Kaminey

4.0

 今週は、14日のジャナマーシュトミー(クリシュナ生誕祭)と15日の独立記念日が重なっており、映画公開に適した週になっている・・・はずだったのだが、インド各地で豚インフルエンザが猛威を振るっており、プロデューサーやディストリビューターにとって大きな誤算となっている。マハーラーシュトラ州では予防策のため13日から3日間映画館が閉鎖されることになり、本日(2009年8月14日)より公開の「Kaminey」と「Life Partner」も同州では公開が先延ばしとなってしまった。デリーでも日に日にH1N1ウィルス感染者数が増加しているのだが、まだマハーラーシュトラ州ほど深刻ではなく、新作映画も予定通り公開となった。しかし、多くの人々は混雑を避けており、動員観客数も悪影響を受けそうである。まずは「Kaminey」を観た。

 「Kaminey」は、ヴィシャール・バールドワージ監督の作品である。バールドワージ監督は音楽監督から映画監督へ転向した変わり種で、その監督作品を見ても、「Makdee」(2002年)や「The Blue Umbrella」(2005年)のような子供向け映画を撮っているかと思ったら、「Maqbool」(2003年)や「Omkara」(2006年)のようなシェークスピア原作の重厚なドラマ映画も作っている。新作「Kaminey」はシェークスピア原作ではないが、予告編から、またも一風変わった映画であることがうかがわれた。

 興味深いことに、この映画の原作はケニア人脚本家カイェタン・ボーイの書いた脚本のようである。あるときミーラー・ナーイル監督が世界中の若手脚本家を集めてワークショップを行った際、ナイロビから来たカイェタン・ボーイの脚本がバールドワージ監督の目に留まったようだ。後にバールドワージ監督は金銭的に困っていたカイェタン・ボーイから4,000ドルでその脚本を買い取ったと報じられている。映画の冒頭にはちゃんと彼の名前が出ていた。

監督:ヴィシャール・バールドワージ
制作:ロニー・スクリューワーラー
原作:カイェタン・ボーイ
音楽:ヴィシャール・バールドワージ
歌詞:グルザール
振付:アハマド・カーン、ラージュー・スンダラム
衣装:ドリー・アフルワーリヤー
出演:シャーヒド・カプール、プリヤンカー・チョープラー、アモール・グプテー、チャンダン・ロイ・サーンニャール、テンジン・ニマ、シヴ・スブラーマニヤム、リシケーシュ・ジョーシー、ガリオス・パカ、デーブ・ムカルジー、ラージャトヴァ・ダッター、エリック・サントス、サンデーシュ・ジャーダヴ、ハリーシュ・カンナー、シャシャーンク・シンデー
備考:サティヤム・シネプレックス・ネループレイスで鑑賞。

 これはムンバイーに住む双子の兄弟の話。兄のチャーリー(シャーヒド・カプール)は舌足らずで、「s」の音を「f」の音で発音する癖があった。弟のグッドゥー(シャーヒド・カプール)は吃音症で、何か言おうとするとどもっていた。父親の死をきっかけに二人は袂を分かっており、別々の人生を歩んでいた。チャーリーは手っ取り早く金稼ぎをするのが好きな性格で、競馬の八百長に関わっていた。ベンガル人マフィアのムジーブ(デーブ・ムカルジー)、シュモン(ラージャトヴァ・ダッター)そしてミカイル(チャンダン・ロイ・サーンニャール)と共にギャングの一員を気取っていた。一方、真面目な性格のグッドゥーはNGOの訓練生をしており、スウィーティー(プリヤンカー・チョープラー)という恋人がいた。

 チャーリーは八百長レースを仕組んだはずが、騎手から裏切りを受け、レースをメチャクチャにされて面目を潰された。騎手を捕まえて尋問したところ、フランシスという男が黒幕であることが分かる。チャーリーはフランシスの宿泊するホテルに押しかけ、仲間が出払ったところを見計らってフランシスを捕まえる。だが、仲間が戻って来たことで逃亡を余儀なくされる。駐車場まで走り、そこで発車しようとしていた車を横取りして逃亡した。ところがその車は警察の車両であった。しかもその車両には、末端価格1億ルピーのコカインが入ったギターケースがあった。そのコカインは、悪徳警官のロボ(シヴ・スブラーマニヤム)とレーレー(リシケーシュ・ジョーシー)が、麻薬密輸のドン、ターシー(テンジン・ニマ)に届けるはずのものであった。チャーリーはそれを見つけて持ち去り、その価値が分かると大喜びする。また、ロボとレーレーは、監視カメラの映像などを頼りに、車を奪った人物の捜索に乗り出す。もちろん、コカインのことは秘密であった。

