Slumdog Millionaire (UK)

4.5
Slumdog Millionaire
「Slumdog Millionaire」

 ダニー・ボイルといったら、新感覚の映像を引っさげて登場した映画「トレインスポッティング」(1996年)の監督として有名だ。同映画は当時若者の間で大いに流行し、映画好きだった僕も完全にその世代の人間である。そのダニー・ボイル監督が、インド人作家ヴィカース・スワループの小説「Q and A(邦題:ぼくと1ルピーの神様)」を原作に、インドをテーマにした映画「Slumdog Millionaire」を撮ったということで、何か幼馴染みにインドで出会ったかのような嬉しい奇遇感を覚え、期待せずにはいられなかったのだが、僕の期待以上にこの映画は世界中で注目を集め、絶賛され、現在までゴールデン・グローブ賞をはじめ、数々の賞を受賞している。アカデミー賞にも10部門でノミネートされており、各部門での受賞が期待されている(追記:8部門で受賞)。「Slumdog Millionaire」は英国人監督による英国映画であるが、キャストもストーリーも完全にインド一色であり、音楽もインド映画界が誇る音楽家ARレヘマーンが担当している。さらに、ダニー・ボイル監督は、インドやインド映画の持つエネルギーを高く評価しており、それらに対する愛情を惜しみなくこの映画に注ぎ込んだと言われている。よって、「Slumdog Millionaire」は、外国映画ながら限りなくインド映画に近い映画とされており、アカデミー賞8部門を受賞したリチャード・アッテンボロー監督の名作「Gandhi」(1982年/邦題:ガンジー)とも比されている。2008年初公開の作品であるが、インドでは2009年1月23日に公開された。英語版と同時に、ヒンディー語版「Slumdog Crorepati」も公開されたが、僕が見たのは英語版の方である。通常、インド映画以外の評はここでは掲載しないのだが、「Slumdog Millionaire」の特殊性と重要性を鑑みて、評論してみようと思う。ちなみに、原作は読んでいない。

監督:ダニー・ボイル、ラヴリーン・タンダン
制作:クリスティアン・コルソン
原作:ヴィカース・スワループ「Q and A(ぼくと1ルピーの神様)」
音楽:ARレヘマーン
出演:デーヴ・パテール、フリーダー・ピント、マドゥル・ミッタル、アニル・カプール、イルファーン・カーン、サウラブ・シュクラー、マヘーシュ・マーンジュレーカル、アンクル・ヴィカル、ラージ・ズトシー、アーユーシュ・マヘーシュ・カーデーカル、タナエ・チェーダー、ルビーナー・アリー、タンヴィー・ガネーシュ・ローンカル、アズハルッディーン・ムハンマド・イスマーイール、アーシュトーシュ・ロボ・ガージーワーラー
備考:PVRバンガロールで鑑賞、ほぼ満席。

 2006年、ムンバイー。世界最大のスラム、ダーラーヴィー出身で、コールセンターでチャーイボーイをして生計を立てるジャマール・マリク(デーヴ・パテール)は、警察署で警部補(イルファーン・カーン)とシュリーニワース巡査(サウラブ・シュクラー)から拷問を受けていた。ジャマールは、プレーム(アニル・カプール)が司会を務める人気クイズ番組「Kaun Banega Crorepati(誰が億万長者になるか)」で全問正解して1千万ルピーを獲得し、翌日2千万ルピーを賭けた最後の問題に望むところであったが、詐欺を疑われて警察に逮捕されたのであった。拷問は一晩中続いた。

 だが、ジャマールは詐欺をしたわけではなかった。偶然にも出題された問題は彼の過去の人生に関わるものばかりであり、その経験をもとに解答していたのだった。警部補は昨晩の番組の録画を再生し、ジャマールはそれらについてひとつひとつ説明し出す。

 最初の問題は映画「Zanjeer」(1973年)の主役に関わるものだった。答えは、スーパースター、アミターブ・バッチャンであり、インド人なら誰でも答えられるものであったが、特にジャマールはアミターブ・バッチャンの大ファンで、かつて彼のサインをもらったこともあった。だが、兄のサリームにそれを売り飛ばされるという苦い思い出も持っていた。

