Raavan

4.5
Raavan
「Raavan」

 6月中旬から日本に一時帰国していた。その間公開された新作ヒンディー語映画の中でもっとも重要な作品が2010年6月16日公開のマニ・ラトナム監督「Raavan」であった。

 マニ・ラトナム監督は、タミル語映画とヒンディー語映画を股に掛けて活躍している、インドを代表する名監督の1人で、これまで「Roja」(1992年)、「Bombay」(1995年/邦題:ボンベイ)、「Dil Se..」(1998年/邦題:ディル・セ 心から)、「Yuva」(2004年)、「Guru」(2007年)などの作品を送り出して来た。そのマニ・ラトナム監督の最新作が公開とあって、かなり前から大きな話題となっていた。題名から、「ラーマーヤナ」に登場するランカー島の羅刹王ラーヴァンを題材にした映画であることが予想されていたが、「ラーマーヤナ」の忠実な映画化ではなく、その大まかな筋を、現代に置き換えながら新たな視点から語り直した作品となっている。

 「Raavan」は、ヒンディー語版とタミル語版の2バージョンを別キャストで同時撮影するという変わった手法で作られたことでも注目されていた。単なる吹き替えではなく、キャストを変更して、同じシーンを2度撮影する面倒な行程を経て作られたのである。両バージョン共にヒロインはヒンディー語もタミル語も堪能なアイシュワリヤー・ラーイであり、セカンドヒロインのプリヤマニも両バージョンに同じ役で出演しているが、その他の配役は異なっている。この映画では正義と悪の逆転が起こっているので、誰をヒーローとし、誰を悪役とするか、難しいところなのだが、「ラーマーヤナ」の筋書きに沿ってヒーローと悪役を決めるとすれば、ヒンディー語版では、アビシェーク・バッチャンが悪役を演じ、ヴィクラムがヒーローを演じているのに対し、タミル語版ではヴィクラムが悪役を演じ、プリトヴィーラージがヒーローを演じている。両バージョン出演のヴィクラムは、ヒンディー語版ではヒーロー、タミル語版では悪役という全く逆の役を演じており、もっとも困難なチャレンジをしている。このようなトリッキーな配役は世界の映画史上でも稀なのではなかろうか。ちなみにタミル語版の題名は「Raavanan」になっているが、同じ単語がタミル語訛りしただけで意味に変化はない。

 公開後の評判は必ずしも芳しくないようだったが、帰国直後に「Raavan」を観に映画館へ出掛けた。

監督:マニ・ラトナム
制作:マニ・ラトナム
撮影:サントーシュ・シヴァン
音楽:ARレヘマーン
歌詞:グルザール
衣装:サビヤサーチー・ムカルジー
出演:アビシェーク・バッチャン、アイシュワリヤー・ラーイ・バッチャン、ヴィクラム、ゴーヴィンダー、ニキル・ドゥイヴェーディー、ラヴィ・キシャン、プリヤマニ、アジャイ・ゲーヒー
備考:DTスター・サーケートで鑑賞。

 デーヴ・プラタープ・シャルマー警視(ヴィクラム)は、反政府ゲリラの頭領で住民の信望も厚いビーラー・ムンダー(アビシェーク・バッチャン)の支配する森林地帯ラールマティーの警察署に赴任して早々、ビーラーに対し宣戦布告をした。ビーラーもそれに対抗し、警察に対する爆弾テロを行うと同時に、デーヴの妻ラーギニー(アイシュワリヤー・ラーイ・バッチャン)を誘拐する。デーヴは、森林警備員のサンジーヴァニー(ゴーヴィンダー)を道案内にしてビーラーを追う。

 ビーラーはラーギニーを殺す積もりだった。しかし、ラーギニーは殺される前に自ら崖から飛び降りる。幸い一命は取り留めるが、その死をも恐れぬ勇気を見たビーラーはラーギニーを殺すことを思いとどまり、そのまま森林を連れ回す。その間、ビーラーは少しもラーギニーに触れることはなかった。一方、ビーラーのことを悪の権化のように考えていたラーギニーであったが、彼と接する内に、彼の中に純粋さや正義を見出すようになっていた。

