3 Idiots

5.0

 ヒンディー語映画界の中で、その徹底した完璧主義から、「ミスター・パーフェクト」と一目置かれる俳優アーミル・カーンは、ここのところ1年1作のペースを堅実に守っており、しかも出演作が年末に公開されることが恒例となって来ている。一昨年の最後を締めくくった「Taare Zameen Par」(2007年)では初めてメガホンを取り、主演も果たした上に、興行的にも批評的にも成功した。昨年末に公開された「Ghajini」(2008年)は、ヒンディー語映画では久々となる本格的アクション映画で、記録的大ヒット作となった。そして2009年末、アーミルは意外な方向転換を見せ、軽妙なコメディー映画と共に帰って来た。人気小説家チェータン・バガトの小説「Five Point Someone」(2004年)をルーズにベースとした「3 Idiots」である。監督は「Munna Bhai」シリーズで有名なラージクマール・ヒーラーニー。2009年12月25日公開だが、前日にデリー各地の映画館で有料プレビューが行われていたため、一足先に鑑賞することが出来た。結論から先に言うと、必ずしも豊作ではなかった2009年のヒンディー語映画界を一気に潤す恵みの雨のような傑作である。さすがアーミル・カーンと言ったところか。今年必見の映画だと言っていい。

監督:ラージクマール・ヒーラーニー
制作:ヴィドゥ・ヴィノード・チョープラー
原作:チェータン・バガト「Five Point Someone」
音楽:シャーンタヌ・モーイトラー
歌詞:スワーナンド・キルキレー
振付:ボスコ・シーザー
衣装:マニーシュ・マロートラー、ラグヴィール・シェッティー
出演:アーミル・カーン、Rマーダヴァン、シャルマン・ジョーシー、カリーナー・カプール、ボーマン・イーラーニー、モナ・スィン、ジャーヴェード・ジャーフリー
備考:サティヤム・シネプレックス・ネループレイスでプレビュー鑑賞、満席。

 デリー在住のファルハーン・クレーシー(Rマーダヴァン)とラージュー・ラストーギー(シャルマン・ジョーシー)は、ある日突然、大学時代の同級生チャトゥル・ラーマリンガム(オーミー)から呼び出され、大学へ向かう。チャトゥルは大学時代の恨みを晴らすためにファルハーンとラージューを呼び出したのだが、2人はランチョー(アーミル・カーン)が来ると聞いて飛んで来たのだった。だが、その場にランチョーはいなかった。ランチョーはファルハーンとラージューのルームメイトだった人物で、3人は大の親友であった。しかし、ランチョーは大学の卒業式以来消息不明となっていたのだった。

 ガッカリするファルハーンとラージューであったが、チャトゥルはランチョーがシムラーにいることを知っていた。早速三人はランチョーに会いにシムラーへ向かう。

 ランチョー、ファルハーン、ラージュー、チャトゥルはかつて、インド有数の工科大学インペリアル・カレッジ・オブ・エンジニアリング(ICE)に通う学生であった。彼らは皆、厳しい受験戦争を勝ち抜いて来たエリートだったが、ランチョーだけは他のどの学生とも違っていた。彼は競争に勝ち抜いて成功を掴む人生を理解せず、好きなことを突き詰める人生を信じていた。ところが、ICEの学長ヴィールー・サハストラブッデー、通称ウイルス(ボーマン・イーラーニー)は、弱肉強食の競争による切磋琢磨を美徳とする教育者で、学校の教育方針も彼の信念に沿っていた。初日からウイルスとランチョーの間で意見の対立が見られたが、それは日に日に増して行った。だが、ファルハーンとラージューはランチョーを尊敬しており、彼と波瀾万丈の学生生活を満喫していた。一方、チャトゥルは典型的ガリ勉君で、ランチョーを馬鹿にしながら勉強に専念していた。だが、なぜか期末試験のトップはランチョーであった。

 ランチョーはある日、潜り込んだ結婚式でピヤー(カリーナー・カプール)という女医と出会い、恋に落ちる。だが、ピヤーは天敵ウイルスの娘であった。ピヤーは、フィアンセがいたこともあり、最初はランチョーに冷たく当たるが、彼の純真さや発想力に惹かれ、徐々に2人は仲良くなる。ある晩、ファルハーンとラージューに背中を押されたランチョーは、酔っぱらっていたこともあり、思い切ってウイルスの家に忍び込んでピヤーに愛の告白をする。そのとき同行していたファルハーンとラージューは、ここぞとばかりにウイルスの家の玄関で小便をしたりして鬱憤を晴らす。ウイルスに気付かれそうになって逃げ出したのだが、そのときにラージューだけ顔を見られてしまう。ラージューはウイルスに呼び出され、停学処分にされそうになる。普段からランチョーを敵視していたウイルスは、もし罪をランチョーになすりつけるなら許すと逃げ道を提示する。貧しい家庭に育ったラージューの肩には家族の生死がのしかかっており、停学処分は一家破滅を意味した。だが、ランチョーを裏切る訳にも行かなかった。板挟みになったラージューはその場で飛び降り自殺を図る。

 ラージューは一命を取り留めたが打ち所が悪く、植物人間状態となってしまった。しかし、ランチョーらの必死に努力により意識を取り戻し、身体も動くようになった。この事件により、ラージューの停学処分も取り消しとなった。退院時にはちょうど就職の面談が行われており、車椅子姿のままラージューは面談へ向かう。そこでラージューは正直に怪我をした理由を企業の面接官に語る。面接官もラージューを気に入り、彼の採用を内定する。