 次の問題はインドの国章に刻まれた文句「サティヤメーヴ・ジャヤテー(真実は勝利する)」についてであった。それもインド人なら誰でも知っているものであったが、無学なジャマールは答えられず、ライフラインの「オーディエンス」で何とか乗り切った。「サティヤメーヴ・ジャヤテー」も知らない青年が1千万ルピーを獲得したということで、ますます疑いは募った。どんな知識人でも今までそんなところまで行けた者はいなかった。

 次の問題はヒンドゥー教の神ラームが右手に持っている品物についてであった。ジャマールの脳裏には、1993年のボンベイ暴動の悲劇がよぎった。イスラーム教徒のジャマールは、スラムのイスラーム教徒居住区に母親や兄サリームと共に住んでいたが、バーブリー・マスジド破壊事件を受けてボンベイで発生した一連のコミュナル暴動の中で、彼らの居住区はヒンドゥー教徒の暴徒による襲撃を受け、母親を殺されてしまったのだった。このとき彼はラームの姿をした少年が右手に弓矢を持っているのを目撃しており、そのシーンが恐怖と共に脳裏に刻み込まれていた。だが、このとき新たな出会いもあった。暴動の中を逃げ惑う内に、ジャマールはラティカーという女の子と出会う。サリームはラティカーを無視しようとしたが、ジャマールは彼女を仲間にする。こうして三人はスラムで一緒に暮らし始めたのであった。

 次の問題は、バジャン(宗教賛歌)「Darshan Do Ghanshyam(クリシュナ神よ、姿を見せておくれ)」の作者についてであった。その歌もジャマールの人生にとって大きな意味を持ったものだった。ゴミ拾いをして何とか生計を立てていたサリーム、ジャマール、ラティカーは、突如として現れたマーマン(アンクル・ヴィカル)という男に拾われ、孤児院のような場所へ連れて行かれる。そこではご飯をたらふく食べることができ、スラム暮らしの彼らにとって天国のようであった。ただ、マーマンは子供たちに乞食をさせると同時に、「Darshan Do Ghanshyam」を歌うレッスンを課していた。上手に歌えるようになったら、子供たちはプロの歌手になれると信じていた。しかし現実は残酷であった。サリームは、アルヴィンドという子供がその歌を上手に歌えるようになったがために、目を潰されて盲目の乞食にされるところを目撃してしまう。サリームはジャマールとラティカーと共に逃げ出す。サリームとジャマールは何とか逃げ切るが、ラティカーは逃げ遅れてしまった。以後、ラティカーとはしばらく音信不通となる。

 その後、サリームとジャマールは列車で物売りをして生計を立て始めた。彼らは列車でインドのいろいろな場所を旅行する。最終的にはアーグラーのタージマハルに辿り着き、そこで今度は観光客の荷物を盗んだりガイドをしたりして生計を立てるようになる。一儲けした2人は、ムンバイーに戻って来る。ジャマールはラティカーのことが忘れられず、彼女を見つけたいと思っていたのだった。

 次の問題は、米国の100ドル札の肖像は誰かというものであった。それも彼の人生と関わるものであった。アーグラーで米国人観光客から100ドル札をもらっていたからだ。だが、そこに描かれた人物が誰かということまで彼は知らなかった。ムンバイーに戻った二人は、厨房で働きながら暇を見つけてはラティカーを探す。その中でジャマールは、かつてマーマンに盲目にされたアルヴィンドと出会う。アルヴィンドは歌を歌って乞食をしていた。ジャマールは彼に100ドル札を渡す。アルヴィンドは声ですぐにそれがジャマールだと気付く。アルヴィンドは100ドル札に描かれた人物がベンジャミン・フランクリンだと教える。また、彼はラティカーの居所も知っていた。彼女は現在、チェリーという名前で呼ばれており、売春街で踊りのレッスンをさせられていた。サリームとジャマールはラティカーを探しに行く。そこでラティカーと再会するが、宿敵マーマンにも遭遇してしまう。だが、サリームはどこからか銃を入手しており、マーマンを射殺して復讐を果たす。3人は逃げ出す。

 元々性根が曲がっていたサリームは、次第に悪の道に走り出す。彼はダーラーヴィーを支配するマフィア、ジャーヴェード(マヘーシュ・マーンジュレーカル)の部下になると同時に、ラティカーをジャマールから奪い、彼を追い払ってしまう。以後、ジャマールはサリームやラティカーと連絡が途絶えてしまう。いつしかジャマールはコールセンターでチャーイボーイとして働くようになる。