 ビーラーがラーギニーを誘拐したのは、デーヴが妹のジャムニー(プリヤマニ)の結婚式を邪魔したからであった。警察の急襲を受け、花婿は逃げ出してしまい、ジャムニーは派出所に留め置かれて恥辱を受けた。それに耐えきれず、ジャムニーは井戸に身を投げて自殺してしまった。ビーラーの首にある傷も、デーヴによる急襲によって受けたものであった。それを知ったラーギニーはビーラーに同情するようになる。

 デーヴ率いる警察は森林奥地までビーラーを追うが、ビーラーは頻繁に居所を変えるため、なかなか捕まえられなかった。逆に警察は度々ゲリラの襲撃を受けた。デーヴの右腕ヘーマント警部補(ニキル・ドゥイヴェーディー)がビーラーに捕まってしまい、屈辱を受けたこともあった。

 ところで、ビーラーには腹違いの2人の弟マンガル(ラヴィ・キシャン)とハリ(アジャイ・ゲーヒー)がおり、ビーラーの片腕として働いていたが、中でも特にハリは、ラーギニーが来てからビーラーがおかしくなってしまったと感じていた。ハリはサンジーヴァニーを通じてデーヴと和平交渉をしようとするが、デーヴはハリを会った途端に殺してしまう。

 とうとうビーラー率いるゲリラと警察の戦いは最終局面を迎えた。ビーラーとデーヴは吊り橋の上で決闘をすることになる。このときビーラーは谷底に落ちそうになったデーヴを救い、ラーギニーを彼の元へ返す。二人は14日振りに再会する。

 喜びも束の間、帰りの列車の中で、デーヴはラーギニーの貞操を疑い出す。ビーラーと共にいた14日間に何かあったのではないか?ラーギニーは、夫のその疑いはもっともだと甘んじて受け容れながらも、ビーラーとの間には何もなかったと主張する。だが、デーヴはビーラーから全てを聞いたと言って疑いを止めない。怒ったラーギニーは列車を緊急停車させ、デーヴの元を去る。

 ラーギニーが向かった先はビーラーのアジトだった。マンガルから居所を聞き出し、ビーラーに、デーヴに何を言ったのか問い正す。だが、ビーラーは特に彼女の名誉を傷付けるようなことは言っていなかった。彼は吊り橋の上でデーヴを救ったとき、単に「ラーギニーのためにお前を殺すこともできるし、生かすこともできる」と言っただけだった。

 そのとき、デーヴが部下の警察官と共に現れ、ビーラーを包囲する。必死で止めるラーギニーを無視し、デーヴはビーラーに一斉射撃をする。蜂の巣となったデーヴは崖の下に落ちる。

 インドの神話をじっくり読むと、善と悪の境界線が曖昧なだけでなく、善とされる側が果たして本当に善なのか、悪とされる側が果たして悪なのか、考えさせられることが多い。例えば叙事詩「マハーバーラタ」で骨肉の戦争を繰り広げたパーンダヴァ軍とカウラヴァ軍がある。一般にはパーンダヴァの方が善玉とされ、カウラヴァの方が悪玉とされる。パーンダヴァの五兄弟には弓の名手にして絶大な人気を誇るアルジュナもいるし、ヴィシュヌ神の化身とされるクリシュナもパーンダヴァ側に付いている。だが、「マハーバーラタ」のストーリーをよく見ると、えげつないことをしているのは実はパーンダヴァ側に多いことに気付く。戦争を行う前にルールが取り決められ、各登場人物は開戦前後に様々な誓いを誓う。そのルールや誓いを忠実に守っているのは、実は戦争で敗北したカウラヴァ側の登場人物であり、それらを都合良く解釈したり破ったりして戦争を有利に進めたのは、勝者のパーンダヴァ側である。他にも、善であるはずの神が、悪であるはずの悪魔をだまし討ちに近い卑怯な方法で成敗するようなストーリーはインド神話には多く見られる。

