Aashayein

3.0
Aashayein
「Aashayein」

 ヒンディー語映画界で名監督面している映画監督たちの中で、僕が心から全く認めていないのがナーゲーシュ・ククヌールである。彼のデビュー作「Hyderabad Blues」(1998年)はヒングリッシュ映画の先駆けのひとつとして映画史的に重要な作品であるし、「Iqbal」(2005年)や「Dor」(2006年)など、一定の評価、一定の興行収入を上げた作品もあるが、最近彼が作る映画からは全く才能を感じない。2010年8月27日公開の「Aashayein」はナーゲーシュ・ククヌール監督の最新作となるが、実はここ数年半分お蔵入りしていた曰く付きの作品で、やっと公開に漕ぎ着けた有様である。その過程から察するにまたしても名作とは思えなかったが、ナーゲーシュ・ククヌール監督の末路を見届ける気分で映画館に足を運んだ。キャストでは、主演ジョン・アブラハムの他、カンナダ語演劇界の巨匠ギリーシュ・カルナドが出演していること、シュレーヤス・タルパデーが特別出演していることなどが特筆すべきである。

監督:ナーゲーシュ・ククヌール
制作:パーセプト・ピクチャー・カンパニー、Tシリーズ
音楽:プリータム、サリーム・スライマーン、シラーズ・ウッパール
歌詞:サミール、クマール、シャキール・ソハイル、ミール・アリー・フサイン
衣装:アパルナー・シャー
出演:ジョン・アブラハム、ソーナール・セヘガル、ギリーシュ・カルナド、ファリーダー・ジャラール、アシュヴィン・チターレー、アナイター・ナーイル、プラディープ・スィン、プラティークシャー・ローンカル、ヴィクラム・イナームダール、ソーナーリー・サチデーヴ、シャラド・ワーグ、ナーゲーシュ・ククヌール、シュレーヤス・タルパデー(特別出演)
備考:サティヤム・シネプレックス・ネループレイスで鑑賞。

 ラーフル・シャルマー(ジョン・アブラハム)はラーオ(ナーゲーシュ・ククヌール)が管轄する違法クリケット賭博で全財産を掛けて勝ち、3千万ルピーを手にする。ラーフルは恋人のナフィーサー(ソーナール・セヘガル)にプロポーズし、結婚することになる。ところがちょうどそのとき肺がんが見つかる。絶望に打ちひしがれたラーフルは、ナフィーサーに黙って姿をくらまし、新聞広告で見掛けた「希望の家」パドマーシュラムを訪ねる。そこは不治の病に罹った人々が死を待つための施設であった。ラーフルは施設を管理するシスター・グレース(プラティークシャー・ローンカル)に頼み込み、大金を寄付することでその施設に入れてもらい、過ごし始める。

 パドマーシュラムには様々な人が死を待っていた。ラーフルの隣にはパドマー(アナイター・ナーイル)という17歳の女の子がいた。おませなパドマーはラーフルとすぐに仲良くなり、様々な話をするようになる。10歳の少年ゴーヴィンダー(アシュヴィン・チターレー)は地元の人々から「神の使い」と崇められていた。ゴーヴィンダーもラーフルと仲良くなる。喉頭がんを患っていたパールタサールティー(ギリーシュ・カルナド)は施設の人々から「アンクル」と慕われていた。一方、マドゥ(ファリーダー・ジャラール)は施設の人々から避けられていたが、それは彼女がエイズ患者だったからである。しかもマドゥは元娼婦であった。しかし、性交渉でエイズになった訳ではなく、輸血によって感染したと言う。ラーフルは、これらの人々と徐々に親交を深めるようになって行く。