 次の問題は、ケンブリッジ・サーカスが英国のどの都市にあるかというものであった。コールセンターでの経験により、彼はそれがロンドンにあることを知っていた。また、コールセンターのコンピューターで電話番号を検索することで、サリームの連絡先を突き止める。久し振りに再会したサリーム(マドゥル・ミッタル)は、ジャーヴェードの片腕としてすっかりマフィアの一員となっていた。ジャマールはラティカーの居場所を聞くが、サリームは、ラティカーは遠い昔に死んだと答える。だが、それを信じられないジャマールはサリームを尾行し、ジャーヴェードの邸宅にラティカー(フリーダー・ピント)がいるのを発見する。ラティカーはジャーヴェードの愛人になっていたのだった。ラティカーはジャマールとの再会を喜び、彼と駅で待ち合わせをして逃げ出そうとするが、サリームらに捕まり連れ去られてしまう。以後、ジャーヴェードは邸宅を引き払ってどこかへ行ってしまい、彼女の行方は分からなくなってしまうが、ジャマールは、彼女がクイズ番組「Kaun Banega Crorepati」を欠かさず見ていることを知っており、この番組に出演すれば彼女に見てもらえると考え、出演を決めたのであった。

 次の問題はクリケットに関するものだった。史上もっとも多くファーストクラス・センチュリー(ファーストクラス形式の試合における100ラン)を記録した選手は誰か、という質問だった。ジャマールには、Aのサチン・テーンドゥルカルでないことは分かっていたのだが、答えは分からなかった。そこで一旦休憩となり、ジャマールはトイレに行く。そこで司会者プレームは彼に「答えはBだ」と教える。だが、ジャマールは騙されているのではと考えた。彼はライフラインの「50:50」を使うが、不幸にも残ったのはBとDであった。ジャマールは思い切ってDを選ぶ。それが正解だった。それによって、ジャマールは1千万ルピーを獲得したが、そこでその日の収録は終了となってしまい、翌日最終問題が出題されることになった。だが、プレームはジャマールが詐欺をしていると思い込み、警察に通報して逮捕させる。そのときからジャマールは警察署に拘束されていたのだった。

 彼の話を聞いた警部補は、その話に嘘はないと結論を出し、彼が番組に出ることを許す。既に世間ではスラム出身の貧しい青年が番組で1千万ルピーを獲得した話題で持ち切りで、彼は一躍時の人となっていた。人々に見送られながらジャマールはテレビ局へ向かう。一方、サリームとラティカーもジャーヴェードの隠れ家でその番組を見ていた。ジャマールの成功を見たサリームは、ラティカーに自動車の鍵と携帯電話を渡し、彼女を逃がす。ラティカーはテレビ局へ向かうが、渋滞に巻き込まれてしまい、路上で番組を鑑賞することになる。

 番組が始まった。ジャマールに出題された最後の問題は、アレクサンドル・デュマ・ペールの小説「三銃士」に出て来る3人目の主人公の名前であった。「三銃士」は、サリームとジャマールが子供の頃に学校で読まされた小説であり、二人は教師からアトス、ポルトスと呼ばれていたが、3人目の名前は分からなかった。ジャマールは最後のライフラインである「テレフォン」を使用する。彼は兄サリームの携帯電話を登録していたが、電話に出たのはラティカーであった。元々ラティカーと連絡を取るために番組に出場していたジャマールは、彼女と話ができただけで満足であった。ラティカーは答えの代わりに「神のご加護を」と言う。ジャマールは無心になって答えるが、偶然にもそれが正解で、彼は2千万ルピーを獲得する。

 深夜の駅・・・そこはかつてラティカーと待ち合わせをした場所だった。ジャマールはそこで彼女をひたすら待っていた。やがてそこにラティカーは現れ、二人は再会を喜び、抱き合う。

