Ghajini

4.0

 2008年も最後となった。今年のヒンディー語映画は、いくつかのヒット作といくつかの先進的作品が見られたものの、やや不作と評していいだろう。だが、最後の週、2008年12月25日に、大きな期待作が控えていた。アーミル・カーン主演の「Ghajini」である。この映画は、英米作家ジョナサン・ノーランの短編小説「Memento Mori」を映画化した米映画「Memento」(2000年)のタミル語リメイク「Ghajini」(2005年)のヒンディー語リメイクである。ただでさえ寡作なアーミル・カーンの新作ということで話題性バッチリだが、予算総額推定12億ルピー以上、広告だけに1億4千万ルピーもの大金をつぎ込んだ大規模な映画となっており、注目を集めていた。通常、インドでは金曜日が暗黙の了解で映画封切り日となっているが、「Ghajini」はクリスマスを狙って24日(水)夕方に全国主要都市一斉プレビュー公開、25日(木)に全国一般公開という変則的な公開スケジュールとなった。公開直前になって、Aチャンドラシェーカランというプロデューサーが、チェンナイの高等裁判所に、「Ghajini」の著作権は自分が持っていると訴えて、ヒンディー語版「Ghajini」の公開を差し止めようとするというゴタゴタもあったが、何とか予定通り公開となった。ちなみに、ヒンディー語版「Ghajini」の監督、音楽監督、キャストなどは、タミル語版とほとんど変わっていない。タミル語版で主演を務めたスーリヤ・シヴクマールの代わりにアーミル・カーンが主演をしている。

監督:ARムルガダース
制作:アッルー・アラヴィンド、マドゥ・ヴァルマー
原作:ジョナサン・ノーラン「Memento Mori」
音楽:ARレヘマーン
歌詞:プラスーン・ジョーシー
振付:アハマド・カーン
出演:アーミル・カーン、ジヤー・カーン、アシン(新人)、プラディープ・ラーワト、リヤーズ・カーン
備考:PVRアヌパムでプレビュー鑑賞、満席。

 医学生のスニーター(ジヤー・カーン)は、ケース・スタディーの対象として短期記憶障害のサンジャイ・スィンガーニヤー(アーミル・カーン)に興味を持ち、接近する。サンジャイは頭部に負った傷が原因で15分しか記憶を維持することができず、メモ帳、写真、インスタントカメラを持ち歩いていた。

 だが、サンジャイは過去に恋人を殺されるという不幸に直面しており、彼女を殺し、彼から記憶の力を奪ったガジニーに復讐をするために生きていた。部屋中に復讐のためのメモ書きを貼ったり、身体に重要な情報を入れ墨したりして短期記憶障害を克服しながら、事件に関わった人物を追い求めては殺害する毎日を送っていた。

 警察官のファワーズ(リヤーズ・カーン)は、連続殺人事件を追う内にサンジャイに辿り着く。ファワーズはサンジャイの部屋で彼の日記を見つけ、サンジャイの隠された過去を知る。

 サンジャイは、インド随一の携帯電話通信会社エア・ボイスの社長であった。サンジャイはひょんなことからカルパナー(アシン)という女優志望の女の子と出会い、恋に落ちる。ただ、サンジャイは流れから自分の正体を明かしておらず、男優志望のサチンを名乗っていた。サンジャイは2005年の大晦日に、身分を明かさないまま彼女に告白をする。もしOKだったらそのときに正体を明かすし、もしNO
であったらそのまま彼女の人生から姿を消すつもりであった。

 ここまで日記を読み進めたファワーズであったが、2006年の日記が見当たらなかった。その隙にファワーズはサンジャイの襲撃を受け、捕縛されてしまう。その後、偶然サンジャイの家を訪れたスニーターに発見され、ファワーズは助け出されるが、サンジャイに追われて逃げる内にトラックにはねられて死んでしまう。

