Dunno Y… Na Jaane Kyon

3.0

 インド刑法(IPC)第377条は「自然に反する性行為」を禁じており、この規定を根拠にインドでは同性愛が犯罪となっている。だが、インドにも同性愛者は存在しており、デリーやムンバイーなどの大都市ではゲイやレズが集まるナイトクラブがいくつかあるとされている。2009年にデリー高等裁判所がインド刑法第377条を違憲とし、同性愛を合法化する判決を出したことで、晴れてインドでも同性愛が公認される方向に動き出している。ただ、判決の解釈はいくつかあり、インド全土で同性愛が認められたとは言えない。はっきりと言えるのは、インドの中で少なくともデリーで同性愛が犯罪ではなくなったということだ。

 ヒンディー語映画でも同性愛・同性愛者は直接的・間接的によく登場する。脇役で同性愛者が登場するのは日常茶飯事である。代表作としては「Fashion」(2008年)を挙げたい。ヒンディー語映画界にはボビー・ダーリンというオカマ俳優もおり、彼が演じる役は大体オカマである。同性愛をストーリーの中に盛り込んだ映画として有名なのは「Girlfriend」(2004年)だ。恋の三角関係にレズの要素を持ち込んだ作品で、インド映画初と謳われたレズシーンもあり、当時は大いに物議を醸した。最近では「Dostana」(2008年)も同性愛をテーマにした映画と宣伝されたが、蓋を開けてみたら、とある事情から「おホモ達」を演じる2人の主人公が1人の女の子に同時に恋してしまうというストーリーで、真性同性愛者が主人公ではなかった。今年公開された「Pankh」(2010年)という映画では、性同一性障害がテーマになっていたようで、同性愛シーンもあったらしいのだが、未見のため詳しくは分からない。

 さて、2010年11月12日公開の新作ヒングリッシュ映画「Dunno Y… Na Jaane Kyon」もゲイをテーマにした映画であった。赤裸々な同性愛シーンもあるとのことで、公開前から注目を集めていた。また、意外にキャストは大物揃いとなっている。まず何よりも特筆すべきは、名女優としてインド映画史に名を残すズィーナト・アマンや元祖アイテムガールの一人ヘレンが出演していること。ズィーナトもヘレンも21世紀に入っていくつかの映画に出演してはいるが、最盛期に比べたらめっきり寡作となり、彼女たちが出演するだけでニュースになる。また、俳優として数本しかキャリアのないカピル・シャルマーが果敢にも監督・脚本・主演を務めており、彼にとって「Dunno Y… Na Jaane Kyon」は一世一代の晴れ舞台となっている。

監督:カピル・シャルマー
制作:ラージクマーリー・サティヤプラカーシュ
音楽:ニキル・カーマト
歌詞:サティヤ・プラカーシュ、ヴィマル・カシヤプ
出演:カピル・シャルマー、ユヴラージ・パラーシャル、ズィーナト・アマン、ヘレン、カビール・ベーディー、マラドーナ・レベロ、リトゥパルナー・セーングプター、アーリヤン・ヴァイド、マハーバーノー・モーディー・コートワール、アーシャー・サチデーヴ、ヴィクラーント・ラーイ、ヘーゼル、パリークシト・サーニー、ターラー・シャルマー(特別出演)
備考:サティヤム・シネプレックス・ネループレイスで鑑賞。

 2008年ムンバイー。会社の重役を務めるアシュレー・デスーザ(ユヴラージ・パラーシャル)は、妻ジェニー(リトゥパルナー・セーングプター)の間にエンジェルという娘がいたが、ジェニーとの仲は必ずしも良好ではなかった。ジェニーの不満のひとつは、アシュレーとセックスレスの状態にあることだった。また、昔ながらの大家族の中で暮らしており、義祖母マーガレット(ヘレン)の厳しい指導に参っていた。そして何より、同居するアシュレーの弟サム(マラドーナ・レベロ)が言い寄って来ており、その対応に困っていた。サムはアシュレーとは正反対の性格で、就職もせず、友人と共にDJで稼いでいた。