 一方、ファルハーンは元々動物写真家を夢見ていたが、父親の意志で無理矢理工科大学に入学させられていた。ランチョーはファルハーンの写真の腕を認めており、彼に再三エンジニアを目指すのを辞めて写真家を目指すべきだと助言していた。ファルハーンは、もしランチョーがピヤーに告白したら自分も写真家の道を歩むと約束しており、とうとう思い切って父親に自分の意志を打ち明ける。最初は戸惑った父親も最終的には息子の決断を受け容れる。ランチョーのおかげでファルハーンとラージューの人生は好転し始めた。

 ラージューの就職内定を知って驚いたのはウイルスであった。彼はもしラージューが就職できたら髭をそり落とすとランチョーに対して宣言していた。あとはラージューを落第させて蹴落とすしか助かる道はなかった。ウイルスは自ら試験問題を作り、絶対にラージューが合格しないように画策した。しかし、それを知ったプリヤーは試験前日にランチョーのところへ学長室の合い鍵を持ってやって来る。ランチョーとファルハーンは真夜中学長室に忍び込んでテストをコピーするが、それがウイルスにばれてしまう。ウイルスは3人を即時停学とし、寮から追い出す。

 ところがその日デリーは大雨に見舞われており、交通が麻痺していた。ウイルスの娘でピヤーの姉が急に産気づいてしまい、ウイルスは必死に救急車を呼ぼうとするが、洪水のためどこからも断られてしまった。それを知ったランチョーは、そのときちょうど病院にいたピヤーとウェブカメラで連絡し合い、寮のホールで姉の出産を行うことにする。停電により一時連絡が途絶えてしまうが、ランチョーの発明したインバーター装置により電気を復旧させ、難産となった出産を、これまた掃除機を改造した即席吸引器によって成功させる。生まれた子供は最初息をしていなかったが、これもランチョーの口癖「オール・イズ・ウェル」が魔法の合い言葉となり、息を吹き返す。その土壇場の応用力に舌を巻いたウイルスは初めて彼を認め、3人の停学処分を取り消す。

 卒業式の日。ランチョーは主席での卒業となった。だが、その日を最後にランチョーは姿を消してしまったのだった。

 シムラーに着いたファルハーンとラージューは、ランチョーの本名ランチョールダース・シャーマルダース・チャーンチャルを頼りに彼を捜す。すると地元の人々は誰でも彼のことを知っていた。なぜなら当地の有力者の御曹司だったからである。しかし、そこにいたランチョールダースは全くの別人(ジャーヴェード・ジャーファリー)であった。そして彼は本物のランチョールダースであった。どういうことか問い詰めてみると、実はファルハーンらがランチョーと呼んでいたのは、彼の家の庭師の息子であった。彼は子供の頃から学問に興味があり、学校に忍び込んでは授業を受けていた。それをいいことにランチョールダースは彼に宿題をやらせていた。そのまま彼はランチョールダースの代わりに大学まで進み、学位を取ったのだった。ランチョールダースはファルハーンらに彼の居所を教える。彼は現在ラダックのとある学校にいるとのことであった。

 ファルハーンとラージューは、抵抗するチャトゥルを拘束してそのままラダックへ向かう。チャトゥルは勤務先企業のために天才的科学者プンスク・ワンドゥと商談しなければならなかったため、そんなところへ行く余裕などなかった。だが、ファルハーンとラージューはそんなことお構いなしであった。と、途中で二人はランチョーの恋人ピヤーのことを思い出す。どうせならピヤーも呼ぼうと思い付き彼女に電話するが、その日はちょうど彼女の結婚式で、マナーリーで結婚式を挙げていると知らされる。ランチョーに取り残されたピヤーは、かつてのフィアンセとの結婚を決めたのだった。ファルハーンとラージューはまずはマナーリーへ向かうことにする。

 マナーリーでファルハーンとラージューはピヤーの結婚式に潜入し、彼女を説得して式場から連れ去る。そして一路ラダックへと向かう。学校に着くと、ランチョーらしい発明品で溢れかえっていたが、ランチョーの姿が見当たらなかった。しかし、そこにはかつて大学の寮で小間使いをしていた男の子がいた。彼に教えられて、湖の畔で飛行機を飛ばすランチョーを発見する。ピヤー、ファルハーン、ラージューはランチョーとの再会を喜ぶ。そこへチャトゥルが進み出る。そもそもチャトゥルは、同級生の中で誰が一番成功しているか確認するために皆を招集したのだった。チャトゥル自身は大企業に勤め、高額の月給を得ていた。ラダックの片田舎でしがない教師をしているランチョーを見てチャトゥルはほくそ笑み、負けを認めさせる。ところが、ランチョーの本名を知ってチャトゥルは態度を一変させる。なんとチャトゥルが会おうとしていた科学者プンスク・ワンドゥがランチョーだったのだ!

 インドの伝統的モチーフに敢えてほとんど触れずに、これほどまでインドらしく、インド映画らしい映画が作れるとは!おまけに現代のインドの若者が直面している問題にも深く踏み込んでおり、単なるお馬鹿なコメディー映画ではなく、社会的メッセージのある有意義な映画になっていた。2009年のヒンディー語映画界は不作だったかもしれないが、この一本の存在だけでそれが吹き飛んでしまうぐらいである。正に有終の美。間違いなく今年のベストである。純粋に娯楽映画と見ても申し分ない。