 スニーターはサンジャイの部屋で、ガジニー(プラディープ・ラーワト)の写真を見つけていた。ガジニーはGD製薬の社長で、裏社会をも牛耳っている男であった。ガジニーはスニーターの通う文化祭に来ていたので、彼女は彼のことを知っていた。スニーターはガジニーの家へ行き、サンジャイが彼の命を狙っていると忠告する。

 ガジニーはサンジャイを殺しに出掛けるが、ちょうどその頃サンジャイはガジニーを殺しに彼の家に侵入していた。そのときスニーターがちょうどガジニーの家に電話をし、サンジャイが出てしまった。サンジャイは殺人の標的をスニーターに変更し、彼女の住む女子寮に侵入する。だが、スニーターの機転でサンジャイはエレベーターに閉じ込められ、そのまま警察に逮捕される。

 警察に連行されたサンジャイであったが、エア・ヴォイスの幹部が身元を引き取りに来て事情を説明したため、釈放された。だが、ガジニーは彼を見逃さなかった。サンジャイが短期記憶障害であることを知っていたガジニーは、彼の身体と部屋から復讐に関わる全ての情報を消し去ってしまう。サンジャイは完全な記憶喪失となってしまった。

 一方、サンジャイの部屋から日記を見つけて持ち帰っていたスニーターは、彼の日記を読み、過去の悲劇を知る。彼女は2006年の日記も見つけることができた。また、彼女は当時の新聞を調べたり、カルパナーの関係者と話すことで、サンジャイの失われた過去の全貌を明らかにする。それは以下の通りであった。

 サンジャイは2005年12月31日にカルパナーに告白した。彼女は1日待って欲しいと返答を保留していた。2006年1月1日、待ちに待ったカルパナーの答えはOKであった。サンジャイは思い切って身分を明かそうとするが、その前に彼女が、アンバサダーを3台買うまでは結婚しないと誓ったと話し出す。そこでサンジャイはカルパナーがアンバサダーを3台買うまで結婚を待つことにする。その頃、かねてから申請していたインド~英国間の国際電話のライセンスが下りることになり、サンジャイはロンドンへ出張することになる。サンジャイはカルパナーに、母親が病気だからしばらく村へ帰ると言い訳して旅立つ。同じ頃にカルパナーはゴアへロケへ行くことになった。だが、ゴアまでの列車の中で、人身売買される少女たち25人を見つけ、悪党の手から彼女たちを解放する。カルパナーはそのまま彼女たちをムンバイーへ連れ帰る。これがきっかけで人身売買ネットワークの存在が明らかになり、警察の捜査が開始される。しかし、その少女たちはガジニーの「商品」であった。ガジニーはカルパナーを殺害するため、彼女の家にやって来る。そのときちょうどサンジャイがやって来るが、カルパナーは目の前で殺され、サンジャイも頭部を強打され脳に障害を残すことになったのであった。

 真実を知ったスニーターは一転してサンジャイの復讐の支援に回る。スニーターによってガジニーへの復讐を思い出させられたサンジャイは、ガジニーを襲撃し、手下を片っ端から返り討ちにして、最後に彼を殺す。

 復讐を果たしたサンジャイは、孤児院で子供の世話をする優しい男になっていた。

 インドは多言語国家かつ映画大国であり、主要な言語にはそれぞれ独自の映画産業が根付いている。全国的かつ国際的なマーケットを持っているのはムンバイーを拠点とするヒンディー語映画のみだが、ハイダラーバードを拠点とするテルグ語映画や、チェンナイを拠点とするタミル語映画も現地で圧倒的人気を誇っており、制作本数ではヒンディー語映画を凌駕することもしばしばである。ベンガリー語映画やマラヤーラム語映画も良質な映画が多く侮れない。各地で各様の映画が発達している様は、正に映画大国の名にふさわしい。だが、当然のことながら各映画界にはそれぞれの文法があり、トレンドがあり、テイストがある。A言語でヒットした映画をそのままB言語でリメイクしても、うまく行かないことが多い。「Ghajini」もそんな印象を受けた映画であった。