 一方、グッドゥーはスウィーティーが妊娠したことを知って悩んでいた。彼には堕胎をさせることは出来なかったし、かと言って彼にはちゃんとした人生計画があり、今すぐ結婚することも出来なかった。悩み抜いた末にグッドゥーはスウィーティーと結婚することを決める。ところが、スウィーティーは初めて自分の出自を明かす。彼女は、マフィア上がりのマラーター至上主義政治家ボーペー(アモール・グプテー)の妹であった。ただでさえボーペーはマラーター以外の人々の排他運動を繰り広げていた。ウッタル・プラデーシュ州に出自を持つグッドゥーとの結婚を認めるはずがなかった。しかし、グッドゥーとスウィーティーは秘密裡に結婚を済ます。それでもボーペーはスウィーティーの妊娠と結婚を嗅ぎつけており、手下を結婚式に送り込んで来た。2人はスクーターに乗って逃げ出し、このままハネムーンへ高飛びしようとするが、グッドゥーはスウィーティーがまだ何か自分に隠しているのではないかと疑う。スウィーティーはショックを受けて彼の元を去ろうとするが、その隙に警察がグッドゥーを連れ去ってしまった。グッドゥーはチャーリーと間違えられたのである。スウィーティーは警察署を訪れて説明するが、効果はなかった。

 尋問室でグッドゥーは身に覚えのないことについて尋問を受ける。その中で、チャーリーが1億ルピーのコカインを奪ったことに勘付く。その頃、チャーリーの家にはボーペーたちが押しかけていた。ボーペーはチャーリーの携帯電話を使ってグッドゥーの携帯電話に電話をするが、それはロボが取った。ボーペーとロボの間で、チャーリーとグッドゥーの交換が密約され、多少の混乱を伴いながらもそれは実行された。チャーリーはロボに引き渡され、グッドゥーとスウィーティーはボーペーに引き渡された。

 ロボとレーレーはチャーリーを尋問してコカインの在処を吐かせようとするが、隙を見てチャーリーは反撃し、ロボを負傷させてレーレーを取り押さえる。そして彼らのボスであるターシーと連絡を取り、コカインと金の受け渡しの交渉をまとめる。一方、ボーペーのアジトに連れられて来たグッドゥーは殺されそうになるが、1億ルピー相当のコカインの話を切り出し、ボーペーの興味を引く。グッドゥーはボーペーの手下と共にコカインを取りにチャーリーの家へ行く。そこではチャーリーがターシーに売るためにコカインを整頓していた。チャーリーとグッドゥーはコカインを取り合うが、結局はチャーリーがグッドゥーに譲ることになる。だが、そのとき何者かにボーペーの手下が皆殺しにされていた。グッドゥーはコカインを持って直接ボーペーのところに行かず、警察署に寄る。警察はボーペーの一味を一網打尽にするため、グッドゥーを囮に使うことにする。グッドゥーは盗聴器を装備し、コカインの入ったギターケースを持ってボーペーのアジトへ帰る。そこではスウィーティーがマシンガンを持って兄に反乱を起こしていたが、グッドゥーが無事なのを見て気を静める。ところがそこにターシーの一味やチャーリーがやって来る。また、密かに包囲網を巡らせていた警察も姿を現す。さらにはベンガル人マフィアたちが突撃して来る。混乱の中でコカインは火の中に投じられて灰となり、ボーペーやターシーは殺され、チャーリーも撃たれて怪我を負う。だが、彼はターシーの顧客だった黒人マフィアが隠し持っていた大粒ダイヤモンドを密かに手に入れていた。グッドゥーとスウィーティーは無事であった。

 それからしばらくして、スウィーティーは双子の子供を産む。チャーリーも、ダイヤモンドを売った金で、念願だった馬券業を始め、ソフィアという女性とも出会う。もちろん、彼の発音では彼女の名前は「フォフィア」であったが・・・。

 今年のヒンディー語映画界は未曾有の大不況に直面していると言われるが、よく精査して行くと、一般的娯楽映画とは違った独自のスタイルの映画を作ろうとする明白な努力が見られるユニークな作品がコンスタントに続いており、ヒンディー語映画の境界線が確実に拡大しているのを感じる。「Dev. D」(2009年)、「Barah Anna」(2009年)、「Sankat City」(2009年)などをその例に挙げたい。それらに共通するのは、麻薬、売春、誘拐、盗難、賭博など、裏社会に関わる人々の物語を、洗練された脚本の上で描写している点である。「Kaminey」もその作品群に加えられる。バールドワージ監督は子供向けの映画も精力的に作っているものの、基本的にシニカルな視点を持った監督だと言える。「Kaminey」には恋愛もあるが、恋愛だけに埋没していない。コメディーもあるが、観客を大笑いさせようという意図も感じられない。全く生き方の違う没交渉の双子の兄弟が出て来るが、兄弟愛の再確認でもってきれいにまとめられていた映画でもなかったし、勧善懲悪のメッセージもなかった。スリルに満ちた展開であったが、そのスピード感だけを追い求めた作品でもなかった。一連の出来事を、誰にも肩入れせず、冷徹な視点で淡々と描写して行く中で、乾いた恋愛、乾いた笑い、乾いたスリルを適度にまぶしていく手法が採られており、結果的に「Kaminey」を独特のエンターテイメントに仕上げることに成功していた。それに加えて音楽がまた秀逸であるし、それを劇中で有効活用しているため、ここまで変わった脚本とストーリーテーリングの作品ながら、インド映画の伝統から外れていないという特徴も指摘できる。