 この映画の中心的なメッセージは受験戦争システムへの痛烈な批判だ。自分の夢を子供に押しつける親、学生に弱肉強食の競争を強いる教師、数字至上主義の学校、そしてそれらのプレッシャーに押しつぶされ塗りつぶされて行く若者たち。そんな現代インドが抱える問題が赤裸々に描き出されていた。映画の主な舞台となっていたのは架空の工科大学だが、これは明らかにインド工科大学(IIT)がモデルとなっている。IITと言えば、優秀なインド人ITエンジニアを輩出する名門校であり、エンジニア志望のインド人学生の最大の目標である。IITに入学すれば世界中の大企業が向こうからスカウトにやって来るほど引っ張りだこの存在となり、バラ色の人生が待っている・・・しかし、その華々しいイメージとは裏腹に、競争に勝ち残れなくて潰れて行ったり、人生で本当に大切なものを失って行ったりする若者も少なくない。学生時代から数字に追われる人生を送って来ているため、卒業後も年収という数字を人生のバロメーターとして考え、視野の狭い人間になって行く。IITほどの大学に入学を目指すなら、受験勉強は小学生の頃から始めないと間に合わないとされる。そしてIITほどの大学に入学に入った後も、テストに次ぐテストをこなす毎日で、大きな重圧がかかる。もちろん、それに耐えきれなくなる若者も出て来る。劇中でも1人の学生が大学の厳しい教育制度のせいで自殺してしまった。

 そのシステムに真っ向から戦いを挑むのが主人公のランチョーである。ランチョーは優れた発想力と頭脳を持った天才タイプの人間で、大学で正義となっていたトップのみを目指した競争や教科書丸暗記の知識を理解していなかった。何よりランチョーは他の学生と違って学位のために大学で勉強している訳ではなかった。ただ単に知識を得たいという純粋な動機の下に勉強していた。ランチョーの座右の銘は「何事も好きなものを極限まで磨き上げて行けば成功は嫌でも後から付いて来る」であった。好きなこと、自分に合ったことをとことん突き詰めて生きることに価値を見出しており、自分の夢を捨てて工学を学ぶファルハーンに、夢を追うように働きかけていた。そしてランチョーは何より友人思いの純真な人間であった。仲間を蹴落としてトップを目指すことが半ば公認となっている大学内で、彼の存在は希有だった。インド人の子供は猫も杓子も将来の夢をエンジニアと答える傾向にあるとされるが、本当にそれは彼ら自身の夢なのか?その過酷なレースに参加している若者の内のどのくらいが本当に学問自体を愛しているのか?もし嫌々勉強しているなら、そこにどうして創造性が生まれようか?若い頃に夢を諦めてしまったら、いくら経済的に成功しても一生後悔することにならないだろうか?コメディー仕立ての展開の中で、そんな問い掛けが何度も観客に投げかけられていた。

 BRICsの一角として急成長を遂げるインドだが、本当にそのまっしぐらな成長戦略が若者のためになっているのか、社会全体の安定のためになっているのか、ヒンディー語映画界ではここに来てそんな問い掛けがなされるようになって来たように思う。先日見た「Rocket Singh: Salesman of the Year」(2009年)も突き詰めればその点に行き当たるし、アーミル・カーン監督作品「Taare Zameen Par」も本質は似通っていた。社会の発展がスピード過多となっており、振り落とされる人もいれば、しがみつくのに必死で回りが見えない人も出て来ている。ここらで一度ブレーキを踏んで来た道を冷静に振り返ってみよう、失ってはいけないものを失ってしまってはいないだろうか考えてみよう、と訴える動きが出て来るのはしごく自然であり、また意味のあることだと思う。

 「3 Idiots」は、回想シーンではあるが、大学が主な舞台となっており、インドの大学生活を絶妙に再現した作品の一本と言える。特に寮の雰囲気などは現実そのもので、インドで大学生活を送って来た身としては個人的にとても身近に感じた映画であった。シャワーを浴びているときに水が出なくなるシーンなどは身をもって体験した!しかし、ラギングが否定的トーンなしに描かれていたのは多少問題視されるかもしれない。ラギングとはインドの学校で慣例化している新入生いじめである。上級生と仲良くなる必要悪の儀式だと肯定的に捉える人もいるが、ラギングが原因で死亡する若者も毎年出ており、世論は完全撲滅を求めている。ラージクマール・ヒーラーニー監督は「Munna Bhai M.B.B.S.」(2003年)でもラギングシーンを入れており、どうもラギングに特別な思い入れのある監督みたいだが、ラギングの美化は批判されて然るべきであろう。だが、紙面を賑わすものの、部外者はなかなかラギングを目撃できない。特にインドで学生生活を送ったことのない大半の日本人にはイメージが沸きにくいだろう。ラギングがどんなものなのかを垣間見るためには、「3 Idiots」は「Munna Bhai M.B.B.S.」と並んでいい作品である。また、ラギングと関連して、多少お下品なシーンもいくつかあるのは注記しておきたい。

 完全に海外が舞台のヒンディー語映画が増えている中、「3 Idiots」は北インドに密着した作品であった。主な舞台はデリーで、そこからシムラー、マナーリー、ラダックへと北に北に移動する。そのロードムービー的な展開も売りで、ヒマーラヤ山脈の圧倒的な景色が映画に美を添えている。やはりインドの地に足の着いた映画は特別である。

 前作「Ghajini」でマッチョな肉体を創り上げたアーミル・カーンは、今回は一気に筋肉をそぎ落とし、学生らしい姿になっていた。アーミルは既に44歳になっているが、生来の低身長をうまく利用して学生らしさを醸し出すのに成功していた。それだけでなく、七面相の演技を見せており、彼の変幻自在の演技が映画の大きな見所となっている。また、アーミルは主演作を変わった方法でプロモートすることでも知られている。例えば「Ghajini」のときはデリーで床屋になってガジニー・カットを広めた。今回は変装してヴァーラーナスィー、コルカタ、パンジャーブ州の農村、チェンナイなどに出没し、話題となった。

 他の「イディヤット」も持ち味を活かした素晴らしい演技だった。シャルマン・ジョーシーは「Rang De Basanti」(2006年)でアーミルと共演しており、今回も息がピッタリであった。今まででベストの演技と言える。南インド映画界の名優Rマーダヴァンも「Rang De Basanti」にカメオ出演していたが、今回はフルでアーミルと馬鹿騒ぎを繰り広げていた。