 デスーザ家は家族内の人間関係で他にも多くの爆弾を抱えていた。アシュレーの父親ピーター(カビール・ベーディー)は突然家族を捨てて宗教の道へ行ってしまい、ずっと帰って来なかった。全ての重責はアシュレーの母親レベッカ(ズィーナト・アマン)にのしかかった。レベッカは会社で秘書として働いていたが、それだけでは足りず、会社のボスKLDや他の男たちと愛人関係になり、資金援助をしてもらいながら大家族を養っていた。マーガレットはそのことを知っていたが黙認していた。また、ピーターとレベッカの間には、アシュレー、サムの他に、長女(ヘーゼル)もいた。

 実はアシュレーはひとつの秘密を抱えていた。それは、彼が同性愛者であることである。ジェニーと結婚したのは家族のプレッシャーからで、本当は男性の方に興味があった。あるときアシュレーはチャットで出会った同性愛者アーリヤン・バールガヴ(カピル・シャルマー)と実際に顔を合わせる。2人はお互いに惹かれ合い、そのときからデートを繰り返すようになる。やがてアシュレーは、アーリヤンとの関係を家族に明かすかどうか真剣に考え出す。

 アシュレーがアーリヤンとの恋に夢中になるにつれ、アシュレーとジェニーの仲は最悪の状態となり、とうとうジェニーは家を飛び出て実家に戻ってしまう。その隙を見てサムはジェニーに熱烈にアタックし、2人は関係を持ってしまう。サムはドバイでDJの仕事をするチャンスに恵まれ、ジェニーと共にドバイへ逃亡しようと計画し出す。夫に愛想を尽かしていたジェニーは、サムの計画に乗り、準備を始める。

 ある日突然、ピーターが家に戻って来る。ピーターは癌に冒されていることが分かり、最期の時を家族と共に暮らそうとして戻って来たのだった。マーガレットは実の息子ピーターを歓迎するが、レベッカは断固認めなかった。だが、最終的にはレベッカもピーターを許し、彼が一緒に暮らすことを認める。だが、ピーターは今まで家族の世話をして来なかった自分が家族の世話になることを潔しと思わず、また家を出て行ってしまう。

 ところでレベッカはKLDの他にもう一人の愛人がいたが、そのことがKLDにばれてしまう。KLDは彼女の家族の前でそのことを暴露する。だが、マーガレットはレベッカを擁護し、KLDを追い出す。このことをきっかけにマーガレットとレベッカの仲は近づく。また、アシュレーはやはりアーリヤンよりも家族を優先することを決め、アーリヤンもそれを認める。そのときからアシュレーはジェニーに最大限の愛を与えるようになる。アシュレーの愛が戻って来たことを知ったジェニーは、サムよりもアシュレーの方を取り、サムとのドバイ行きを取りやめる。怒ったサムは単身ドバイへ行ってしまう。

 7年後・・・。アーリヤンは映画デビューし人気俳優となっていた。たまたま乗り合わせた列車で、ジェニーと同席となる。ジェニーはアシュレーからアーリヤンのことを聞いていた。アーリヤンは今でもアシュレーのことを愛していたが、1年前に彼が交通事故で死んだことを知ると驚く。後日アーリヤンはデスーザ家を訪問する。癌の末期患者だったピーターは奇跡的に回復してまだ存命であった。サムはドバイのホテル王の娘(ターラー・シャルマー)と結婚し、家計を支える大黒柱となっていたが、ずっとインドには帰って来ていなかった。

 前半と後半ではガラリと雰囲気の変わる映画だった。前半では4世代が同居するデスーザ家のすさんだ人間関係が描写される。祖父と父が不在のため、基本的に女性で縦糸が構成された家族となっているのだが、祖母、母、嫁、三人の仲は良くなく、陰でお互いにお互いの悪口を言い合っている状態である。結婚5周年を迎えた長男と嫁の仲もどこかギクシャクしている。しかも次男が兄嫁に一方的に惚れており、彼女に言い寄っている。一家の稼ぎ頭は会社で秘書をしている母だが、彼女は上司などと「援助交際」をして何とか家計を回している。冒頭で祖母が自分の家族のことを「最高の家族」と声高らかに自画自賛するが、それとはほど遠い状態にあることが分かる。インドでは一時期、嫁姑ドラマが猛威をふるった時期があったが、それを思わせる、背徳的人間関係を中心に据えたドラマになっていた。