 「Kaminey」の奇妙奇天烈さの例をひとつ挙げるとしたら、それは主人公2人の言語障害である。兄のチャーリーは、ヒンディー語では「トートラー(तोतला)」と呼ばれる症状である。トートラーは一定の発音が出来ないのだが、チャーリーの場合は「s」の音が「f」になってしまう。映画のナレーションもチャーリーが務めているし、もちろん彼の台詞もたくさん出て来るのだが、その中の「f」の音にはよく注意しなければならない。いくつかは「s」に変換して理解しなければならないからだ。一方、弟のグッドゥーはいわゆる「どもり」であり、何かを言おうとすると一定時間つっかえてしまう。これだけの設定がしてあるなら、映画中でこれらの特徴が何か重要な役割を果たすのかと考えてしまうが、特にそれが進行に大きな影響を与えるようなことはない。チャーリーのトートラーは、最後のオチを含むいくつかのギャグのネタになっていたし、グッドゥーのどもりはスウィーティーとの恋愛のちょっとした鍵にもなっていたが、ただそれだけだった。この要素ひとつだけ取っても、何か違った作品だと言うことが分かる。

 「Kaminey」では、生き方の違う双子の兄弟が主人公であった。正しい道を歩む人と狡猾な人の生き様とその結末を対比させて人々を啓蒙するような構造のストーリーは、日本昔話からインド映画まで、どこにでもある。ヒンディー語映画界では名作「Deewaar」(1975年)が有名だし、最近公開された「Short Kut: The Con Is On」(2009年)もその一例だと言える。しかし、「Kaminey」は、二人の兄弟の中から正しい道を歩む方を持ち上げていた訳でもなかった。両者にハッピーエンドが用意されており、正義や悪の判断はされていなかった。そういう意味でも、勧善懲悪を基本とするインド映画の伝統から外れた作品であったし、さらに勧善懲悪のメッセージを送ることが可能なプロットであったにも関わらずそこまで踏み込まなかったところにむしろ特異な印象を受けた。しかし、エンディングは多少取って付けたような印象も受けた。もしかしたらハッピーエンドを望むプロデューサーなどの意向が働いたのかもしれない。

 題名の「Kaminey」とは「下劣な者たち」という意味だが、その題名の通り、劇中の登場人物でまともな人間は皆無と言っていいだろう。ヒーロー、ヒロインを含めて皆それぞれ性格に欠陥があり、問題行動を起こす。ゲス共のゲスっぷりを淡々と描写していることが映画の最大の醍醐味であろう。

 双子の兄弟はシャーヒド・カプールが一人二役で演じた。性格の違う2人の兄弟を、演技だけで完全に演じ分けるのはまだ荷が重すぎたかもしれないが、かなりの程度まで成功しており、より深みのある俳優になって来たと言える。プリヤンカー・チョープラーも多少エキセントリックな演技であったが、よくこなしていた。二人の濃厚なラブシーンもある。

 「Kaminey」には、今までヒンディー語映画であまり見たことのない俳優が多数脇を固めていた。その中で特筆すべきは、マフィア上がりの政治家ボーペーを演じたアモール・グプテーである。彼は「Taare Zamin Par」(2007年)の脚本・助監督として知られる裏方の人間だが、今回本格的な俳優デビューを果たしている(大昔に端役での出演経験はあるようだ)。これがデビュー作とは信じられないくらい堂々とした演技であった。他にチャンダン・ロイ・サーンニャールやテンジン・ニマなど、個性的な魅力のある俳優が出演しており、映画を盛り上げていた。今後の活躍に期待である。

 音楽はヴィシャール・バールドワージ監督自らが担当している。現在、挿入歌のひとつ「Dhan Te Nan」が大ヒットしており、劇中でも中盤の盛り上がりで、スクヴィンダル・スィンらが歌うこのダンスナンバーが満を持して使われていた。「Kaminey」のサントラは購入して損はない。

 前述の通り、チャーリーの台詞やナレーションは、「s」を「f」と発音する独特のしゃべり方になっているので、ヒンディー語の聴き取りは困難を要する。ちなみに題名になっている「カミーナー」(その複数形が「カミーネー」)は、ヒンディー語の罵詈雑言を代表する言葉のひとつなので、インド人の前では注意して使うようにした方が吉である。また、ベンガル人とマラーター人のキャラクターがいる影響で、ベンガリー語とマラーティー語も出て来る。アフリカ人がしゃべっていたのはスワヒリ語であろうか?英語字幕が出ていた。

 映画の中には名台詞もあった。チャーリーが何度も繰り返す「人生はどの道を選ぶかで決まる訳ではない、どの道を捨てたかで決まるのだ」という台詞である。

 「Kaminey」は、一般的な娯楽映画とは一線を画した作品だが、ヒンディー語映画が提示する新しい大衆娯楽映画のひとつの形であり、今後この方向の作品がさらに増えて来そうな予感がする。ただ、筋を追うのが多少困難で、完全に都市部のマルチプレックス向け映画であるし、暴力シーンの多さからファミリー層には向かないため、インド全土でのヒットはあまり望めないだろう。