 だが、やはり笑いの中心にいるのはヴィールー・サハストラブッデー学長である。彼は名前の先頭「Viru Sahastrabuddhe」を取って学生たちから「Virus(ウイルス、インド風発音だとヴィールス)」と呼ばれていた。人生弱肉強食のレースがモットーで、1分たりとも時間を無駄にしないように生きており、学生たちにも同じ生き方を強いる怖い先生であった。映画は、ボーマン・イーラーニー演じるこのウイルスと、アーミル演じるランチョーの対決を中心に展開する。この構造は、ラージクマール・ヒーラーニー監督の「Munna Bhai M.B.B.S.」や「Lage Raho Munna Bhai」(2006年)と共通しており、徐々にワンパターン化している嫌いがあるが、効果的な方程式であることに変わりがない。

 ヒロインはカリーナー・カプールであったが、通常の映画に比べてヒロインの重要性は低かった。カリーナーも多少迷い気味の演技だった印象を受けた。映画の題名が「3 Idiots」で、馬鹿が主人公の作品であるため、カリーナーも馬鹿の一味なのかと思いきや、必ずしもそうでなく、結果的に中途半端で損な役回りになっていたと思う。特に真夜中酔っぱらってランチョーの部屋を訪ねて来るシーンは、酔っぱらう必要性があったのかと思う。最終試験の答案用紙が収められた学長室の鍵を盗むためには酒の力が必要だったと一応説明されてはいたが、そんな危険なことをするのに逆に酔っぱらっていては不利だろう。三馬鹿に対してどのような位置づけなのか、もう少しはっきりさせた方が彼女の役が生きたと思う。それに彼女の化粧やファッションも変なことが多かった。

 音楽はシャーンタヌ・モーイトラー。挿入歌の曲数は多くないが、物語の伏線となっている「Aal Izz Well」、軽快なダンスナンバー「Zoobi Doobi」など、ハチャメチャな大学生活を象徴するようなハチャメチャな楽曲が印象的だった。だが、もっとも心に響くのは、競争に負けた学生が自殺する前に歌う「Give Me Some Sunshine」であろう。競争の内に幼年時代も青春時代も無為に過ごしてしまったことを後悔するアコースティックギター・ベースの悲しい曲だ。

 言語はデリーの大学生の言葉遣いが最大限再現されており、英語とヒンディー語の自然なミックスとなっていた。ムートラヴィサルジャン(尿の放出)のようなシュッド・ヒンディー(純ヒンディー語)も冗談交じりで使われていた。中盤の最大の盛り上がりとなっているのが、ティーチャーズ・デー(教師感謝の日)式典におけるチャトゥルのヒンディー語演説だ。ウガンダ生まれでヒンディー語が不得手という設定のチャトゥルは、図書館の司書に演説内容を書いてもらい、暗記するが、ランチョーの悪戯によっていくつかの単語が致命的なものに置き換わっていた。例えばチャマトカール(奇跡)がバラートカール(強姦)、ダン(資金)がスタン(乳首)と言った具合に。だが、それに気付かずチャトゥルは得意になって学長や来賓の大臣の前で演説をし、大恥をかき、学長にも大恥をかかせてしまう。このときの恨みが、10年後の招集につながっていた。ティーチャーズ・デーはインドでは9月5日に祝われる。だから9月5日にファルハーンとラージューはチャトゥルによって大学に呼ばれたのだった。

 少子化が進み、いわゆる「ゆとり教育」が主流となった日本では、もしかしたらもう過去のような熾烈な受験戦争はないのかもしれない。だが、未成年人口が多く、学歴社会の傾向が顕著なインドの若者はますます熾烈な受験戦争にさらされている。その中で、競争だけが人生ではない、成功を追うことだけが成功の近道ではない、年収だけが人間の価値ではないという価値観を示す「3 Idiots」は、現代インド社会が向かう先への警鐘が込められた鋭い映画となっていた。もちろん皆が皆ランチョーのような人生を歩むことは出来ない。しかし、ランチョーのような生き方、考え方が公に認められる社会を作って行くことは急務であろう。インドの大学生活の様子がスクリーン上でうまく再現されていた点も個人的な体験から楽しめた。そして何より映画の語り口が斬新で飽きが来ず、3時間丸々スクリーンに釘付けになった。アーミル・カーンやボーマン・イーラーニーの演技も素晴らしい。「3 Idiots」は一応チェータン・バガトの小説が原作ということになっている。原作は未見なのだが、映画は原作の大枠を翻案しただけで、ほとんど別のストーリーになっているようだ。原作を読まない方が楽しめる作品かもしれないが、きっと「Slumdog Millionaire」(2008年)とヴィカース・スワループ原作「Q&A」のように、どちらもそれぞれ楽しめる作品になっているのだろう。今年最後の作品となってしまったが、文句なく今年ベストの映画であり、全ての人に勧めたい必見の映画である。


チャトゥルのスピーチ解説

 「3 Idiots」でもっとも観客の爆笑をさらったのは、チャトゥル・ラーマリンガム、通称サイレンサーがティーチャーズ・デー(教師の日)に行ったスピーチである。ウガンダ生まれでヒンディー語が得意でないチャトゥルは、司書が用意したヒンディー語のスピーチを丸暗記して式典に臨んだのだが、その原稿をアーミル・カーン演じるランチョーが予めいじっていたため、とんでもないことになってしまった、というシーンだ。今後インド映画史に残る名シーンとして記憶されることになるだろう。だが、サンスクリット語からの借用語を多用した難解なヒンディー語である上に、チャトゥルを演じるオーミーのヒンディー語が癖があるために、外国人がこれを理解して自然に笑うにはかなりの語学力を要する。字幕ではカバーできない種類の笑いである。以前「3 Idiots」の映画評でも少しだけ触れたが、一応ヒンディー語の専門家として、このチャトゥルのスピーチを解説し、何が面白いのかここで分析してみようと思う。

