Delhi-6

4.5
Delhi-6
「Delhi-6」

 ヒンディー語映画界では近年、急にデリーを舞台にした映画がいくつも作られるようになった。以前からデリーで部分的にロケが行われた映画はあったのだが、デリーを単なるインドの首都としてではなく、生きた街として心からの愛情と共に描いた映画が出て来たのである。この運動の推進役となっているのはやはりデリーに生まれたりデリーに住んだことのある映画人たちである。そういう映画からは、ムンバイヤーの外部からの視線ではなく、内部からの飾らない視線を感じる。デリーに住み、デリーを愛する者として、この傾向はとても嬉しい。僕は前々から、ヒンディー語映画の中心地はヒンディー語圏になければならないと考えており、この動きがもし流行を超越することがあれば、ヒンディー語映画にとってプラスになるのではないかと期待している。もちろん、そういうことが起こる可能性はとても低いし、ヒンディー語映画の中心地がヒンディー語圏外のムンバイーにあるからこそ、ヒンディー語映画はユニバーサルなアピール力を持てていることも認めなければならない。だが、中心地とは言わなくても少なくともひとつの映画制作の拠点がデリーを初めとした北インドの都市にできてくれればと思う。

 今のところ、好んでデリーを舞台とし、デリーの何でもない風景やデリー市民の日常生活をうまく切り取って映画にしているのは、「Khosla Ka Ghosla!」(2006年)や「Oye Lucky! Lucky Oye!」(2008年)のディバーカル・バナルジー監督である。だが、「Rang De Basanti」(2006年)のラーケーシュ・オームプラカーシュ・メヘラー監督も負けていない。同作品でもデリーの各所でロケが行われていたが、新作の「Delhi-6」では、オールドデリーが主人公とも言える作品となっている。また、同作品は、デリー出身のメヘラー監督自身の自伝的映画とも言われている。ちなみに、題名の中の「Delhi-6」とは、オールドデリーの住所と郵便番号である。オールドデリーは住所上は単に「Delhi」と書かれる。他の地域はニューデリー(New Delhi)である。オールドデリーの郵便番号は正確には「110006」であるが、前半の「110」はデリー全体を示す番号であり、デリー内ではそれらを省略することがあるため、単に「6」になってしまうという訳である。オールドデリーの人々は、プライドと共に自分の街を「デリー6」と呼ぶ。

 通常、ヒンディー語映画のプレミア上映はインド国内ではムンバイーで行われる。だが、「Delhi-6」はデリーを舞台とした映画であるため、例外的にデリーでプレミア上映が行われることになった。場所はバサントロークのPVRプリヤー。僕の住むジャワーハルラール・ネルー大学(JNU)の目と鼻の先である。ミーハーみたいで恥ずかしいのだが、デリーでは滅多にないことなので、プレミア上映の様子を見に、一般公開の1日前の2009年2月19日にPVRプリヤーへ行ってみた。

 当然、プレミア上映には関係者しか招待されておらず、一般人は入ることができない。だが、映画館の外で映画館へ入るスターたちを見ることはできる。何時に始まるか分からず、午後6時頃にとりあえず行ってみた。午後8時から始まるとのことでしばらく待っていたのだが、案の定遅れに遅れ、午後9時半になってやっとスターたちが到着した。来ていたのは、「Delhi-6」出演のキャストやクルーに加え、バッチャン・ファミリーとカプール・ファミリーであった。つまり、アミターブ・バッチャン、アビシェーク・バッチャン、アイシュワリヤー・ラーイ・バッチャン、アニル・カプール、ソーナム・カプール、ワヒーダー・レヘマーン、プレーム・チョープラー、アトゥル・クルカルニーなどなどである。ただ、デリーの人々は概してこういうイベントに慣れておらず、集まった群衆は過度の熱狂に陥っており、まともにスターたちを見ることはできなかった。

 映画本編の方は翌日の一般公開のファーストデー・ファーストショーを、プレミア上映の行われたPVRプリヤーにて、アイシュワリヤー・ラーイ・バッチャンの残り香を探しながら観た。