 言語はヒンディー語、主演はヒンディー語映画界のスーパースター、予算のかけ方もヒンディー語映画の名に恥じないものではあったが、「Ghajini」は、ストーリーからアクションまで完全に南インド映画であったと言える。短期記憶障害という要素が入っているため、単純な復讐劇ではないが、それでも復讐の実現によって結末を迎える様式の映画であることに変わりなく、そのようなスタイルの映画はヒンディー語映画界では既に時代遅れとなっている。もちろん、このような分かりやすい筋の映画を求める層はヒンディー語圏にも多く、ヒットしないことはないだろう。だが、ここまで来てわざわざ後退する必要はあるのかと疑問を感じる。

 ヒンディー語映画が南インドの映画に比べて明らかに勝っている点のひとつに、歌とストーリーの融合がある。南インドの映画をたくさん見ている訳ではないので偉そうなことは言えないのだが、今まで見て来た南インド映画(多くはタミル語映画)は、ストーリーとあまり関係のないダンスシーンが突如として挿入されることが多く、幼稚な印象を受けることが多かった。だが、優れたヒンディー語映画はストーリーに自然に溶け込み、登場人物の気持ちを代弁し、映画の完成度を高めるような形で歌や踊りが挿入される。また、もしダンスシーンが必要ないと判断したら全く歌も踊りもない映画を作るだけの自由がヒンディー語映画界では既に確立している。踊り自体は南インド映画の方がレベルが高いのだが、歌と踊りの使い方については、ヒンディー語映画は誇っていいものを持っていると思う。そういう観点で「Ghajini」を見ると、無理に挿入されたミュージカルシーンが多く、その点でも南インド映画そのままだと感じた。

 アクションシーンにも南インド的なものを感じた。ヒンディー語映画では、一人で多数の悪漢を無傷のままなぎ倒すような無敵の主人公はほとんど登場しなくなっている。せいぜい、傷を負いながら何とか撃退するという形で、ある程度の現実性を持たせてある。だが、南インド映画では主人公やその同志は格闘シーンになると突然最強のファイターに変貌し、次々に襲いかかってくる悪漢たちを超人的パワーで吹っ飛ばす。そのくせストーリーの都合上、負傷したり捕まったりしなければならないときは、あっけなくやられてしまったりする。「Ghajini」にもそういうご都合主義のアクションシーン満載であった。

 プロットに多少おかしな部分もあり、細かいところを突っ込んで行くとキリがないが、それは大人げない行為であろう。ただひとつだけ疑問点を挙げるとしたら、短期記憶障害になったサンジャイがどのようにガジニーへの復讐を思い立ったのか、ということである。映画中ではその点に関しては全く説明がなかった。また、上映時間が丸々3時間あったが、このような比較的単純なプロットの映画でここまで長い映画はヒンディー語映画にはもはや存在しない。

 それでも、ストーリー自体はスリリングで面白く、映像やカメラワークも凝っており、結末も何とか後味のいい形でまとめてあったため、娯楽映画としては合格点だと言える。しかし、クリスマスシーズンに公開するような映画ではないと断言できる。クリスマスにもし恋人などと映画を観るなら、今年最高のロマンス映画「Rab Ne Bana Di Jodi」(2008年)の方が圧倒的にオススメである。

 ところで、南インド映画をヒンディー語リメイクして成功した例は、最近では「Bhool Bhulaiyaa」(2007年)がある。オリジナルはマラヤーラム語映画「Manichitrathazhu」(1993年)で、その大ヒットを受けてラジニーカーント主演で作られたタミル語リメイク「Chandramukhi」(2005年)も大ヒットし、満を持してヒンディー語でもアクシャイ・クマール主演で「Bhool Bhulaiyaa」が作られた。「Bhool Bhulaiya」にも南インド映画っぽい部分があったのだが、元々脚本が完成されていたことに加え、ヒンディー語コメディー映画のテイストがうまく調合されていたため、高く評価できるリメイクとなっていた。果たして「Ghajini」がヒンディー語圏の観客に満遍なく受け容れられるか、見物である。おそらくサルマーン・カーン主演の「Tere Naam」(2003年)的な受け容れられ方をするのではなかろうか?「Tere Naam」は、やはりギャングに暴行されて植物人間になってしまった若者が主人公の悲しい物語で、都市部ではそれほどヒットしなかったものの、地方では熱狂的な支持を集めた映画であった。ちなみに、「Tere Naam」もタミル語映画「Sethu」(1999年)のリメイクである。