 まず、チャトゥルが壇上に立って話し始めた言葉は、言わば挨拶であり、発音のおかしさを除けば、特に笑いのポイントはない。以下にヒンディー語、アルファベット読み、日本語訳を掲載する。アルファベット読みは特に学術的なものではなく、なるべくローマ字読みしてうまく原音を再現できるようなものにしている。ただし、チャトゥルはヒンディー語が苦手という設定であるため、所々発音や文法は標準ヒンディー語から逸脱している。それらについては初学者の誤解を招かないように、ここではなるべく標準ヒンディー語に修正して書いている。また、文中に登場するICEとは、「3 Idiots」の舞台となった架空の工科大学、Imperial College of Engineering(帝国工科大学)の略称である。

आदरणीय सभापति महोदय
ādarnīya sabhāpati mahodaya
尊敬すべき学長殿

अतिथि विशेष शिक्षण मंत्री श्री आर. डी. त्रिपाठी जी
atithi vishesh shikshan mantrī shrī R.D. Tripathi jī
主賓の教育大臣RDトリパーティー殿

माननीय शिक्षकगण और मेरे प्यारे सहपाठियों।
mānnīya shikshakgan aur mere pyāre sehpāthiyon
尊敬すべき先生方、そして親愛なる学友の皆さん

आज अगर आई.सी.ई. आसमान की बुलंदियों को छू रहा है
āj agar ICE āsmān ki bulandiyon ko chhū raha hai
もし今日のICEが空の高みに届くほどの大学になったとするならば

तो उसका श्रेय सिर्फ़ एक इंसान को जाता है।
to uska shreya sirf ek insān ko jātā hai.
その功績はただ一人の人物のものであります。

श्री वीरू सहस्त्रबुद्धे। Give him a big hand. He is a great guy really.
shrī Viru Sahstrabuddhe! Give him a big hand! He is a great guy really!
ヴィールー・サハストラブッデー氏であります。彼に大きな拍手を!彼は本当に偉大な人物であります!

 この後から、ランチョーの悪戯が猛威を振るい始める。彼は、司書が作成した原稿にあった「奇跡」という意味の「चमत्कार(チャマトカール)」という単語を、ワープロソフトの置換機能を使って全部「暴行」「強姦」という意味の単語「बलात्कार(バラートカール)」に変えてしまっていたのである。以下、実際のスピーチのまま書き下すが、赤字の部分を「奇跡」に置き換えると、元のスピーチがどのようなものだったか想像できる。

पिछले बत्तीस साल से इन्होंने निरंतर इस कॉलेज में बलात्कार पे बलात्कार किए।
pichhle battīs sāl se inhone nirantar is College men balātkār pe balātkār kie.
この32年間、彼は絶え間なくこの大学において、強姦に次ぐ強姦を行って来ました。

उम्मीद है आगे भी करते रहेंगे।
ummīd hai āge bhī karte rahenge.
今後もそれを続けて行かれることでしょう。

हमें तो आश्चर्य होता है कि एक इंसान अपने जीवनकाल में इतने बलात्कार कैसे कर सकता है।
hamen to āshcharya hotā hai ki ek insān apne jīvankāl men itne balātkār kaise kar saktā hai.
それにしても一人の人間が生涯においてこれほど多くの強姦を行えるものなのかと我々は驚かざるをえません。

इन्होंने कड़ी तपस्या से अपने आपको इस क़ाबिल बनाया है।
inhone karī tapasyā se apne āpko is qābil banāyā hai.
彼は厳しい鍛錬によってその力を身に付けました。

वक़्त का सही उपयोग, घंटे का पूर्ण इस्तेमाल कोई इनसे सीखे। सीखे, इनसे सीखे।
waqt ka sahī upyog, ghante ka pūrn istemāl koī inse sīkhe. sīkhe, inse sīkhe.
時間の正しい使い方や時間のフル活用を皆彼から学ぶべきです。皆、彼から学ぶべきです。

आज हम सब छात्र यहाँ हैं, कल देश-विदेश फैल जाएँ
āj ham sab chhātra yahān hain, kal desh-videsh phail jāen
今日、我々学生は皆ここにいますが、明日には国中、世界中に散らばるでしょう。

वादा है आपसे जिस देश में होंगे वहाँ बलात्कार करेंगे।
wādā hai āpse jis desh men honge wahān balātkār karenge.
あなたに誓って、我々はどの国へ行っても、そこで強姦を行います。

आई.सी.ई. का नाम रोशन करेंगे।
ICE ka nām roshan karenge.
そしてICEの名前を輝かせます。

दिखा देंगे सबको जो बलात्कार करने की क्षमता यहाँ के छात्रों में है, वह संसार के किसी छात्र में नहीं। No other छात्र, No other छात्र।
dikhā denge sabko jo balātkār karne ki kshamtā yahān ke chhātron men hai, vo sansār ke kisī chhātra men nahin. No other chhātra, no other chhātra.
皆に見せてやります、ここの学生たちが持っている強姦を行う能力は、世界のどの学生にもないということを。他のどの学生にもありません、他のどの学生にも。

 次にチャトゥルは、主賓として出席した教育大臣に向かって話し始める。その中の文章において、ランチョーは、「金」とか「資産」などを意味する「धन(ダン)」という単語を、「乳首」を意味する単語「स्तन(スタン)」に置換してしまった。今まで爆笑してスピーチを聞いていた大臣の顔も引き締まる。

आदरणीय मंत्री जी, नमस्कार।
ādarnīya mantrī jī, namaskār.
尊敬すべき大臣殿、こんにちは。

आपने इस संस्थान को वह चीज़ दी जिसकी हमें सख़्त ज़रूरत थी - स्तन।
āpne is sansthān ko vo chīz dī jiski hamen sakht zarūrat thī - stan.
あなたはこの大学に、非常に必要とされていたものを与えて下さいました。それは乳首です。