監督:ラーケーシュ・オームプラカーシュ・メヘラー
制作:ロニー・スクリューワーラー、ラーケーシュ・オームプラカーシュ・メヘラー
音楽:ARレヘマーン
歌詞:プラスーン・ジョーシー
振付:ヴァイバヴィー・マーチャント、サロージ・カーン
衣装:アルジュン・バスィーン、アナーミカー・カンナー
出演:ワヒーダー・レヘマーン、アビシェーク・バッチャン、ソーナム・カプール、オーム・プリー、リシ・カプール、プレーム・チョープラー、パワン・マロートラー、アトゥル・クルカルニー、スプリヤー・パータク、ターンヴィー・アーズミー、ディヴィヤー・ダッター、ヴィジャイ・ラーズ、ディーパク・ドーブリヤール、KKリーナー、アキレーンドラ・ミシュラー、シーバー・チャッダー、サイラス・シャーフーカル、アディティー・ラーオ、インドラジート・サルカール、ダヤーシャンカル・パーンデーイ、ラジャト・ドーラキヤー、カーリド・ムハンマド、ギーター・アガルワール、ラージーヴ・マートゥル、ギーター・ブシュト、ヴィナーヤク、ハサン、アミターブ・バッチャン(特別出演)、ジャーヴェード・アクタル(特別出演)
備考:PVRプリヤーで鑑賞、ほぼ満席。

 ヒンドゥー教徒の父とイスラーム教徒の母の間に生まれ、ニューヨークで生まれ育ったローシャン(アビシェーク・バッチャン)は、デリーで死にたいと希望する死期の迫った祖母(ワヒーダー・レヘマーン)と共にデリーへやって来た。祖母の家はオールドデリーにあった。近所には、道楽者のアリー(リシ・カプール)、頑固親父のマダン・ゴーパール(オーム・プリー)、高利貸しのラーラー・バイラーム(プレーム・チョープラー)、お調子者カメラマンのスレーシュ(サイラス・シャーフーカル)、臆病な小間使いのゴーバル(アトゥル・クルカルニー)、頭の狂ったパーガル・ファキール(ラジャト・ドーラキヤー)、低カースト掃除人のジャレービー(ディヴィヤー・ダッター)など、様々な人々が住んでいたが、皆、祖母とローシャンを大歓迎する。

 また、祖母の家の隣に住むマダン・ゴーパールの娘のビットゥー(ソーナム・カプール)は、タレント発掘番組インディアン・アイドルに出場して、一躍有名人になることを夢見ていた。だが、父親は彼女を結婚させようとし、お見合いに次ぐお見合いをさせていた。スレーシュはビットゥーをムンバイーに連れて行くと約束しており、彼女もその言葉を信じていた。ローシャンは次第にビットゥーに惚れるようになり、ビットゥーもローシャンのことが気になり出す。だが、二人の仲はそれ以上進展しなかった。

 その頃、デリーの人々はカーラーバンダル(黒い猿)の恐怖に怯えていた。カーラーバンダルが夜な夜な人々を襲っており、メディアは面白がってそのニュースを大袈裟に伝えていた。警察は、カーラーバンダルを捕獲した者に5万ルピーの報奨金を与えることを発表していた。ローシャンの住む地域にも遂にカーラーバンダルが現れたことから、人々は怪しげな聖者バーバー・バンダルマール(アキレーンドラ・ミシュラー)を呼んで儀式を行わせた。バーバー・バンダルマールがモスクの場所を指し、そこに昔寺院があったと言ったことから、地域のヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の間に亀裂が走った。やがてそれはコミュナル暴動にまで発展してしまった。また、カーラーバンダルを殺す儀式のためには、カーラーバンダルの毛が必要だと言ったことから、ゴーバルがその役を任されることになった。

 ローシャンは、地域のコミュナル暴動に嫌気が指し、ニューヨークへ帰ろうとしていたが、祖母のためにデリーに留まり続けていた。だが、祖母が宗教対立に心を痛め、ニューヨークへ帰ると言ったときには、なぜか彼はデリーに留まりたいと思っていた。そのひとつの理由はビットゥーであった。だが、それ以外にも彼をデリーに留まらせる何らかの理由があった。