 ゴーヴィンダーはラーフルに話を聞かせる。それは、ラーフルの「秘密の夢」だったインディ・ジョーンズばりの大冒険であった。インディは何者かに奪われた愛用の鞭を探して旅を続け、鎖でつながれた幽霊たちで満ち溢れた洞窟に入り込む。幽霊たちはパドマーシュラムの人々にそっくりであった。パドマーそっくりの幽霊もいた。その洞窟の奥には灼熱の釜があり、その上に鞭が入った宝箱があった。しかし、その宝箱には鍵がかかっていた。幽霊たちの鎖を灼熱の釜で溶かすことでしか鍵は手に入らなかった。この話はここで終わったが、その夜ラーフルは夢を見て、ゴーヴィンダー似の幽霊が、彼の心臓を取り出し、それを幽霊たちをつなぐ鎖の錠の鍵に変えるシーンを見た。

 その話にヒントを得たラーフルは、パドマーと共に、パドマーシュラムの人々の「最期の望み」を叶えることにする。そのためにビーチパーティーを催し、死を待つ人々に最期の望みを書かせて集める。ラーフルはパドマーと共に、持参した大金を使って人々の望みを叶えて行く。その一方、二人はお互いに望みを入れた壺を交換し、全ての望みが叶ったときにそれを見ることを決める。

 家族と会いたいと願っていたパールタサールティーの願いを叶えた夜、ラーフルはインディ・ジョーンズの話の続きを夢で見る。全ての幽霊を解放し、鎖を溶かして遂に宝箱の鍵を手に入れたラーフルとパドマーだったが、パドマーが足を滑らせて釜の中に落ちてしまう。目を覚ましたラーフルはパドマーの部屋へ行く。するとパドマーが今にも息を引き取りそうな状態であった。ラーフルは急いでパドマーの最期の望みを見る。それは、ラーフルとのセックスであった。急いでラーフルはパドマーと寝ようとするが、キスをしただけでパドマーは息を引き取る。

 翌朝、ラーフルがパドマーの机の引き出しを開けると、ラーフルの最期の望みが入った壺が壊されているのを発見する。ラーフルは、インディ・ジョーンズの衣装が欲しいと書いていた。パドマーは死ぬ前にその望みを叶え、彼にインディ・ジョーンズの衣装を贈っていた。また、パドマーはラーフルの事情を知っており、死ぬ前に彼のフィアンセであるナフィーサーに電話をしていた。ナフィーサーはパドマーシュラムに駆けつけ、彼の面倒を見るようになる。

 日に日にラーフルは弱って行った。だが、ゴーヴィンダーが新たな話を話し出したことで、次なる目標が見つかる。それは不死の泉を見つける旅であった。ゴーヴィンダーは、不死の泉に辿り着くにはまず地図を見つけなければならないと言う。ラーフルはてっきりパドマーシュラムの庭にある噴水を不死の泉だと思い込み、その中に飛び込んで大はしゃぎするが、それが原因で寝込んでしまう。だが、地図は最後の幽霊の手元にあると知ったラーフルは、マドゥのところへ行き、探し始める。そこで見つけたのが、ヒマーラヤ山脈のとある避暑地のパンフレットであった。それは、かつてラーフルとナフィーサーが共に行こうとしていた場所だった。

 ラーフルは、パドマーに贈られたインディ・ジョーンズの衣装を身に付け、ナフィーサーと共にその地へ向けて旅立つ。

 死に行く人をテーマにした感動作は古今東西数え切れないほどあり、ヒンディー語映画でも、「Anand」(1971年)から「Kal Ho Naa Ho」(2003年)まで、名作が多い。しかし、既に定型化してしまった感は否めず、安易に死をテーマにした感動作に手を出すのは褒められたことではない。だから、「死を待つ人の家」を舞台にした「Aashayein」は、ナーゲーシュ・ククヌール監督らしい浅はかなチョイスだと思った。そして彼らしく中途半端に死を扱っていたため、死に行く人の映画に付き物の涙はほとんどこみ上げて来なかった。しかし、その中途半端さがかえって功を奏していたようにも感じた。インド人監督タルセーム・スィンがインド中の風光明媚なロケーションをフル活用して撮影した「The Fall」(2006年/邦題:落下の王国)のように、現実と空想を織り交ぜて娯楽映画的要素を織り込むことに成功しており、ラストも、主人公の死でしんみり終わらせるのではなく、空想の世界への旅という形で、よりポジティブな後味の映画となっていた。