 アミターブ・バッチャン、クリケット、タージマハル、コールセンター、コミュナル暴動、スラム再開発、乞食ビジネスなど、インドの様々な側面をクロスカッティングを多用した見事な手法でひとつのまとまりあるストーリーの中に詰め込んだ傑作。さらに、「トレインスポッティング」を彷彿とさせる独特の映像美も、ストーリーを邪魔しない程度に程よく織り込まれており、ダニー・ボイルの映画監督としてのスキルの熟成も感じさせられた。ただ、ストーリーがあまりにインドの文化に深く食い込んでおり、インドのことを知らない人が見たら理解できないであろう部分も散見された。それは例えば映画「Zanjeer」やアミターブ・バッチャンに関する下りであったり、ファーストクラス・センチュリーというクリケットの専門用語であったりする。ボンベイ暴動に関するシーンも、子供の頃の記憶のひとつとして済まされており、何の解説もなかった。インドのことをよく知っている人ならすぐに気付くが、そうでない一般の観客にはその意味がいまいちピンと来ないのではなかろうか?主人公の兄弟がイスラーム教徒で、ヒロインはヒンドゥー教徒であるという点も、インドに造詣の深い人なら名前だけで自然に察することができるが、一般人にそこまで期待できないだろう。このような極度にインド向けの映画が国際的に高い評価を得たことは多少驚きである。また、あまりにインドの汚ない部分が前面に押し出されており、それが一般の外国人が想像するインドのネガティブなイメージを助長するものであるため、インドをよく知らない人々への悪影響が心配される。スラムでの便所管理とか列車の中での物売りとかならまだしも、タージマハルでの靴泥棒とか置き引きなどは、僕もインドで少なからず盗難被害に遭ったことがあるため、見ていて心が痛んだ。こんなのを見せられては、せっかくインドを旅行したいと思っている人も二の足を踏んでしまうだろう。

 映画で題材となっていた「Kaun Banega Crorepati」は、実際にインドで放映されているクイズ番組であり、日本の「クイズ$ミリオネア」と同系列の番組である。オリジナルの英国版の題名は「Who Wants to Be a Millionaire」で、英セラドール社からライセンス提供を受けた番組制作会社が世界各国で同様のクイズ番組を制作している。インド版での初代司会者はアミターブ・バッチャン、2代目司会者はシャールク・カーンで、どちらもヒンディー語映画界のスーパースターだ。90年代一時停滞期に入っていたアミターブ・バッチャンは、この番組で司会をすることで人気を取り戻したという経緯もあり、インド映画史上でも一定の意義を持ったテレビ番組だと言える。

 「Kaun Banega Crorepati」は、基本的に四択式のクイズ番組であるが、解答者はライフラインと呼ばれる3種類のヘルプを各1回ずつ使用することができ、展開に起伏を持たせてある。それは、観客にアンケートする「Ask The Audience(オーディエンス)」、四択をランダムで二択にする「50:50」、予め登録した電話番号に電話をかけ、知り合いに質問する「Phone A Friend(テレフォン)」である。「Slumdog Millionaire」で優れていたのは、番組の特徴であるこれらライフラインのシステムを効果的にストーリーの中に組み込んであったことだ。「オーディエンス」は解答者ジャマールが一般常識のない人間であるということを示すために使われ、「50:50」は司会者プレームの傲慢な策略を暴くのに使われた。そして映画のハイライトは、最終問題で「テレフォン」を使うシーンである。ジャマールは賞金を獲得するためではなく、子供の頃から思いを寄せていた女性ラティカーと連絡を取りたいがために番組に出場していた。ジャマールは「テレフォン」を使って兄サリームと話そうとしたが、偶然電話はラティカーにつながる。彼女と話せたことで彼の目的は叶ったのであり、もはや彼にとってクイズの解答はどうでもよかった。その無心な気持ちで選んだ選択肢が偶然正解となり、彼は見事2千万ルピーを獲得することになったのである。

 ただ、賞金の使い道は映画では描写されておらず、観客の想像に任せる形となっている。だが、十分その後の幸せな展開を予想できるものとなっていた。それと関連し、最後にジャマールとラティカーが駅でインド映画風のダンスを踊るシーンがあった。必ずしも映画の雰囲気と合っておらず、しかも2人ともあまり踊りがうまくなかったが、これはダニー・ボイル監督のインド映画に対するオマージュと受け止めればいいだろう。ダンスシーンで駅の時計が1時頃を指していたが、おそらくこれはムンバイーのローカル列車の終電時刻を示していると思われる。