 ローシャンがデリーに来たのはちょうどダシャハラー祭の時期、つまりナヴラートリ(九夜祭)で、オールドデリーでは伝統のラームリーラー(野外劇)が行われていた。マダン・ゴーパールは、娘が結婚を拒否し、インディアン・アイドルに出たいと言い出したために、ビットゥーの結婚を急ぐことにし、ダシャハラー祭の約20日後のディーワーリー祭に挙式することにする。だが、ダシャハラー祭直前にビットゥーは家出し、スレーシュと共にムンバイーへ逃げることを決める。一方、ローシャンはその日にビットゥーに愛の告白をすることを決める。

 ビットゥーは夜中にこっそりと家を抜け出る。ローシャンはオールドデリーの住宅の屋根を伝って彼女を追いかける。だが、そのとき地域のヒンドゥー教徒が信仰する聖樹がイスラーム教徒によって放火され、ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の間で大規模な紛争が起ころうとしていた。ランヴィジャイ警部補(ヴィジャイ・ラーズ)は止めようとするが、抑えられそうになかった。と、そのとき屋根から屋根へ飛び移るローシャンの姿が目撃される。人々はそれをカーラーバンダルだと考え、暴動そっちのけでカーラーバンダルを追いかける。

 家出したビットゥーはスレーシュと落ち合う。だが、そこへカーラーバンダルの着ぐるみをしたローシャンが現れる。スレーシュは驚いて逃げ出す。ローシャンは正体を明かし、彼女に告白する。ところがローシャンはゴーバルに捕まってしまう。人々はカーラーバンダルに暴行を加える。さらに、ローシャンは銃で撃たれてしまう。ローシャンは天国で祖父(アミターブ・バッチャン)と出会うが、祖父は、駆け落ちしたローシャンの父母を許すことができなかったと悔いを述べ、ローシャンに別れを告げて去って行く。ローシャンは息を吹き返し、病院へ搬送された。

 途中まで何が中心的なテーマなのか分からなかったが、インターミッション後からストーリーはヒンドゥー教イスラーム教の間のコミュナルな対立に収束して行き、最後は、主人公ローシャンの活躍もあり、両コミュニティー間の融和という形で幕を閉じる。コミュナル問題は、インドが直面する大きな問題のひとつで、ヒンディー語映画界でも昔からヒンドゥー・ムスリムの宗教対立または融和をテーマにした映画が作られ続けて来た。よって、テーマは目新しいものではなく、そういう意味ではがっかりした。前作「Rang De Basanti」は大衆運動を巻き起こしたほど影響力のある映画であり、ラーケーシュ・オームプラカーシュ・メヘラー監督にはもう少し違ったテーマの映画を期待していたからである。よって、「Delhi-6」に「Rang De Basanti」以上の評価を与えることはできない。

 それでも、昔から宗教の垣根なく仲良く暮らして来たオールドデリーの人々が、些細な事件をきっかけに対立し、しかもそれに政治家や宗教家が介入して亀裂を広げ、最後には大規模な暴動が引き起こされるまでの過程は、丁寧に描かれていた。しかもそのきっかけがカーラーバンダル(黒い猿)という、思わず笑ってしまうような事象だったことで、ユーモアある展開になっていた。その辺りはさすがである。ちなみに、カーラー・バンダルの元ネタは、2001年に実際にデリーに「出没」したモンキーマンである。それはちょうど僕がデリーに留学した頃で、デリーはモンキーマンの話題で持ち切りだった。当時、モンキーマンと呼ばれる猿の化け物がデリーで次々に人を襲っていると報道され、デリー市民は恐怖のどん底に突き落とされていたのである。そして、仕舞いには何でもかんでもモンキーマンの仕業になっていた。あの頃のパニックの様子は映画中でよく再現されていた。

