高熱のために死んでしまうが、それはアヌから陶製の鳥を与えられてからであった。アヌの親友ロコンには「他の人には見えない友達」がいたが、彼の隠れ家には意味ありげに小鳥がさえずっていた。また、14歳の頃に嫁いで来たアヌの母親アーイシャー・ビービーにとって、家は牢獄に等しかった。最後に彼女は遂に夫を捨てて家を出ることを決めるが、それはあたかも「鳥かごの中の鳥」が解放され大空に向かって羽ばたくがごとくであった。そしてさらに大きな視野から眺めてみると、「鳥かごの中の鳥」は東パーキスターンと東パーキスターン人そのものであった。そしてそれが「土の鳥」で喩えられているのは、ベンガル地方のその肥沃な大地で生まれ育ったベンガル人を意味しているからであろう。

 マドラサでの教育の様子が垣間見られたのは面白かった。コーランの暗唱、預言者ムハンマドやその他の預言者の逸話、アラビア語やウルドゥー語などの語学の授業などがあった。

 一瞬しか触れられていなかったが、アヌの父親カーズィー・サーハブは新しくイスラーム教徒になった人物である。その反動で彼はヒンドゥー教の祭りを嫌っており、息子をマドラサへ送って信心深いイスラーム教徒に育てようとしていた。また、彼はホメオパシーに傾倒しており、西洋医学を信じていなかった。彼のキャラクターは非常に興味深かったが、そこまで深く掘り下げられていた訳でもなかった。

 出演俳優については全く知識がないのだが、カーズィー・サーハブを演じたジャヤント・チャットパディヤイ、アヌを演じたヌールル・イスラーム・バブルー、ロコンを演じたラッセル・ファラーズィーなど好演していた。

 この映画の美点のひとつは、音楽がとてもいいことである。バウルなどの素朴でかつ深い歌が随所で効果的に使われており、この映画のメッセージをより鮮明に観客に届けていた。

 「Matir Moina」を観ていたら、何となくパーキスターン映画「Khuda Kay Liye」(2007年)を思い出した。どちらもイスラーム教原理主義を批判し、よりリベラルなスタンスを支持する映画であり、どちらも音楽が非常に良かった。「Khuda Kay Liye」のような映画が好きな人にはおすすめである。