 マニ・ラトナム監督の「Raavan」は、「マハーバーラタ」と並び称される叙事詩「ラーマーヤナ」の善と悪の問題について、現代を舞台としながら婉曲的にメスを入れた作品だと言える。直接メスを入れなかったのは、創造的な挑戦もあるだろうが、人気の神様ラームを直接いじるのは賢明な手段ではないとの判断もあったのだろう。それでも「Raavan」の主な登場人物は本家「ラーマーヤナ」の登場人物とほぼ一対一対応している。ビーラーはラーヴァン、ラーギニーはスィーター、デーヴはラーム、ヘーマントはラクシュマン、サンジーヴァニーはハヌマーン、マンガルはクベール、ハリはヴィビーシャン、ジャムニーはスールパンカーである。

 「ラーマーヤナ」では、王子として生まれながら森林生活を送ることになったラームが、ラーヴァンにさらわれた妻スィーターを助け出すため、弟ラクシュマンや猿の将軍ハヌマーンと共にランカー島へ攻め込むストーリーが語られている。簡略版の「ラーマーヤナ」では、話をシンプルにするために、ラーヴァンを絶対的な悪として設定して、ラーム王子のラーヴァン退治に正当性を持たせてあることが多いが、実際にはもっと複雑な話である。そもそもラーヴァンがスィーターを誘拐したのは、ラームとラクシュマンが、ラーヴァンの妹スールパンカーを侮辱し、彼女の鼻を切ったからである。そしてラームは、ラーヴァンを退治しスィーターを救い出した後、彼女の貞操を疑い、潔白を証明させるためにアグニパリークシャーという儀式を行わせる。それは彼女を火の中に座らせ、燃えなかったら潔白という、魔女狩りのような残酷な仕打ちであった。火の神の助けでスィーターは燃えず、潔白が証明され、一旦は彼女を信じたラームであったが、後に再び彼女の貞操を疑うようになり、それが原因で元々土から生まれたスィーターは土に帰ってしまう。結局ラームは命がけで助け出したスィーターを信じることができなかった。一方、ラーヴァンはスィーターを誘拐したものの、紳士を貫き、彼女に指一本触れようとしなかった。一体どちらに正義があるのか、深く読むと分からなくなって来る物語である。

 「Raavan」では、ラーギニー=スィーターの視点から、ラーム=デーヴと、ラーヴァン=ビーラーの性格や行動を比較し、一般に流布している「ラーマーヤナ」の善悪観に一石を投じている。話にサスペンスをもたらすために、回想シーンによって時間軸を前後させているところがあり、ビーラーがラーギニーを誘拐した理由がかなり後になって明らかにされている。冒頭の導入部が簡潔過ぎたり、伏線の張り方が多少乱暴だったりしたため、分かりにくい話になっていたことは否めないが、やがて全てがつながるようになっているし、ラーギニーの価値観の転換を観客が共有するには非常に効果的であった。誘拐されたラーギニーは、真実を知った後、凶悪犯と考えていたビーラーに同情し、彼に徐々に正義を感じるようになって行く。もしかしたらビーラーの戦いは無差別殺人が目的の無慈悲なテロではなく、正義の戦いではないだろうか?ビーラーは一見恐ろしい外見をしているが、「ラーマーヤナ」のラーヴァンと同様に、ラーギニーに対して一貫して紳士的である。劇中で彼は一回もラーギニーに触れていない。それを強調するように、ラーギニーに触れそうになるシーンがかなり意図的にいくつも用意されているが、ギリギリのところで彼は触れない。早い段階で彼がラーギニーに恋していたことは確かだが、彼はその恋心を、欲望に身を任せるのではなく、彼女の夫の命を助けるという行動によって示す。嫉妬はする。だが、ラーギニーという特別な存在に出会えたビーラーにとって、嫉妬すらすがすがしい感情に思えたのであった。嫉妬の炎の中でも笑っていられるビーラーは、恐ろしいまでの純真な心を持った男であった。また、映画を1回観ただけでは確認できなかったのだが、ビーラーが直接人を殺すシーンはなかったのではないかと記憶している。ジャムニーの鼻をつまんで侮辱したヘーマントも、頭髪をそり落とし裸にしただけで殺さなかった。村人たちからも慕われるビーラーは、端的に表現すれば義賊であるが、その言葉だけでは収まらないような広大な人間であった。