 「Slumdog Millionaire」は、ジャマールとラティカーのロマンスと見ればハッピーエンドであるが、もうひとつ映画の重要なテーマは、ジャマールと兄サリームの人生の対比である。サリームは、ジャマールがアミターブ・バッチャンからもらったサインを勝手に売り飛ばした幼少時のエピソードが象徴するように、性根の曲がった人間であった。一方ジャマールは、暴動で両親を失い、雨の中立ちすくむラティカーを屋根の下に招き入れた幼少時のエピソードが象徴するように、まっすぐで心優しい人間であった。サリームは、かつて自分たちを騙そうとしたマーマンを射殺し、マフィアのボス、ジャーヴェードの部下となって、悪の道へ進むが、ジャマールは、コールセンターのチャーイボーイをしながら地道に生計を立てる。ジャマールが「Kaun Banega Crorepati」に出演したのもラティカーへの一途な思いからであり、その正直な気持ちが結果的に彼に成功を呼び込む。一方、サリームはジャマールの成功を見て、自分の命を捨てる覚悟でジャーヴェードの愛人となっていたラティカーを逃がし、札束で満たされた浴槽に入って最期を迎える。それはジャマールの2千万ルピー獲得との悲しい対比であり、おそらく、正しくない手段で手に入れた金や権力には何の意味もなく、一途な気持ちで正直に取り組めば、金を含め、何事もうまく行くということを暗示したかったのだろう。最期にサリームが口にした言葉は「神は偉大なり」であった。ただ、サリームがジャーヴェードの手下となったのも、マーマンの部下の復讐から身を守るためであり、ジャマールを追い払ったのも、弟のことを思っての行動だったのかもしれない。そう考えると、最後にラティカーを逃がしてジャマールの元に送ったのは、基本的に彼が弟思いの性格だったからだと言えそうだ。悪の道に進みながらも、完全に良心は失っていないことを最期に見せたかったのだろう。この勧善懲悪的展開や登場人物の心変わりは、インド映画の方程式とも共通する。

 アニル・カプール、イルファーン・カーン、サウラブ・シュクラー、マヘーシュ・マーンジュレーカル、ラージ・ズトシーなど、ヒンディー語映画界では名の知れた渋い俳優たちが脇役として出演しており、ヒンディー語映画ファンとしてはそれだけでも嬉しい。だが、主役はデーヴ・パテールとフリーダー・ピントという全く無名の若い俳優たちである。デーヴ・パテールはインド系英国人で、テレビドラマぐらいにしか出演経歴がなく、今回は大抜擢だったと言えるだろう。名演とまでは行かないが、悪くない演技をしていた。フリーダー・ピントはマンガロール・クリスチャン系のモデルで、やはり「Slumdog Millionaire」以前に大した経歴を持っていた訳ではない。フリーダー・ピントの方が出番は少なかったものの落ち着いた演技をしていたように感じた。また、サリームを演じたマドゥル・ミッタルは、声に渋みがなく、キャラクターに合っていなかったのではないかと思われる。さらに、幼少時代のジャマール、ラティカー、サリームを演じるため、子役俳優もキャスティングされていたが、皆とてもいい演技をしていた。

 音楽はARレヘマーン。既に彼はこの映画の音楽でゴールデングローブ賞を受賞しており、アカデミー賞でもオリジナルスコア賞と楽曲賞の2部門でノミネートされている。しかし、長年彼の音楽を聴き続けて来た者の耳には、「Slumdog Millionaire」の音楽は彼の最高傑作ではないように聞こえる。最後のダンスシーンで流れる「Jai Ho」などいかにもレヘマーンらしい音作りだが、これらの曲は彼のディスコグラフィーの中では平均レベルの出来である。これで国際的に権威のある賞を受賞したりノミネートされたりするのだったら、今まで彼が作って来た音楽はいったいどうなってしまうことか。世界がようやくレヘマーンに追いついたと言っていいだろう。

 前述の通り、インドではこの映画の英語版とヒンディー語吹替版が公開されている。だが、英語版でもかなりの数のヒンディー語の台詞が出て来た。主要な台詞にはスタイリッシュな形で英語字幕が付いていたが、全てではなかったし、映画の情緒を理解するのに重要ないくつかのヒンディー語台詞が字幕を伴っていなかった。特に最後、ラティカーが「テレフォン」でジャマールと話したときに彼に対して投げかけた「神のご加護を」という言葉の言いかけの形が映画のもっとも美しい部分だったのだが、字幕が付いていなかった。

