Lage Raho Munna Bhai

5.0

 役を演じるのが役者だが、時々、ある役の名前がそれを演じた俳優の代名詞になってしまうことがある。渥美清と寅さん、アーノルド・シュワルツネッガーとターミネーター、アムリーシュ・プリーとモガンボなどなど、古今東西どこでもあることのようだ。そして、サンジャイ・ダットとムンナーバーイーも、どうやらその一例と言うことができそうだ。

 サンジャイ・ダット演じるマフィアの親分がひょんなことから医学部に入学し、職員や患者の心を掴んで大学病院を改革するという破天荒なストーリーが大受けしたコメディー映画「Munna Bhai M.B.B.S.」は、2004年の大ヒット作の一本となった。インド映画の永遠の命題である笑いと涙の融合に見事に成功した同作品は、時にマサーラー映画と揶揄されるインド映画のひとつの完成型であり、ひとつの金字塔だと言える。サンジャイ・ダットが演じたムンナーバーイーと、その片腕のサーキット(アルシャド・ワールスィー)のコンビは、銀幕を離れて一人立ちし、インド人の間で交わされるジョークの主人公となった。映画公開から数年経った今でも、ムンナーとサーキットはムンバイー訛りのヒンディー語で語り合っている。

 そのムンナーバーイーが、サーキットと共に遂にスクリーンに帰って来た!その名も「Lage Raho Munna Bhai」。2006年9月1日から封切られ、巷の話題となっている。題名はかなり訳しにくいのだが、「そのまま行こうぜ、ムンナーバーイー」みたいな意味になる。題名は元々、「Munna Bhai 2nd Innings」だったのだが、それが「Munna Bhai Meets Mahatma Gandhi」に変更され、最終的に現タイトルに落ち着いた。監督は前作と同じラージクマール・ヒラーニー、音楽はシャーンタヌ・モーイトラー。キャストは、サンジャイ・ダット、アルシャド・ワールスィー、ヴィディヤー・バーラン、ボーマン・イーラーニー、ジミー・シェールギル、ディヤー・ミルザー、ディリープ・プラバーヴァルカル、クルブーシャン・カルバンダー、サウラブ・シュクラー、アビシェーク・バッチャン(特別出演)である。

 なぜかPVR系列の映画館で上映されておらず、久し振りにチャーナキャー・シネマで観た。

 ムンバイーで、悪徳不動産屋ラッキー・スィン(ボーマン・イーラーニー)と組んで、居住者追い出しを生業にしていたマフィアのボス、ムンナー(サンジャイ・ダット)は、ラジオ番組「グッドモーニング・ムンバイー」のジョッキー、ジャーンヴィー(ヴィディヤー・バーラン)に恋してしまった。ジャーンヴィーは、10月2日のマハートマー・ガーンディー誕生日にちなんで、ガーンディーに関するクイズを出し、正答者をスタジオに招待する企画を発表する。ガーンディーのことなどほとんど知らなかったムンナーは、子分のサーキット(アルシャド・ワールスィー)らを使って歴史学者を拉致し、彼らの力を借りてジャーンヴィーと会う権利を獲得する。

 スタジオを訪れたムンナーは、ジャーンヴィーと初めて出会い、その美しさにさらに虜になってしまう。だが、ムンナーは自分のことを歴史学の教授だと自己紹介してしまう。ジャーンヴィーもムンナー教授に興味を持ち、彼を家に招待する。ジャーンヴィーの家はセカンドイニングスという名前で、祖父の友人たちが集まる老人ホームのようになっていた。ムンナーは、祖父らの前でガーンディーについて講演するよう頼まれる。残された時間は5日しかなかった。

 焦ったムンナーは、図書館に閉じこもり、寝食を忘れてガーンディーに関する本を読み漁る。そんなとき、突然ムンナーの目の前にガーンディー(ディリープ・プラバーヴァルカル)が現れる。ガーンディーの姿はムンナーにしか見えなかった。ムンナーは最初は驚くが、ガーンディーの力を借りて講演を切り抜ける。ジャーンヴィーはますますムンナーに惹かれるようになった。

 ムンナーは、ジャーンヴィーやセカンドイニングスの老人たちを連れてゴアへ行く。だが、その間にラッキー・スィンはセカンドイニングスを不法占拠してしまった。セカンドイニングスの物件は、娘スィムラン(ディヤー・ミルザー)の結婚相手の父親クラーナー(クルブーシャン・カルバンダー)が欲しがっていたものだった。ラッキーは何としてもこの結婚を成立させようとしており、ムンナーに内緒でこの物件の差し押さえを行ったのだった。クラーナーは迷信深い人物で、お抱え占星術師バトゥク・マハーラージ(サウラブ・シュクラー)の言いなりになっていた。バトゥクは一度、この結婚は不吉だとして破談を助言したが、ラッキーは娘の誕生日を偽って、何とか破談を回避した。