 一方、警察官僚のデーヴは、世間的には正義の存在であった。もちろんインド映画では警察が汚職の権化や悪の黒幕として描かれることも多いのだが、少なくともデーヴはそのような汚職警官ではなかった。使命に燃え、ゲリラに対する戦いの正当性に何の疑問も持っていなかった。しかし、デーヴはそのミッションを成功させるため、数々の非道な行為を取る。ジャムニーの結婚式を急襲して彼女の人生をメチャクチャにしたり、ビーラーの居所を聞き出すために村人に対して高圧的な尋問をしたり、和平交渉を求めて来たハリを殺害したりした。挙げ句の果てに救い出したラーギニーの貞操を疑い、嘘発見器に掛けようとまでする。そして最後は、制止するラーギニーを無視して、命の恩人であるはずのビーラーを容赦なく殺害する。デーヴの行動は正義の信念に基づいて行われていたが、その本質に正義は微塵も感じられなかった。ラーギニーの行動をストックホルム症候群という観点から分析することも出来るだろうが、デーヴとビーラーという対照的な二人を近くで観察した彼女の中では、もっと深い価値観の変化が起こっていたと言える。

 ビーラーとラーギニーにあってデーヴになかったのは、愛において自己犠牲があるか否かだったと言える。ビーラーは、ラーギニーを愛するが故に、宿敵でありながら、ラーギニーの夫であるデーヴを助けた。ラーギニーはビーラーに対し、「もしデーヴを助けてくれたら私はあなたと一緒に住む」と申し出る。二人はそれぞれの愛を貫くために全く同じ自己犠牲の精神を持っていた。しかしデーヴは違った。14日間に渡ってビーラーを追う中でデーヴは嫉妬と疑念を募らして行く。マニ・ラトナム監督は、彼の募る嫉妬を劇中で映像のみを用いて非常に効果的に表現していた。彼の愛は、「スター・ウォーズ」で言うところの暗黒面に落ち、再会したラーギニーを心から信頼できなくなる。ビーラーに同情していたラーギニーは、自分が無事に救出されたことでビーラーに対する追尾は終わるのかと考えていた。デーヴの必死の捜索は、自分への愛から来るものだと信じていたからである。だが、デーヴはラーギニー救出後もビーラーを追い続け、最後には彼を射殺する。結局デーヴにとっては愛よりも仕事が優先であった。そしてその仕事への使命も結局は嫉妬の炎を原動力とするもので、それは嫉妬の相手の殺害でしか収まらないものであった。たとえそれが命の恩人であっても判断は変わらなかった。ビーラーのすがすがしい嫉妬とは正反対である。デーヴには警察としての立場、夫としての立場があったのはもちろんだが、結局は彼に自己を投げ出すほどの愛が備わっていなかったことが、この三角関係において彼が敗者に位置づけられることになる原因になったと言える。

 「ラーマーヤナ」の他に、「Raavan」はインド政府とナクサライト(インド共産党毛沢東主義派、マオイストなどとも呼ばれる)の戦いも重ね合わされている。タミル語版がどういう設定になっているか分からないが、ヒンディー語版では、明記はないものの、ビーラーがムンダー族であることやラールマティーという地名から、ジャールカンド州、西ベンガル州、チャッティースガル州にまたがる森林地帯におけるナクサライトの反政府ゲリラ活動がモチーフになっていることが予想された。ムンダー族は最初期にインド亜大陸に定住した人々で、上述の森林地帯に居住する部族のひとつである。ナクサライトの活動地域と、インド中央部の天然資源豊富な森林地帯と、部族多住地域は重なっており、それらは関連し合ってナクサライト問題を形成している。また、劇中に登場するラールマティーは、アッサム州に同名の地名があるようだが、西ベンガル州のナクサライトの牙城ラールガルを意識した架空の地名だと考えられる。