 おそらくヒンディー語版「Ghajini」の存在意義はアーミル・カーンに尽きるだろう。彼がサンジャイ役を演じたかったためにヒンディー語リメイクが作られたのだと言っても過言ではない。アーミル・カーンは、サンジャイ役を演じるためにボディービルディングをしたり、毎日自分で特徴的な髪型を整えたり、かなり熱の入った役作りをして来た。アーミル・カーンにとって演技は自己完結の瞑想のようなものであり、まず役があって、その次に映画があるという感じがする。「Ghajini」でのアーミル・カーンの演技は文句なしに素晴らしかったが、ここまで来ると何か病的なものを感じずにはいられない。

 もうひとつ存在意義があるとしたら、それは南インド映画界の人気女優アシンのヒンディー語映画デビュー作という点であろう。アシンの本名はアシン・トーットゥムカル、ケーララ人である。アシンの「ア」はサンスクリット語の否定の接頭辞、「シン(sin)」は「罪」という意味の英単語で、つまりは「イノセント」みたいな意味だ。サンスクリット語と英語の合成語という珍しい名前である。2001年にマラヤーラム語映画でデビューし、タミル語映画やテルグ語映画でキャリアを積みつつ、TVCMなどでも活躍して来た女優である。ジェネリアと似た溌剌さが魅力の女優で、ヒンディー語映画界でもこれから活躍の場を広げて行きそうだ。

 もう一人のヒロイン、ジヤー・カーンもいい演技をしていた。彼女はインド版ロリータ「Nishabd」(2007年)でセンセーショナルなデビューを果たした若手女優で、本作が第2作となる。アンニュイな雰囲気を醸し出す独特のオーラをまとっており、出演作に恵まれればユニークな女優に成長して行くと期待される。

 悪役ガジニーを演じたプラディープ・ラーワトも見事な悪役振りであった。やはり彼もタミル語・テルグ語の映画で活躍して来た俳優である。「Ghajini」のキャストは南インド映画の俳優が多く、彼らのヒンディー語映画界進出を推し進める役割も果たしそうだ。

 音楽はARレヘマーン。タミル語版「Ghajini」の使用曲のリメイクもあるようだ。もっとも印象的だったのは、ナミビアの砂漠で撮影された「Guzarish」である。カルパナーに告白し、翌日まで保留となったその答えを待つ気持ちを歌った曲で、映像も歌詞もメロディーも非常に美しい。アスィンが踊るコミカルな「Aye Bachcho」も良い。だが、全体的にARレヘマーンの昔のスタイルの曲調だと感じた。おそらく2005年に作曲したナンバーのリメイクが多数だからであろう。

 「Ghajini」はクリスマスを狙って投入された今年最大の期待作の一本であるが、クリスマスの雰囲気とは全く正反対の、凄惨かつスリリングな復讐劇である。娯楽映画としては楽しめるが、ヒンディー語映画に慣れ親しんでいる観客の目には古風で時代遅れな映画に映ることだろう。地方のインド人観客には大いに受けるだろうが、都市部の目の肥えたインド人観客がどういう反応をするか、注目したいと思う。ある意味、数十年前のヒンディー語映画のスタイルを思わせるこの作品は、ヒンディー語映画の将来を決定付けることになるかもしれない。もしこの映画が空前の大ヒットとなったら、新感覚の映画を求めつつあったヒンディー語映画は、過去への回帰を考え出すかもしれない。