Athiti Tum Kab Jaoge?

3.0

 インドには「アティティ・デーヴォー・バヴァハ(अतिथि देवो भवः)」というサンスクリット語の美しい言葉がある。「客人は神様と同じ」という意味である。客人の世話をすることは神様の世話をすることと同じで、功徳を積む行為だとされる。インドの宗教的な祭りを分析すると、客人となって家にやって来る神様をもてなし、その後に送り出すというプロセスを取っているものがいくつかある。例えばナヴラートリからダシャハラーにかけての期間は、ドゥルガー女神が各家庭にやって来て9日間滞在し、また去って行くお祭りであり、ガネーシュ・チャトゥルティー(ガネーシュ生誕祭)は、やはりガネーシュ神が11日間各家庭に滞在するお祭りである。インドでは、客人は神様であり、神様は客人なのである。

 また、「アティティ」という言葉は「客」を意味するのだが、この語は「ア」と「ティティ」に分解することが出来る。「ア」は否定の接頭語、「ティティ」は「日にち」である。つまり、「客」とは、「やって来る日が分からないもの」であり、言い換えれば、突然の来客こそが真の客人であり、そういう「招かれざる客」を精一杯もてなすことが、神様への信仰につながると考えられている。

 だが、突然の来客を歓迎する文化は、大家族制と切っても切れない関係がある。様々な世帯に属する多人数のメンバーで構成されている家庭では、1人や2人、人が増えても、毎日の生活にそう変化は起こらない。だから、突然の客人を歓待するだけのキャパシティーを持っている。だが、核家族で、しかも夫婦が共働きの家庭ではそうはいかない。1人客人が来ただけで、生活に大きな支障が出て来る。つまり、来客を歓迎しない文化が生まれやすくなる。2010年3月5日公開の「Atithi Tum Kab Jaoge?」は、そんな典型的な核家族・共働き家庭に突然やって来て居座り、なかなか帰ろうとしない客人を巡る騒動を描いたコメディー映画である。毎日の雑事に忙殺されて人間関係が希薄になりがちな現代人の生活と、人間関係第一の古き良き田舎の生活のギャップを風刺した映画とも言える。

監督:アシュヴィニー・ディール
制作:アミター・パータク
音楽:プリータム
歌詞:イルシャード・カーミル
振付:ラージュー・カーン、アハマド・カーン、ラヴィ・バタリー
出演:アジャイ・デーヴガン、コーンコナー・セーンシャルマー、パレーシュ・ラーワル、サティーシュ・カウシク、アキレーンドラ・ミシュラー、サンジャイ・ミシュラー
備考:サティヤム・シネプレックス・ネループレイスで鑑賞。

 シナリオライターのプニート(アジャイ・デーヴガン)とインテリア・デザイナーのムンムン(コーンコナー・セーンシャルマー)の夫婦は、1人息子と共に、ムンバイーのマンション・ソサエティーに住んでいた。ある日、彼らの家に、ウッタル・プラデーシュ州のゴーラクプルから、ランボーダル・バージペーイー(パレーシュ・ラーワル)という名の「叔父」が訪ねて来る。プニートはそんな叔父がいたとは知らなかったが、とりあえず家に迎え入れる。

 田舎暮らしのランボーダルは、田舎の生活習慣をそのままムンバイーのマンション・ソサエティーでも守ろうとする。早朝起床して大音響でうがいをし、掃除人の掃除の仕方を厳しく監視し、勝手に客人を招き入れ、次から次へと料理の注文をする。プニートもムンムンもランボーダルの直接的・間接的な邪魔のせいで、仕事を失いかけることになる。既に滞在日数は数週間になろうとしており、一体いつ帰ってくれるのかとイライラを募らせる毎日であった。何とか無理矢理送り返そうと何度か計画を立てたが、どれも失敗に終わった。

 折りしもガネーシュ生誕祭の時期であった。ランボーダルは家にガネーシュ神の像を安置し、お祈りを始める。その頃から次第にプニートとムンムンの人生はランボーダルの存在のおかげで好転し始める。ところが、ガネーシュ生誕祭最終日、ガネーシュ像を家族で海に流しに行ったところ、ランボーダルが行方不明になってしまう。祭りの会場ではあまりの混雑のせいで人々が将棋倒しになり、多数の死者が出るという事件が発生する。プニートらは病院を回ってランボーダルの安否を確認するが、見つからなかった。