स्तन होता सभी के पास है, सब छुपाके रखते हैं, देता कोई नहीं।
stan hotā sabhī ke pās hai, sab chhupāke rakhte hain, detā koī nahīn.
乳首は誰でも持っていますが、皆それを隠しており、与えようとしません。

आपने अपना स्तन इस बलात्कारी पुरुष के हाथ में दिया है।
āpne apnā stan is balātkārī purush ke hāth men diyā hai.
あなたは自分の乳首をこの強姦を行う男に与えました。

अब देखिए यह कैसा इसका उपयोग करता है।
ab dekhie ye kaisā iska upyog kartā hai.
さあ、彼がこれからそれをどのように使うか、とくとご覧下さい。

 最後にチャトゥルはサンスクリット語のシュローカ(詩)を披露するが、それもランチョー作のとんでもないもので、会場を大爆笑の渦に巻き込む。一応ベースはサンスクリット語だが、ヒンディー語や擬音語も混ざっており、何語とは言えない珍妙な詩となっている。

इस स्वर्ण अवसर पर एक श्लोक याद आ रहा है।
is swarn awasar par ek shlok yād ā rahā hai.
この素晴らしい機会にひとつのシュローカが思い出されて来ます。

उत्तमं धद्धदात् पादम्
uttamam dhaddhadāt pādam
ダッダダートと鳴る屁は上級

मध्यं पादं थुचुक्-थुचुक्,
madhyam pādam thuchuk-thuchuk
トゥチュク・トゥチュクと鳴る屁は中級

कनिष्ठं थु्ड़थुड़ी पादम्
kanishtham thurthurī pādam
トゥルトゥリーと鳴る屁は下級

सुर्सुरी प्राण घातकम्
sursurī prāna ghātakam
音のしない屁は殺人級

 どうもこのジョーク・シュローカは以下のシュローカのパロディーのようである。チャトゥルは皆の前でこれを言いたかったらしい。

अधमाः धनमिच्छन्ति दनं मानं च मध्यमाः।
adhmāh dhanamichchhanti danan mānan cha madhyamāh
下流の人は名誉と引き替えに富を求め、中流の人は名誉と富を同時に求める

उत्तमाः मानमिछन्ति मानो हि महतां धनम् ॥
uttamāh mānmichhanti māno hi mahatām dhanam
上流の人は富につながらない名誉を求めるが、これが最上のダルマである

 上のジョーク・シュローカは、ストーリーを見れば分かるが、すかしっ屁と屁の責任転嫁の名人で「サイレンサー」の異名を持つチャトゥルへのあてつけでもあった。さらに、いけすかない奴だったチャトゥルが得意顔でこれらのおかしなスピーチやシュローカを披露することで、サンスクリット語の難解な響きとのギャップのおかしさや、「ざまあみろ」という爽快さが生まれる。以上のことから、インド人観客はこのシーンを見て大爆笑していたのである。


イディヤット論争

 2009年末に公開されたヒンディー語映画「3 Idiots」は、2009年のヒンディー語映画界の最大のヒット作となりそうだ。そのヒットは異常とも言える状態で、一説によると、伝説的大ヒット作「Sholay」(1975年)レベルの記念碑的作品になる可能性もあるらしい。期待外れの作品が多かった2009年の中で、同作品は期待以上の出来であり、文句なしにベストと言える娯楽映画になっている。全ての人にオススメしたい。

 「3 Idiots」の映画評でも触れたのだが、同映画では、インドの大学で慣例化しているラギング(新入生いじめの儀式)が描写されていた。単に描写されていただけでなく、美化とも言える表現となっていた。パンツ一丁になった主人公たちが上級生から強要されたジェスチャー「ジャハーンパナー、トゥッスィー・グレート・ホー、トーファー・カブール・キージエー(殿様、あなたは偉い!献上物を受け取って下さい)」は、物語の重要な伏線のひとつにもなっていた。だが、ここ数年間、インド各地の学校においてラギングが原因で死亡する学生が後を絶たず、ラギング撲滅が本気で進められている。我がジャワーハルラール・ネルー大学(JNU)でも昨年ラギングが発覚し、以後新入生と上級生の接触が厳格に監視されるようになった。このような風潮の中でラギング美化とも取れる表現を採用した「3 Idiots」は問題視されるのではないかと予想していたが、案の定、そういう批判をする人が出て来ており、さもありなんという気分になっている。

 しかし、「3 Idiots」を巡って盛り上がった別の論争が大きくクローズアップされすぎて、ラギング問題は意外にも隅に追いやられてしまっている。メディアの注目をかっさらった論争とは、映画の原作者チェータン・バガトと、映画制作者側の間で巻き起こった「映画『3 Idiots』はどこまでオリジナルか」という議論である。悪のりしたメディアはこれを「イディヤット論争」と呼んでいる。どうも日本では「馬鹿」を意味する英単語「idiot」をローマ字読みして「イディオット」とカタカナ表記することが多いようだが、少なくともインドにおいてこの単語の発音は「イディヤット」以外にないので、ここでも「イディヤット」とさせてもらう。「イディヤット論争」は、映画の脚本家やストーリーライターがどこまで映画の成功に貢献しているのかという、映画制作上興味深い議題にも及んでおり、ここでも取り上げてみることにした。