 ゴアでジャーンヴィーにプロポーズしようと思っていたムンナーであったが、セカンドイニングスが差し押さえられたことを知って急遽ムンバイーへ戻る。ムンナーは、ガーンディーの助言に従い、ラッキーに対して非暴力の戦いを繰り広げることに決める。ムンナーはラッキーの住むマンションの前に立ち、ラッキーに対してセカンドイニングスの鍵を返すように訴えかけた。同時に、ジャーンヴィーはラジオを使って人々にこの問題をアピールした。その目的のためにジャーンヴィーとムンナーが始めた相談コーナーは、徐々にムンバイーの話題となった。

 しかしながら、ムンナーはガーンディーとの約束に従って、ジャーンヴィーに対して自分が教授ではないことを伝えなくてはならなかった。真実を知ったジャーンヴィーはショックを受け、ムンナーのもとを去って行く。セカンドイニングスを取り戻すために一人でも戦い続けようと決意したムンナーであったが、ムンナーにだけ見えるガーンディーの姿は、実は幻覚であったことが証明されてしまい、大きなショックを受ける。ムンナーはムンバイーを去ることを決め、最後にジャーンヴィーにメッセージを伝えるためにラジオ局を訪れる。

 そのとき、ラッキーの娘のスィムランの結婚式が行われようとしていた。ところが、スィムランは父親がクラーナーに嘘を言ったことを知ってしまい、結婚式を抜け出す。そこで出会ったのがヴィクター(ジミー・シェールギル)であった。ヴィクターは、父親の貯金を株で使い果たしてしまい、自殺を考えていたが、ムンナーに励まされて父親に真実を打ち明け、タクシー運転手をして少しずつ父親に金を返そうとしていた。ヴィクターはスィムランに、ムンナーに相談するよう助言する。ちょうどラジオ局にいたムンナーは、スィムランに対し、結婚相手の父親に全てを打ち明けるべきだと言う。スィムランは結婚式場に戻り、クラーナーに全てを打ち明ける。クラーナーは激怒して式場を去ろうとするが、新郎(アビシェーク・バッチャン)はスィムランを気に入り、彼女と結婚する。

 また、ムンナーとサーキットは警察に逮捕されてしまうが、ジャーンヴィーは留置所を訪れてムンナーと会い、彼の愛を受け入れる。また、ラッキーもムンナーにセカンドイニングスの鍵を返す。

 前作「Munna Bhai M.B.B.S.」は、笑いと涙を見事に融合させながら、社会批判的な主張もしっかりと行っていた映画であったが、本作「Lage Raho Munna Bhai」は、それらに愛国主義的・啓蒙主義的な要素が加わり、さらに完成度の高い映画となっていた。また、コメディー映画でありながら、観客は笑いと共に感動の涙を存分に流すことができる映画であることも特筆すべきである。僕は「Kabhi Alvida Naa Kehna」(2006年)では全く泣くことができなかったが、この「Lage Raho Munna Bhai」では大いに泣かされてしまった。傑作や注目作の多い2006年のヒンディー語映画界において、白眉とも言える作品である。

 ムンナーバーイーとサーキットのコンビは前作そのままだが、「Munna Bhai M.B.B.S.」と「Lage Raho Munna Bhai」のストーリーに直接の関係はない。前作でムンナーは医学部に入学してチンキー(グレイシー・スィン)と結婚したが、本作のムンナーはまだ独身であり、サーキット以外に共通する登場人物はいない。前作に登場していた俳優の多くが本作でも役を演じているが、前作とは全く別の役である。さらに言えば、特にムンナーとサーキットが出て来る必要のない映画だった。脚本はムンナーとサーキットなしでも成立した。むしろ、あらかじめ完成していた脚本に、ムンナーとサーキットのコンビを後からあてはめたのではないかと思う。それと関係していると思われるが、前作よりもムンナーとサーキットのキャラクターが立っていなかった。ただ、それでもやはりムンナーとサーキットのやり取りは面白く、喜笑のラサ(情感)を引き立たせるのに貢献していた。

 映画の主題は、「現代に蘇ったマハートマー・ガーンディー」だと言うことができる。インド独立の父と称されるガーンディーの存在感とその思想は、現代インドではすっかり色褪せてしまった。ムンナー自身も、「ああ、あの紙幣に印刷されている奴か」と語っていたが、現代のインドの若者にとって、ガーンディーの存在はその所感と似たり寄ったりのものになってしまっていると思われる。また、インドの役所などにはガーンディーの肖像画が必ず飾られているが、人々はその前で平気で賄賂を受け取り、嘘を付き、暴力を振るい、不正を働く。ガーンディーの姿は、インドの町の至る所で見掛けるが、人々の心の中からはいつしか消えてしまった。そんな現状を、この映画は痛烈に批判していた。