 主人公ローシャンが、ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の間に生まれた、ハイブリッドな存在であることも映画の重要な要素となっていた。ローシャンはヒンドゥー教の寺院にも、イスラーム教のモスクやダルガー(聖廟)にも参拝していたし、ヒンドゥー・ムスリムの対立が顕在化した後は、どちらのコミュニティーからものけ者にされていた。宗教融和の結果生まれたローシャンは、2つのコミュニティーのかすがいになる運命を背負っていたと言える。

 映画の冒頭に、アミターブ・バッチャンの朗読により1編の詩が詠まれるが、それも映画のテーマに沿ったものである。

ज़र्रे-ज़र्रे में उसी का नूर है
झाँक ख़ुद में वह न तुझसे दूर है
इश्क़ है उससे तो सबसे इश्क़ कर
इस इबादत का यही दस्तूर है

zarre-zarre men usī ka nūr hai
jhānk khud men vo na tujhse dūr hai
ishq hai usse to sabse ishq kar
is ibādat ka yahī dastūr hai

どんな欠片にも神の光がある
自らを覗いて見よ、神はお前の近くにいる
神を愛するなら、皆を愛せ
それがこの信仰の定めなのだ

 どんな宗教も結局は人間賛歌であり、人を愛することが神を愛することにつながるということは、宗教大国インドが世界に発するメッセージである。これがもし、映画中のロマンスにも、つまりローシャンとビットゥーの間の恋愛にも何らかの形で適用されていたら言うことなしだったのだが、残念ながらそこまで徹底されていなかった。その点も不満だった。ただ、劇中に登場する白い鳩マサカリーに、ローシャンやビットゥーの様々な感情が投影されており、それはとても美しかった。

 ひとつ不明だったのは、最後、ローシャンがいつカーラーバンダルの着ぐるみを着たかという点である。ローシャンが見た夢の中で、カーラーバンダルになってビットゥーに告白するシーンが予言されていたし、ゴーバルが「ローシャンがカーラーバンダルにならなかったら、皆は殺し合いをしていただろう」と言っており、それが「なぜ」の一応の説明にはなっていたが、唐突過ぎる感は否めなかった。クライマックスに関わる部分なだけに、映画の最大の弱点だと言える。もう少し伏線を張っておくべきだったと思う。

 ただ、オールドデリーの描写の仕方は、今までのどんな映画よりも素晴らしかった。その点では「Chandni Chowk to China」(2009年)などの映画は「Delhi-6」の足元にも及ばない。特にオールドデリーの心臓とも言えるジャーマーマスジドが、イスラーム教徒の集団礼拝のシーンなどを通して、非常に印象的に映し出されていた。また、毎年ダシャハラー祭の時期にオールドデリー各所で行われるラームリーラーも効果的に使われていた。ラームリーラーは、「ラーマーヤナ」のストーリーを10日間に渡って上演する野外劇である。デリー各地で行われているが、やはり有名なのはオールドデリーのものである。「Delhi-6」で出て来たのは、ラールキラーの前で行われるラームリーラーだ。ラームリーラーのストーリーと、映画本編のストーリーが対応していたのも見事であった。最終日には羅刹王ラーヴァンの像が燃やされるのだが、それはヒンドゥー・ムスリムの対立の鎮火を象徴していた。結局、カーラーバンダルもラーヴァンも、一人一人の心の中に住むものなのである。ただし、映画全編が実際にオールドデリーで撮影された訳ではない。路地のシーンなどは、ラージャスターン州のサーンバルに組まれたセットで撮影された。

 ローシャンはニューヨークからオールドデリーにやって来たインド系米国人であり、彼の目を通し、ニューヨークとオールドデリーが比較されていた。当然、監督の同情はオールドデリーにある。特にローシャンは、オールドデリーの人々の、すぐに誰でも身内同然にしてしまう心の広さや人懐こさに感動する。それはニューヨークでは決して手に入らないものであった。全て外国帰りのインド人の視点で描かれていたが、それは十分に外国人の視点にも通じるものがあった。インド好きの外国人がなぜインドを好きかと聞かれて思い浮かべるものの中のいくつかを、メヘラー監督はかなり正確に捉え、映像化できていたと思う。