 一般にインド政府とナクサライトの戦いでは、インド政府が善とされ、ナクサライトはテロリストと同義の悪とされる。だが、善悪観の逆転を本質とする「Raavan」では、本当にインド政府側に正義があるのか、ナクサライト側に正義はないのか、という疑問が投げ掛けられていたと言える。ナクサライトの大半は、開発によって先祖代々の居住地や職を奪われた部族たちであるとされる。元々森林の奥深くでほぼ自給自足の生活をしていた彼らは、中央政府や州政府が推し進める開発によって様々な弊害を被り、武装闘争に加わって生来の権利を死守するより他に生きる道を見出せなくなってしまっている。社会活動家アルンダティ・ロイがナクサライトを「銃を持ったガーンディー主義者」と表現し擁護していることも特筆すべきである。「Raavan」では、ナクサライト問題の本質にまでは切り込んでいなかったものの、反政府武装闘争に参加せざるを得ない人々を一方的に武力で押さえつけて行く政策への疑問が暗に投げ掛けられていた。森林に暮らす平和な部族が外部の強大な権力に蹂躙されるという点や、権力側にいた人物が部族側に荷担するという点では、ハリウッド映画「アバター」(2009年)にも通ずるものがあった。

 「Raavan」は、叙事詩「ラーマーヤナ」の深い理解があって初めて監督の真意が理解できる作品である。さらにそれに現代インドの大きな脅威となっているナクサライト問題を重ね合わせることにも成功している。神話に新たな視点を持ち込みながら、現代の文脈でストーリーを構築して行くマニ・ラトナム監督の手腕には今一度感服させられてしまった。同じ6月には、「マハーバーラタ」を現代に置き換えたプラカーシュ・ジャー監督の「Raajneeti」(2010年)が公開されているが、監督しての才能は、これら2作品のみで比較するならば、マニ・ラトナムの方が数段上であると評価せざるを得ない。そしてこれは撮影監督サントーシュ・シヴァンの功績が大きいだろうが、「Raavan」では圧倒的映像美も大きな見所だった。森林の自然の美しさ、アイシュワリヤー・ラーイ・バッチャンの美しさ、主にこの2つの美を、水や光を効果的に使いながら、カメラが細部まで表現していた。雨が降ったり滝や川に浸かったりして濡れるシーンが多く、全体的にじっとりと湿った雰囲気の映画であった。映像から何か匂い立つものがあったのは、サントーシュ・シヴァンの類い稀な才能の賜物であろう。ちなみに森林シーンの大部分はケーララ州のニールギリにあるサイレント・バレー国立公園で撮影されたようだ。

 今回アビシェーク・バッチャンとアイシュワリヤー・ラーイ・バッチャンは、「Dhai Akshar Prem Ke」(2003年)、「Kuch Naa Kaho」(2003年)、「Umrao Jaan」(2006年)、「Dhoom: 2」(2006年)、「Guru」に引き続き、6作目の共演となる。結婚後は初共演だ。しかし、夫婦でありながら、誘拐する側の役とされる側の役を演じており、トリッキーな配役となっている。まず印象深いのはアイシュワリヤーの好演である。崖から飛び降り、雨に濡れ、ボロボロの服を身に纏い、髪をボサボサにし、石の上で寝、手で飯を喰らい、泥だらけ、傷だらけになりながら(実際に撮影中に怪我をした)、気迫の演技をしていた。ほとんどすっぴんの場面も多かったのだが、彼女の美しさはより引き立っており、女優としての底力を感じさせられた。ただ、彼女の元々の弱点である声の悪さが目立つところがあり、せっかくの熱演も多少滑稽になってしまっているところがあった。しかし声に関してはどうしようもないので、これは「この世に完璧な人間はいない」ということで納得しておくしかないだろう。アビシェークもアイシュワリヤーに負けず劣らず熱演であった。一見挙動不審だが底抜けに純真なビーラーを全身で演じていた。「Yuva」でもパワフルな演技をしていたが、それ以上にダイナミックな演技をしていたと言える。