 翌朝、マンションに戻って来ると、ランボーダルが家を出ようとしていた。ランボーダルは駅に切符を予約しに行っており、そのせいで昨晩帰りが遅くなってしまったのだった。プニートは連絡しなかったことを怒るが、それと同時に叔父が無事だったことにホッとし、そしてもう行ってしまうことに悲しみを覚えていた。ランボーダルは、また来年来ると言って去ろうとする。ところが、そこへランボーダルを「叔父さん」と呼ぶ人物が現れる。実はランボーダルはプニートの叔父ではなく、その人の叔父だった。マンションの棟を間違えたためにプニートの家に来てしまったのだった。

 単に、迷惑な客人が引き起こす騒動を面白おかしく描いたコメディー映画ではなかった。客をもてなすという当然の行為ができなくなっているほど余裕がない現代の都会人の生活様式への批判であるだけでなく、核家族の危険性への警鐘もこの映画のメッセージに間違いなく含まれていた。主人公の家庭は夫婦共働きで、それぞれの仕事でそれぞれ成功のための努力が払われていたが、その代わり彼らの子供は、普通は家庭で自然に身に付けるべき知識を身に付けられておらず、ヒンディー語のテストで赤点を取ったりしていた。だが、「叔父」が家に来たことで、本来祖父母から孫へと受け継がれるべき伝統的な知恵や情緒教育の継承が生まれ、子供はヒンディー語のテストでも高得点を取るようになった。古い価値観や道徳観を捨てた都会の生活に「本当にこれでいいのか?」と疑問を投げかける映画が近年目立つようになって来たが、「Atithi Tum Kab Jaoge?」は、コメディータッチで、観客を楽しませながら、そういう社会的メッセージを伝えるのに成功していた。

 アジャイ・デーヴガンは、はっきり言って元々あまり家庭的なイメージのない男優なのだが、人気女優カージョルと結婚し、夫婦揃って家電製品などのTVCMによく出演しているため、すり込み効果によって、いつの間にか家庭人のイメージにもフィットして来ているように感じる。「Atithi Tum Kab Jaoge?」はそれをうまく利用したと言える。コーンコナー・セーンシャルマーとのスクリーン上の相性は必ずしもよくないのだが、コーンコナー自身演技力のある女優であるため、チグハグさは感じなかった。

 パレーシュ・ラーワルは既にヒンディー語映画界で一目も二目も置かれた演技派男優であり、特にコメディーは彼の得意分野で、この映画の台風の目となっていた。同時に、周囲の人々への底なしの愛情も自然に表現しており、「招かれざる客」に適任であった。

 音楽はプリータムだが、それほどストーリーに密接に関わった挿入歌はなかった。ひとつコメントをしておくと、ヴィシャール・バールドワージ監督「Omkara」(2006年)のヒット曲「Beedi」を、ドゥルガー女神の賛歌に替え歌した「Jyoti Jalaile」が面白かった。ヒンディー語映画のヒット曲を神様の賛歌に(勝手に?)改造して売り出すのは実はインドの宗教的聖地でよく見られる現象である。そういう替え歌が収められたCD、VCD、DVDが寺院やダルガー(聖者廟)の参道などで売られている。「Jyoti Jalaile」はそれをヒンディー語映画を作っている側がさらにパロディーにした画期的な例だと言える。

 言語はヒンディー語だが、パレーシュ・ラーワル演じるランボーダルはサンスクリット語彙を多用したシュッド・ヒンディー(純ヒンディー語)に近い話し方をする。よって、日常会話程度の語学力だと多少理解度が落ちるだろう。

 「Atithi Tum Kab Jaoge?」は、社会的メッセージが込められた、意味のあるコメディー映画である。現代の都市在住インド人が都会の日本人とあまり変わらない悩みを抱えているのも垣間見られて面白い。期待していたほどゴージャスな雰囲気の映画ではなかったが、観て損はない。