 「Delhi-6」でもっとも輝いていたのはソーナム・カプールである。デビュー作の「Saawariya」(2007年)では残念ながら印象が薄かったのだが、「Delhi-6」では存分に魅力を発揮できており、これからますます注目を集めそうである。最近のヒンディー語映画界の若手女優に共通するポイントははつらつさだ。カトリーナ・カイフ、ディーピカー・パードゥコーン、ジェネリア、アシン、そしてこのソーナム・カプールと、はつらつとした魅力を前面に押し出した女優が揃って来ており、映画界全体を明るくしている。当然、競争も熾烈となっている。

 主演のアビシェーク・バッチャンも堅実な演技をしていた。いくつかのシーンでは微妙な感情の変化を表情でうまく表現しており、成長を感じた。他に、ワヒーダー・レヘマーン、ヴィジャイ・ラーズ、アトゥル・クルカルニーなどが良かった。

 「Delhi-6」は音楽も素晴らしい。ARレヘマーンのノリノリの音楽が、オールドデリーの路地に不思議とマッチしていた。アビシェークやソーナムが鳩のマサカリーと踊る「Masakali」は現在大ヒット中。マサカリーを頭に載せて踊るソーナムはとてもかわいい。「Dil Gira Dafatan」は、ニューヨークのタイムズスクウェアに、デリーの様々な映像が重ね合わせられるという面白いミュージカルシーンとなっている。これはローシャンの夢の中の映像であるが、ニューヨークとデリーの間のどちらを今後の生活の場として選ぶか迷う彼の気持ちを表すと同時に、ビットゥーに恋をしたことを示すシーンにもなっていた。「Genda Phool」は、ハリヤーンヴィー(ハリヤーナー州の方言)風の土臭い歌詞が魅力の曲で、「Delhi-6」サントラCD内の隠れた名作となっている。テーマ曲の「Dilli-6」は、フランス語の歌詞が混じった変わった曲。デリーの魅力をシンプルな歌詞で表現してある。歌詞の観点からの傑作は「Arziyan」だ。スーフィズムの哲学を表現した歌詞になっているが、特に以下の部分が素晴らしい。

सर उठाके मैंने तो कितनी ख़्वाहिशें की थीं
कितने ख़्वाब देखे थे, कितनी कोशिशें की थीं
जब तू रू-ब-रू आया, नज़रें न मिला पाया
सर झुकाके एक पल में मैंने क्या नहीं पाया

sar uthāke maine to kitnī khāhishen kī thīn
kitne khāb dekhe the, kitnī koshishen kī thīn
jab tū rū-ba-rū āyā, nazren na milā pāyā
sar jhukāke ek pal men maine kyā nahīn pāyā

頭を上げて、どれだけお願いをしたことだろう
どれだけ夢を見ただろう、どれだけ努力をしただろう
だが、神よ、いざあなたが現れても、目を合わせられなかった
だが、頭を下げて祈ったら、すぐに叶わなかったことはなかった

 ちなみに作詞家は最近絶好調のプラスーン・ジョーシーだ。総じて、「Delhi-6」のサントラCDは買いである。

 オールドデリーには独特の言い回しがある。それは、上流階級の優雅な敬語だったり、下層階級のパンチの効いた罵詈雑言だったりする。「Delhi-6」では、ダイアログの面でもオールドデリーの魅力を表現しようとしていた。特にリシ・カプール演じるアリーと、ディヴィヤー・ダッター演じるジャレービーの話し方が特徴的であった。

 「Delhi-6」は、オールドデリーを愛する全ての人に見てもらいたい映画だ。通常の娯楽映画ではないし、あまりにインドの文化の様々なモチーフがストーリーと密接な関係を持って登場するため、インドに詳しくない人には少し敷居が高すぎる展開となっている。さらに、テーマは今では特に目新しいものではなく、途中までは少々退屈でもある。だが、これほどオールドデリーを美しく映画化した映画はなく、デリー映画のひとつの金字塔として高く評価したい。