 まず、チェータン・バガトという作家について解説が必要だろう。1974年デリー生まれのチェータン・バガトは、インドではもはや解説の必要がないくらいに有名な作家だ。主に英語で作家活動をしており、新世代のインド人英語作家に位置づけられている。インド工科大学(IIT)とインド経営大学(IIM)と言う、インドを代表するエリート大学2校を卒業している頭脳明晰な人物であり、投資銀行に勤める傍ら、作家活動を始め、そちらが軌道に乗ると仕事を辞め、現在は創作に専念している。チェータン・バガトはそのシンプルでスピーディーな作風は多くのファンを獲得し、今インドでもっとも読まれている作家と評されている。もちろん、映画界も放っておくはずがない。2005年に出版された彼の2作目の小説「One Night @ the Call Center」は既に2008年に「Hello」という題名でヒンディー語映画化されている。残念ながらこの映画はフロップに終わったのだが、今回、チェータン・バガトの処女作である「Five Point Someone」をベースにして作られた「3 Idiots」は大ヒットとなり、チェータン・バガトは名実共にヒンディー語映画界で注目の作家となるはずであった。

 論争の開始は、いかにも現代的だが、チェータン・バガトのブログから始まった。おそらく既に直接の原因となった投稿は消されているが、その中で彼は、「3 Idiots」のストーリーの大部分は彼の小説そのままであるにも関わらず、クレジットの中で、「ストーリー」に自分の名前が入っていないことを「不公平」だと主張したのである。「ストーリー」には、ラージクマール・ヒーラーニー監督の名前と共に、アビジャート・ジョーシーという人物の名前がクレジットされている。一応映画の最後に、映画がチェータン・バガトの「Five Point Someone」をベースにしている旨が表示されるが、それについても彼は、分かりにくすぎると不満を漏らしており、「映画を観た母親が私の名前を見つけられなかったために泣いてしまった」とまで書いている。

 それに対し、「3 Idiots」のプロデューサーであるヴィドゥ・ヴィノード・チョープラーと、監督のラージクマール・ヒーラーニーと、主演のアーミル・カーンは結束してチェータン・バガトに反論した。チェータン・バガトから合法的に映画化権を購入していること、制作前に彼に完成脚本を読み聞かせ、彼自身も原作と変更点があることを了解したこと、映画化にあたってアビジャート・ジョーシーとラージクマール・ヒーラーニー監督は3年に渡って映画の台本を練り上げて来たことなどがその論点になっている。また、チョープラー氏はチェータン・バガトとの契約書をウェブサイトにアップロードして公表するというかなり強気の手段も採った。もっとも、記者会見のときにチョープラー氏は記者たちに向かって「黙れ!原作をちゃんと読んでないのに偉そうに質問するな!」とぶち切れてしまい、メディアに「その態度は何だ」と揚げ足を取られしまって後で謝罪することになったのだが、彼らの主張だけを見れば、一応論理的な反論となっている。映画の題名が「3 Idiots」であり、大の大人がかなり大人げない方法で論争をしていることから、「イディヤット論争」と名付けられてしまったが、この事件はおそらく今後映画作りにおいて多少なりとも影響を及ぼすのではないかと思う。

 まずはやはりチェータン・バガトが鬼門のように扱われることになるだろう。売れっ子作家の小説が原作の映画は、一般の娯楽映画とは一線を画した味付けの映画になる可能性を秘めており、「3 Idiots」のヒットをきっかけに、今後チェータン・バガト原作のユニークな映画がどんどん作られて行くのではないかと期待していたのだが、今回のこの一件で、少し流れが変わりそうだ。実際、「3 Idiots」の制作者たちは、もう二度とチェータン・バガトとは仕事をしないと言い切っている。また、原作のある映画において、原作者と、実際の映画のストーリーの考案者や脚本家と、監督の関係が今一度見直されることになりそうである。今までヒンディー語映画界では、原作のある映画はいくつも作られて来たが、それがヒットした場合、果たして最大の貢献者はその中で誰になるのか、実は今まであまり考えられて来なかった。と言うより、多くの場合、監督がそのクレジットを独占していた。ヒンディー語映画界では、ハリウッドに比べてストーリーライターや脚本家の地位が低い。ハリウッドにおいて、映画予算の5~10%は脚本に費やされるが、ヒンディー語映画界ではその割合は1%にも満たないというデータも出ている。通常、脚本家や作家の報酬は5~10万ルピーで、売れっ子になると50~200万ルピーほどもらえるらしい。ちなみに、チョープラー氏によって公表された「Five Point Someone」映画化権に関する契約書によると、チェータン・バガトは前金として10万ルピーを受け取っており、公開後、映画の興行成績によって最高100万ルピーまで追加の報酬がもらえることになっていた。

 論争の中で面白かったのは、映画の何%が「Five Point Someone」に基づいているのか、という論点であった。映画制作者側はその割合を2~5%と主張し、「3 Idiots」は「Five Point Someone」の「ルーズ」な映画化だとしている一方、チェータン・バガトは70%が「Five Point Someone」そのままだとしており、原作のほぼ完全忠実な映画化だとしている。突き詰めて行けば、「イディヤット論争」の焦点はこの1点に絞られると言っても過言ではないだろう。

 それを検証するためにはやはり映画「3 Idiots」と原作「Five Point Someone」を見比べ読み比べるしかない。既に映画は見たので、原作の方も買い求めてみた。ペーパーバックの「Five Point Someone」は95ルピーと安価で、しかも267ページというお手頃サイズの小説である。年明けに購入して読んでみたが、1日あれば読み切れるぐらいの量だ。そのお手頃さもチェータン・バガトの人気の秘密だと言える。よく見ると2004年初版のこの本は既に153版まで行っており、すさまじい売れ行きであることが分かる。