 だが、インターミッション前に長男アシュレーが同性愛者であることが示され、そのまま後半は一気に同性愛が映画の中心テーマとなる。アシュレーと男娼アーリヤンの恋愛関係は、多少心情の描写がいい加減ではあるが、かなりねっとりと描かれており、同性愛に対して身構えていてもどことなく情けが移ってしまう。これら男優同士の熱烈なキスシーンやベッドシーンもあり、インド映画の範囲内で限界にまで挑戦している。だが、アシュレーが家族持ちであることが二人の恋愛の大きなネックとなり、結局その恋は実らずに終わる。そしてデスーザ家の人間関係の問題も終盤には解決の方向へと向かう。

 映画の大部分の時間軸は2008年に設定されていたのだが、エンディングでその7年後のシーン、つまり2015年のシーンが少しだけ登場する。そこではアーリヤンがゲイのコネを使って(だがゲイであることは隠して)人気男優となったこと、アシュレーが1年前に交通事故で死去したこと、癌に冒された父ピーターが奇跡的に回復して存命なこと、アシュレーの弟サムがドバイで成功していることなどについて触れられる。だが、この7年後のシーンは蛇足に感じた。また、最後には2009年にデリー高等裁判所が同性愛を合法と判決したことがテロップで示されていた。

 確かに同性愛以外の人間関係のドラマも盛り込まれていたが、どう見ても中心となっている話題は同性愛である。特にアシュレーとアーリヤンが車中でキスをしていたところ、警察官に見つかって尋問されるシーンは、映画が主張したいメッセージがもっとも鮮明に浮き出ていた。「車の中で何をしていた」と問い詰める警察官に対し、アーリヤンは「愛し合っていた。何か悪いか?」と問い返す。それに対し警察官は「悪いも何も、インド刑法第377条違反でお前たちを逮捕できる」と脅す。その場は何とかアシュレーが賄賂を渡すことで切り抜けるが、インドの同性愛者は、自分の本当のアイデンティティーを家族にすら明かすことが出来ず、社会から人間扱いされないほどの差別を受けていることが明確に主張される。ただ、アシュレーとアーリヤンが結ばれなかったのは、社会的差別と言うよりもまずはアシュレーが既婚だったことの方が大きい。よって、その点では不倫を成就させる結末を避けるインド映画の伝統に則っていると見ることも出来る。

 上で蛇足だと書いたが、同性愛の視点で見ると、7年後のシーンでひとつ重要な発言があった。それはアシュレーの妻ジェニーが、アシュレーとアーリヤンの同性愛関係を夫から聞いて知っていたことである。夫が同性愛者であることを知ったジェニーがどういう反応をし、どのようにそれを受け入れたのか、また他の家族メンバーはそれを知っているのかなど、同性愛映画を作るならば非常に重要な部分だったと思うのだが、その点は単に後日談的に済まされてしまっていた。全体的に同性愛に対して真摯に取り組んでいた映画だったが、この点が不足していたことは欠点として指摘され得るだろう。

 映画が始まるまで知らなかったのだが、この映画は英語とヒンディー語混じりのいわゆるヒングリッシュ映画であった。しかも英語の台詞の方が圧倒的に多く、重要な会話のほとんどは英語で行われる。だが、脚本の英語があまりに文語的過ぎるし、出演俳優たちも自然な英語を話せていなかったので、現実感のない映画になってしまっていた。もう少しヒンディー語の台詞を増やした方が良かっただろう。

 台詞が棒読み状態だったため、俳優たちは皆、大根役者に見えた。唯一良かったのはピーターを演じたカビール・ベーディーである。

 インド映画のフォーマットを踏襲し、いくつかダンスシーンが入っていた。独特のダンスで一世を風靡したヘレンが踊るシーンも用意されている。だが、曲自体はどれも特筆すべきものではない。

 「Dunno Y… Na Jaane Kyon」は、インドにおける同性愛者の問題について、おそらく今まで公開されたインド映画の中ではもっとも真摯に考えた作品である。結末のまとめ方には多少疑問が残るが、同性愛映画というジャンル確立の第一歩として後々重要な作品として記憶されることになるかもしれない。英語を主体としたヒングリッシュ映画なので、ヒンディー語が分からなくてもある程度理解できるだろう。ただ、英語の台詞はもう少し口語的にするか、ヒンディー語に差し替えるべきであった。映画の出来自体は並程度だが、インド映画のひとつのステップを確認する目的なら観てもいいだろう。また、ズィーナト・アマンやヘレンなど、昔の人気女優が共演していることもひとつの見所である。