 細かい点になるが、クイズで出題されていた「Darshan Do Ghanshyam」の作者について。映画中では中世バクティ詩人スールダースが正解になっていたが、実はこれは彼の詩ではない。映画「Narsi Bhagat」(1957年)に出て来た曲で、ゴーパール・スィン・ネーパーリーによって書かれた詩である。ジャマールがスールダースと答えたのは、スールダースが盲目の詩人として知られているからだ。スールダース作と言われるブラジ語(マトゥラー地方の言語)で書かれたクリシュナ神の賛歌の数々は、盲目の詩人のものとは信じられないほど情景豊かなものが多い。「Darshan Do Ghanshyam」を上手に歌えるようになった少年アルヴィンドはマーマンによって盲目にされてしまったが、これは盲目の乞食がスールダースの歌を歌うことで人々の同情を買いやすいという計算に基づいてのものである。これらのつながりからスールダースが解答として浮かんだという設定である。

 ついでになるが、「Slumdog Millionaire」ではインドの乞食ビジネスに対しても深く切り込まれていた。よく、インドの乞食は、乞食としての稼ぎをよくするために、自分の子供の手足を切り落としたりすると言われるのだが、映画「Traffic Signal」(2007年)を観ても明らかのように、そんなことはありえない。たとえ乞食であろうとも自分の子供は自分の子供であり、実の親が何の罪もない自分の子供に対してそのような酷い仕打ちをするとは、インドの文化からしたら普通ありえない。むしろ、乞食が組織的ビジネスになっていることの方が問題であり、もし人工的に不具者が作られているとしたら、彼らは残酷な両親によってではなく、そのビジネスの餌食となったと考えた方が自然である。映画中に出て来たマーマンは、路上生活者の子供たちを集めて来て、寝食を保証する代わりに乞食をさせる乞食ビジネスの元締めであった。しかも、彼は歌のうまい子供を麻酔で眠らせて目を潰し、盲目の乞食として路上で歌を歌わせて喜捨銭を稼がせていた。さらに彼は、少女ラティカーに踊りを仕込ませて売春婦として売り飛ばそうともしていた。このように、インドの乞食は「貧困」の一言で片付けられるような単純な問題ではなく、そのインドの社会の暗部を先入観に囚われずに適切に取り上げていた点で、「Slumdog Millionaire」は意義ある映画である。ただ観客に感動を安売りするためにインドの貧困を利用したような安易な映画ではない。

 ちなみに、クイズの中に出て来たファーストクラス・センチュリーとは、ファーストクラス形式のクリケットの試合において一人で100ランを得点することである。クイズで出題されたのは、史上もっとも多くのファーストクラス・センチュリーを獲得したのはどの選手か、というもので、その解答はDのジャック・ホッブスで間違いない。1963年に死去した伝説的英国人クリケット選手ジャック・ホッブスは、現役時代に199回のファーストクラス・センチュリーを記録している。現在クリケットの国際試合で一般的なテストマッチは、ファーストクラスマッチの一形式であるが、一般にファーストクラスマッチという用語は国際試合には適用されない。現在ファーストクラスマッチは英国の国内試合ぐらいでしか行われていないため、今後も彼の記録は破られにくいとされている。

 「Slumdog Millionaire」は、英国映画でありながら極度にインドを感じさせられる映画であり、インドを旅行した者が見たら必ずインドが懐かしくなるだろう。つい「ああ、こんな子供たち、いたな」と思うこと請け合いである。つまり、インドを知っていれば知っているほどこの映画は面白くなる。ダニー・ボイル監督のインド愛もヒシヒシと感じる。だが、ここまで国際的に高い評価を得ているということは、インドを実際に体験していない観客にも受けているということであり、そこまで一般的なアピールのある作品だと認められていることに多少の驚きと疑問を隠せない。おそらく「想像通りのインドがそこにある」「見たかったインドがそこにある」という点がもっとも受けているのではないかと思うが、そうだとしたらインドにとって決して名誉なことではないので注意が必要だ。インドの要素を抜きとしたら、クイズ番組「Kaun Banega Crorepati」の特徴をうまくストーリーに組み込んだ脚本とダニー・ボイル印の映像美のみが突出して優れており、それ以外は特に何の変哲もないシンデレラ・ファンタジーということになる。もっとも、インド映画ファンも含め、全ての映画愛好家必見の映画であることには変わりがない。