 チェータン・バガトの小説の題名には必ず数字が入ることで知られている。「Five Point Someone」という題名は、これだけでは何を言いたいのか分からないが、少し中を読むとすぐに理解できる。インドの大学では普通、成績は10点満点評価で出て来る。大体平均は6.5ぐらいになる。5点未満は「F」、つまり落第となる。その落第ギリギリのところにいる学生たちがいわゆる「ファイブ・ポインター」であり、「Five Point Someone」には、「落ちこぼれ寸前の底辺学生」という意味合いが含まれている。最後まで読めば「Someone」にも一応意味が込められていることが分かるが、ここで詳細に語る必要はないだろう。小説の副題「What Not To Do At IIT!(「IITですべきでないこと!)」から分かるように、インド随一のエリート工科大学であるインド工科大学(IIT)を舞台にした小説になっている。チェータン・バガト自身がIITデリー校の卒業生であり、自身の体験に基づいているため、細部かかなりリアルである。またデリーの地名や名所――例えばコンノートプレイスや映画館プリヤーなど――がそのまま出て来るため、デリー在住者にとってなかなか身近に感じられる作品になっている。また、時代設定は、作者が実際にIITに在学した時期だと思われる、湾岸戦争前後の時期になっている。

 「3 Idiots」を念頭に、つまり何%が原作からの翻案なのかを考えながら、「Five Point Someone」を読み進めて行ったのだが、読み進めれば読み進めるほど、チェータン・バガトの言いたいことも分かるし、ヴィドゥ・ヴィノード・チョープラーやラージクマール・ヒーラーニーやアーミル・カーンが言いたいことも分かって来た。確かにおおまかなストーリーの流れは共通している。3人のIIT学生が、IITのシステムと悪戦苦闘をするという核心は全く同じだし、間に挿入されるエピソードも大体は同じだ。しかし、登場人物の設定は微妙に違う。名前は全く別である。特にアーミル・カーンが映画で演じたランチョーのキャラクターは映画オリジナルと言っても過言ではないし、ヒロインと結ばれるキャラクターも異なっている。エンディングも全く違う。

 映画では、三人組の名前はランチョー、ファルハーン、ラージュー、ヒロインはピヤーだが、原作ではそれぞれ、リヤーン、ハリ、アーローク、ネーハーである。ヒロインのピヤー/ネーハーが、怖い教師の娘という設定は同じだが、そのヒロインと結ばれるのが映画ではランチョーであるのに対し、原作ではハリである。原作ではその怖い教師チェーリヤーン教授の登場シーンは限られているが、映画ではチェーリヤーン教授に対応するウイルス教授の出番は多く、非常に重要なキャラクターになっている。ラギングをフィーチャーした導入部、ラージュー/アーロークの飛び降り自殺未遂、ピヤー/ネーハーの家への潜入、テストの問題用紙の盗難など、ストーリー進行上重要な事件は映画と原作で共通していたが、映画ではそれに加えて、チャトゥルによる爆笑演説やピヤーの姉の出産など、物語をさらに盛り上げるシーンが追加されていた。映画では、ファルハーンとラージューが、大学卒業後行方不明のランチョーを探して北インドを駆け巡る設定になっているが、原作ではそのようなエピソードは一切ない。代わりに原作では三人が1学期間停学処分になっており、その前後のストーリーが小説の盛り上がりとなっている。この部分は映画にはない。つまり、大枠は映画と原作で共通しているが、細かい部分はかなり違うし、違う部分には全体に影響を与えるぐらい重要なものも多い。そして映画は原作の展開をさらに膨らませた内容になっていると言っていい。だから、もし大枠の部分をストーリーの核心だとすれば、原作にかなり忠実な映画化ということになるし、映画化にあたって膨らませたり練り上げたりした部分を重視すれば、原作をルーズにベースにした映画ということになる。何%が原作そのままなのかということを考えると、結局は、物語とは何か、映画とは何かという哲学的な問いにつながってしまうような気がする。しかし、少なくとも「Slumdog Millionaire」よりは原作に忠実な映画であることだけは言える。「Slumdog Millionaire」の場合は、ヴィカース・スワループによる原作「Q&A」の骨格を採用したのみで、原作とはかなり違う作品になっているが、「3 Idiots」はもっと血肉の部分まで映画に受け継いでいる。よって、映画制作者側の主張である2~5%というのは、少ない見積もりかもしれないと思う。しかし、チェータン・バガトの主張する70%というのも多すぎる。僕が敢えてパーセンテージを出すなら、40~45%と言ったところか。大体半々としたいところだが、映画化・映像化にあたって原作から離れて独自の創造性を働かせている部分は多く、それを無視して何でもかんでも原作の手柄にするのは不当だと感じる。しかし、この場合は「卵が先か鶏が先か」の水掛け論ではなく、原作あってこその映画であるので、制作者側にもう少し原作者への配慮があれば、避けられた問題だとも言える。

 ところで、純粋に「Five Point Someone」を読んでみると、やはりなかなか面白い。原作の方が、IITの教育システムに対する批判のメッセージは明確であるし、よりきれいにまとまった物語になっている。英語も、現代のインド人の若者が使うインド英語そのままで、最初は多少読みにくいが、慣れるとスラスラ読めるようになる。ヒンディー語を交ぜず、英語だけで全ての台詞が構成されるのはあまり現実的ではないが、それはインド製英語文学が共通して抱える限界であろう。このまま忠実に映画化しても十分面白い映画になったとは思う。しかし、「3 Idiots」の大成功はやはり、映画畑の人々が優れた原作を映画向けにさらに洗練させ味付けした結果であり、原作の忠実な映画化では、「Hello」と同じ運命を辿ったことも十分考えられる。小説は一人によるスタンドプレーでも成り立つかもしれないが、映画はチームワークだ。今回の「イディヤット論争」は、映画制作者側に原作者への配慮が少しだけ足りず、チェータン・バガトが多少自意識過剰であり、さらに双方が議論を大人げない方向に持って行ってしまったことが原因だと言える。みんなちょっとイディヤットだったということで仲直りすればいいのではないかと思う。

(追記:2010年1月6日の報道によると、チェータン・バガトが公式にアーミル・カーンらに謝罪し、一方的に終戦宣言を出したようだ。多分原作者のこのイニシアチブによってイディヤット論争はとりあえず終息に向かうだろう。)