 しかし、あくまで中途半端なので、深みはない。空想の世界にしても、「インディ・ジョーンズ」シリーズの受け売りでオリジナル性はないし、「神の使い」ゴーヴィンダーの存在も子供だましの小手先テクニックに思えた。「Anand」と比較されることを予想して開き直っているのか、劇中に「Anand」を登場させて登場人物たちに死期を知ったときの行動などについて語らせてもいる。もっとも卑怯だと感じたのは、主人公ラーフルが「映画だったらこうで」、「映画だったらああで」と語って、映画によくある行動を取っていたことである。これにより、陳腐なシーンがいくつも出て来ることへの口実になっていたのだが、ナーゲーシュ・ククヌール監督のように仮にもある程度の経験と実績のある映画監督が採用するような手法ではないだろう。

 パドマーシュラムに住む人々にはそれぞれの物語があるのだが、もっとも心温まるのはラーフルとパドマーの交流である。パドマーは多感で現代的な少女で、彼女を子供扱いするラーフルを翻弄しながらも、彷徨える彼の心を自然に救いの方向へと導いて行く。彼女の言動には、数ヶ月の余命の中でも少女から女性へと成長して行こうとするエネルギーが満ち溢れており、死に行くラーフルのエネルギー源となっていた。「Anand」におけるアーナンド・セヘガル(ラージェーシュ・カーンナー)の、「Kal Ho Naa Ho」におけるアマン・マートゥル(シャールク・カーン)の役割を彼女が担っていたと言っていいだろう。それに加え、息子や孫たちとの確執を抱えたパールタサールティーのエピソードが小気味よい感動を添えていた。

 主演ジョン・アブラハムは、こういう繊細な役柄を演じるには多少無骨過ぎるところもあるのだが、無邪気さも同居しているのがいいところで、インディ・ジョーンズに憧れ、空想の世界で実際にインディ・ジョーンズになってしまうところなど、はまり役であった。肺がんによる痛みで苦しむシーンなどはオーバーアクティング過ぎるところもあったが、全体的に好演と言えるだろう。

 ナフィーサーを演じたソーナール・セヘガルは元TV女優で、「Radio」(2009年)や「Jaane Kahan Se Aayi Hai」(2010年)などの映画にも出演しているが、まだ主演作と言える作品はない。「Aashayein」でも主人公のフィアンセ役でありながら脇役に追いやられていた。間違いなく、パドマーを演じたアナイター・ナーイルの方が存在感があり、演技力もあった。「Chak De! India」(2007年)出演のいわゆるチャク・デー・ガールズの一人で、今回は丸坊主になり、体を張った演技をしていた。チャク・デー・ガールズの中では女優業をコンスタントに続けている一人である。

 ベテラン俳優ギリーシュ・カルナドがちょっと変な役で登場するのは面白い。喉頭がんで喉頭を切除しており、エレクトロラリンクス(電気式人工喉頭)という器械を使ってしゃべる。シュレーヤス・タルパデーは、ラーフルとパドマーが主催したビーチパーティーにバンドのボーカルとして出演。「Ab Mujhko Jeena」を歌う。ナーゲーシュ・ククヌール監督も冒頭でカメオ出演するが、元々演技力はゼロであり、単に映画の邪魔をしていただけであった。

 音楽はプリータム、サリーム・スライマーン、シラーズ・ウッパールなどの寄せ集めとなっている。映画の題名「希望」に合わせて、希望に満ちた歌詞と雰囲気の曲が多いが、突出した出来のものはない。

 「Aashayein」は、長い間お蔵入りしていたのではあるが、死という重いテーマを、暗すぎず明るすぎず、娯楽映画としてのバランスを保ちながら取り扱っており、ナーゲーシュ・ククヌール監督の今までの作品の中ではいい方に含まれる。それでも無理して観る必要がある作品ではない。