Tashan

3.0
Tashan
「Tashan」

 2006年あたりからインド最大の映画コングロマリット、ヤシュラージ・フィルムスと、これまたインド最大のマルチプレックス・チェーン、PVRの仲が悪く、前者の作った映画が後者の映画館で上映されない事態が何度かあった。最近しばらくそのようなことはなかったのだが、ヤシュラージ・フィルムス制作で2008年の話題作の一本「Tashan」がまたもPVRで公開されないことになった。そこで、サティヤム・ネルー・プレイスで鑑賞した。2008年4月25日公開の映画である。

 「Tashan」とはヒンディー語で書くと「टशन」になるが、この言葉は辞書には載っていない。英語でもないようだ。ネット上でも「Tashan」の意味について憶測が飛び交っており、インド人でもよく分からない言葉のようである。一説によると「style」と「fashion」を掛け合わせた言葉のようだが、映画中での使われ方を見ると、いろいろな場面で都合よく使われており、ひとつの意味に限定できなさそうだ。元々パンジャービー語という説もある。日本語に敢えて訳すなら、「かっこつけ」としたい。

監督:ヴィジャイ・クリシュナ・アーチャーリヤ
制作:アーディティヤ・チョープラー
音楽:ヴィシャール・シェーカル
出演:サイフ・アリー・カーン、アクシャイ・クマール、カリーナー・カプール、アニル・カプール
備考:サティヤム・シネプレックス・ネループレイスで鑑賞。

 ムンバイーのコールセンターに勤務し、英語教師も務めるジミー・クリフ(サイフ・アリー・カーン)は、ある日プージャー・スィン(カリーナー・カプール)という女性と出会ったことをきっかけに、彼女が勤めるオフィスのボス、バイヤージー(アニル・カプール)に英語を教え出す。ジミーの狙いは最初からプージャーであり、バイヤージーに英語を教えながらプージャーと心を通わすようになる。

 バイヤージーの元には定期的に大量の現金が送られて来ていた。ジミーはプージャーが多額の借金を抱え、バイヤージーに結婚を迫られていることを知り、彼女と共にその金を盗んで返済に充てる計画を立てる。あるときそれは実行に移され、二人は2万5千ルピーを盗む。だが、ジミーが荷物を取りにコールセンターに寄ると、そこには警察が来ていた。警察は、コールセンターから三人の富豪の個人情報が漏洩したこと、そしてマフィアのドンがそれを使って脅迫をしていることをコールセンターの職員に話した。そのマフィアのドンこそ、ジミーが英語を教えていたバイヤージーであった。

 ジミーはプージャーに連絡を取ろうとするが、彼女は2万5千ルピーと共に姿をくらましていた。ジミーはプージャーに完全に騙されたのであった。

 所変わってウッタル・プラデーシュ州カーンプル。町のゴロツキに過ぎなかったバッチャン・パーンデーイ(アクシャイ・クマール)は、バイヤージーに召還される。バッチャンはバイヤージーを尊敬しており、喜び勇んで彼のアジトを訪れる。そこにはジミーが拘束されており、バッチャンは拷問の役を任される。ジミーはプージャーの居所を知らなかったが、バッチャンに叩かれている内に、彼女がハリドワールへ行きたいと言っていたのを思い出す。ジミーとバッチャンは一緒にウッタラーカンド州ハリドワールへ行くことになる。

 ジミーの予想通り、プージャーはハリドワールにいた。プージャーは、金の入ったバッグをラージャスターン州に隠したと明かす。そこで三人はラージャスターン州を目指すことになる。

 ラージャスターン州ではバイヤージーも待ち構えていた。確かにバッグはあったが、そこには数千万ルピーしか入っていなかった。プージャーは金を分散させてインドのあちこちに隠したのだった。3人はそれを全部集めるように命令される。

 ジミーは、金が揃った後はバイヤージーに殺されることを恐れていた。そこでプージャーに、バッチャンを色仕掛けで惑わすように言う。バッチャンは女性とまともに話したこともない硬派な男だった。だが、話している内に実はプージャーは、バッチャンが子供の頃に片思いしていた女の子グリヤーであることが分かる。バッチャンはプージャーにゾッコンになってしまう。ジミーの作戦は見事に成功し、金が全額揃った後、バッチャンは二人を逃がしてくれた。

 ジミーはてっきりプージャーがバッチャンの幼馴染みを演じていると考えていたが、彼女は本当に幼馴染みであった。しかも、プージャーの父親はバイヤージーに殺されており、その復讐のためにバイヤージーに近付いたことも明かす。それを聞いたジミーは、バッチャンの身が危ないと悟る。なぜならジミーはこっそり金を横領しており、バッチャンがバイヤージーのところへ持っていたバッグの中身は石ころだったからだ。