 デーヴ役のヴィクラムはタミル語映画界では確立したスターだが、ヒンディー語映画界では新顔となる。映画の開始時は善玉であったはずが、後半になるにつれて悪玉に見えるようになって行くという困難な演技をマニ・ラトナム監督には求められていたはずである。それを完遂できたかどうかについては多少疑問であるが、彼はタミル語版「Raavanan」では真逆の役を演じねばならず、今回の撮影でもっとも苦労したはずだ。タミル語映画「Dasavathaaram」(2008年)で一人10役を演じたカマル・ハーサンもそうだが、無理にそんなことをさせる必要があったのかとマニ・ラトナム監督に聞いてみたい気もするが、少なくともヒンディー語版での演技に限ると、アビシェークとアイシュワリヤーに対抗できる貫禄はあったものの、ヒンディー語映画のヒーロー向きの顔ではないと感じた。

 サンジーヴァニー役のゴーヴィンダーは一応助演の位置にいるが、それほど見せ場はなかったし、見せ場があったにしても蛇足に感じた。むしろマンガル役ラヴィ・キシャンの快演の方が目立った。ラヴィ・キシャンはボージプリー語映画界のスーパースターであり、ヒンディー語の一方言に分類されるボージプリー語の軽妙な言い回しが面白かった。また、ジャムニーを演じたプリヤマニはタミル語映画の女優である。ヴィディヤー・バーランの従姉妹らしい。

 音楽はアカデミー賞・グラミー賞受賞の音楽家ARレヘマーン。恩師マニ・ラトナムへの楽曲提供とあって一段と気合いの入った音楽になっているが、中でも白眉はタイトル曲「Beera」である。しかし、映画全体のバランスや雰囲気とダンスシーンが合っていないようにも感じた。前半は穏やかなメロディーの「Khili Re」以外は大したダンスシーンがなかったものの、後半には2つの激しい群舞「Thok De Killi」と「Kata Kata」が立て続けに入る。「Guru」でも感じたことだが、タミル語映画の習慣からか、無理にダンスシーンを入れる癖がマニ・ラトナム監督の映画からは感じられる。ヒンディー語映画を見慣れていると、そういう点はマイナスに感じてしまう。

 基本的にはヒンディー語映画であるが、ビーラー、マンガル、サンジーヴァニーなど、森林に住む人々は訛ったヒンディー語を話す。それはボージプリー方言がベースになっているものの、架空の方言とでも言うべきものとなっている。日本語でも、一人称を「オラ」にしたり、語尾に「~だべ」を付けたりすれば方言っぽくなるのと同じである。その影響で聴き取りは困難な部類に入るだろう。

 前述の通りロケの大部分はケーララ州ニールギルのサイレント・バレー国立公園で行われた。他にマディヤ・プラデーシュ州オールチャーのシーンもあったし、ウッタル・プラデーシュ州ジャーンスィー、西ベンガル州コールカーター、マハーラーシュトラ州マルシェージ・ガート、タミル・ナードゥ州ウダガマンダラム(ウータカマンド、ウーティー)などでも撮影が行われている。インド各地で撮影を行ったと言っても過言ではない。だが、南インドと北インドの風景はかなり質が違う。ロケ地が一気に変わるために、風景の質が変わって違和感を覚えることもあった。

 「Raavan」は、巨匠マニ・ラトナム渾身の傑作である。インド神話に潜在的に存在する善悪の混乱に、舞台を現代に置き換えてメスを入れた意欲作だ。撮影監督サントーシュ・シヴァンの手腕も冴えているし、アイシュワリヤー・ラーイ・バッチャンの美しさも際立っているし、ARレヘマーンの音楽も素晴らしい。アンハッピーエンディングであるため、大衆受けする性格の映画ではないが、インド映画最高レベルの才能が結集した、インド映画最高峰の一端を担う映画だと評価できる。興行的には「大惨事」のラッテルを貼られているが、今年必見の映画の一本である。

 ちなみに、ヒンディー語版「Raavan」とタミル語版「Raavanan」の比較は、カーヴェーリー川長治の南インド映画日記ポポッポーのお気楽インド映画で行われているので参照されたい。もうデリーではタミル語版「Raavanan」が公開されていないので僕は比較ができない。ただし、両氏ともマニ・ラトナム監督には一目置いているようではあるが、カーヴェリー川長治氏は「Raavan/Raavanan」に対して否定的な見解であるし、ポポッポー氏も手放しの称賛はしてない。この映画について是非もっと多くの方々の意見を知りたいものである。