 バイヤージーのアジトではバッチャンが拷問を受けていた。そこへジミーとプージャーがやって来て、バッチャンを救出する。ジミー、プージャー、バッチャンの三人は、バッチャンの部下たちと壮絶な戦いを繰り広げる。そして最後にプージャーは父親の復讐を果たすことに成功する。ジミーはコールセンターの社長となり、バッチャンとプージャーは結婚して幸せな家庭を築いた。

 前半は、最近のヤシュラージ・フィルムスにありがちな、無理に凝った、人を食ったような展開が続く。大失敗作映画「Jhoom Barabar Jhoom」(2007年)と似た雰囲気で、少し心配になった。だが、アクシャイ・クマールが登場し、インターミッションを挟んで後半になると、お互いにお互いを信用していない3人の男女の珍道中となり、俄然盛り上がって来る。クライマックスはド派手なアクションシーンになっており、何か懐かしいシンプルさがあって良かった。結果として、物語が進めば進むほど、インド人大衆の望むようなシンプルで分かりやすい映画になっていた。

 映画中、西インドの大都市ムンバイーと北インドの中小都市カーンプル、都市中産階級の英語と方言混じりのヒンディー語の対比が繰り返されていたのも興味深い。最近のヤシュラージ・フィルムスは基本的に都市中産階級向けの、英語を多用したヒンディー語映画を作って来たのだが、2007年の同プロダクションの映画はほとんどが失敗作に終わってしまった。その反省からか、ヒンディー語を日常的に利用する北インドの中小都市の観客も取り込めるような映画作りへの意気込みが「Tashan」から感じられた。ただし、監督はどちらにも肩入れをしていない。大都市と英語を象徴するジミー(サイフ・アリー・カーン)と、小都市とヒンディー語を象徴するバッチャン(アクシャイ・クマール)のやり取りの中に、両者の立場をバランス良く織り込んで、コミカルにまとめていた。英語を必死に学ぼうとするが、かえっておかしな言葉遣いになってしまったバイヤージー(アニル・カプール)も、両者の葛藤の産物と言えるだろう。バイヤージーの話す言葉は英語とヒンディー語がランダムに入り乱れており、日本で言えばルー語みたいなものになっていておかしい。題名にもなっている意味不明の言葉「Tashan」も、バイヤージーが造り出したものである。

 総じて、「Tashan」は、大都市に住み、英語を日常的に使用し、映画に新しさを求める中産階級と、中小都市(特に北インド)に住み、ヒンディー語を母語とし、単純なストーリーを求める大衆の両方をターゲットにした、新しい映画作りへヤシュラージ・フィルムスが踏み出した作品だと評価できるだろう。

 この映画でもうひとつ優れていたのは、ロードムービー的にインド各地の風光明媚な土地で撮影が行われていたことである。ラダック、カシュミール、ラージャスターン、ケーララなど、インドの風土や文化の多様性を感じることができるだろう。

 ここ1、2年でアクシャイ・クマールの人気はうなぎ上りである。今やインド人の若者の間でもっとも人気のあるスターになってしまった。2007年のアクシャイは全く外れなし。彼にとって2008年の初主演作になる「Tashan」でも彼の魅力が存分に発揮されており、ファンを裏切らない。アクシャイには、田舎の純真な荒くれ者役がもっとも似合っている。

 アニル・カプールは最近低迷していた俳優であるが、「Tashan」では久々にマッドな演技を開放し、悪役を思いっ切り楽しんでいた。サイフ・アリー・カーンもいい演技をしていたが、最近の彼が演じる役はいつも同じような「ハンサムだが自己中心的な男」であり、そろそろ飽きられて来る恐れがある。そろそろ「Omkara」(2006年)のようなブレイクがもうひとつ欲しい。

 「Tashan」の見所のひとつは間違いなくカリーナー・カプールであろう。いつの間にかすっかり寡作になり影が薄くなっていたカリーナーだが、「Jab We Met」(2007年)をヒットさせ、しかもそれで数々の主演女優賞を受賞したことで、再びヒンディー語映画界のトップ女優候補に返り咲いた。「Tashan」での彼女はいろいろな側面を見せる機会を与えられており、演技力の幅の広さが発揮されていた。特に中盤でのセクシーな悪女の演技と、終盤での暴徒をなぎ倒すアクション女優としての演技がよかった。

 音楽はヴィシャール・シェーカル。インド・ロックと表現できそうな「Dil Haara」、誘惑のダンスナンバー「Chhaliya」、カッワーリー・ロックとでも言うべき「Dil Dance Mare」など、ユニークな曲が多い。ヒットチャートでもトップを維持しており、買いである。

 「Tashan」は、インドのいろいろな層の人々の趣向に一度に訴えようとした野心的な娯楽映画だと言える。それが興行的に吉と出るか凶と出るかは今の段階では何とも言えない。だが、古いようで新しく、新しいようで古い、不思議な映画に仕上がっていることは確かであり、一見の価値はある。