 そして、ガーンディー主義哲学を説くのがマフィアの親分というところにこの映画のエッセンスが凝縮されている。悪徳不動産屋ラッキー・スィンに差し押さえられた物件を取り返すために、ムンナーが取った手段はアヒンサーとサティヤーグラハ。アヒンサーとは非暴力、サティヤーグラハとは真理の主張。たまに後者は「真理の把持」などと訳されるが、これは誤訳。サティヤ(真理)をグラハ(把持)するのではなく、アーグラハ(主張)するのである。ムンナーにとって、暴力を使えばいくらでもそんなことは可能だったかもしれないが、彼は敢えて非暴力の道を行き、ラッキーに花を贈り続けることで、真理を主張した。また、ガーンディーはインドの最大の病を「恐怖」だとし、人々の心の中からその恐怖を取り除こうと努力したが、ムンナーも真理を主張するのに、人々を恐怖から解放しようと努める。恐怖を使って商売をしているムンナーがそんな行動をするのはかなり矛盾なのだが、前作からのムンナー・ファンは、それを自然に受け入れることができてしまうから不思議だ。そして、おそらく今でもインド人の心の中には、少しだけでもガーンディーに対する尊敬とプライドが残っているのだろう、ガーンディー主義的な方法を使ってムンナーが次々と問題を解決するシーンに、観客は大いに拍手喝采を送っていた。

 つまり、敢えてガーンディーの言葉を借りるならば、この映画でムンナーはサーディヤ(目的)ではなくなってしまっていた。ムンナーは主人公でありながら、主人公ではなかった。ガーンディー主義哲学を観客に伝えるサーダン(手段)になってしまっていた。結果的に、「Lage Raho Munna Bhai」中のムンナーは、前作のムンナーらしさを失ってしまったのだが、その代わり、また別のヒーロー像を確立したと言っていい。きっと、多くの観客も新たなムンナーを受け入れることだろう。

 ただし、サーキットのキャラクターにはほとんど変化はなかった。ちょっと抜けているところがあるが、ムンナーの頼れる相棒であり、親分のためなら火の中に飛び込む覚悟もある。映画中、ムンナーがサーキットを平手打ちして叱り付けるシーンがあるが、すぐに二人は仲直りする。もしかしたら、ムンナーバーイー・シリーズは、サンジャイ・ダット演じるムンナーよりも、アルシャド・ワールスィー演じるサーキットの方が重要なのかもしれない。ムンナーは医学部へ行ったり教授になったり何でもできるが、サーキットは常にムンナーの傍にいなければならない。ムンナーバーイーがサンジャイ・ダットの代名詞となっているように、サーキットもアルシャド・ワールスィーの代名詞になっている。

 ヒロインを演じたヴィディヤー・バーランは、「Parineeta」(2005年)で衝撃の映画デビューを果たした女優。デビュー作ではシリアスな役を見事に演じ切り、既に大女優のオーラを身にまとっていたが、本作では等身大の魅力を見せてくれた。「Parineeta」に比べて見せ場は少なかったが、いい女優であることに変わりない。これからいい作品にどんどん出演して、名実共に大女優になってもらいたい。今、僕が最も注目している若手女優である。

 他に、ボーマン・イーラーニー、ジミー・シェールギル、クルシュ・デーブーなど、前作にも登場していた俳優が本作でも別の役で登場。ボーマン・イーラーニーは相変わらず悪役であるし、ジミー・シェールギルも相変わらず地味で哀れな脇役だった。前作では大いにいじめられたクルシュ・デーブーは、本作では一瞬の登場(グジャラート人弁護士役)ながら、やっぱり痛い目に遭っていて笑えた。ディーヤー・ミルザーはあまり出番がなかった。最後にアビシェーク・バッチャンが特別出演するのはビッグサプライズであった。

 音楽はシャーンタヌ・モーイトラー。彼は「Parineeta」の音楽監督で、豪華絢爛かつ繊細な音楽を作る印象が強いが、一転してムンナーワールドの音楽を作曲した。前作は「M Bole To」がムンナーバーイーのテーマ曲のようになっていたが、今回は口笛のメロディーが印象的な「Hai Re Hai」がテーマ曲扱いである。一瞬だけ「M Bole To」のメロディーも流れはしたが、音楽的には前作とはかなり雰囲気が違う。ちなみに前作の音楽監督はアヌ・マリクだった。

 言語はムンバイヤー・ヒンディー。ムンバイヤー・ヒンディーは、元々ムンバイーのチンピラなどが使っている混成言語であり、度々ヒンディー語映画でも使用されるが、もはやこの独特のしゃべり方は、ムンナーとサーキット(つまりサンジャイとアルシャド)の専売特許のようになってしまった。この二人ほどムンバイヤー・ヒンディーを使いこなせる人物はヒンディー語映画界にはいない。彼らの話す言語も、この映画の楽しみのひとつだと言っていいだろう。特にアルシャド・ワールスィーの流れるようなしゃべり方は必聴である。

 占星術師バトゥク・マハーラージの存在は、数秘術などの迷信に洗脳されているヒンディー語映画界のスターたちを皮肉っているのだろう。最近、ヒンディー語映画界のスターたちの英語の綴りが変わったり、ミドルネームが突然付け加わったりするが、そのほとんどは数秘術の影響である。映画中でも、バトゥクはクラーナーに、名前の前に「K」を付け加えるように助言し、クラーナーの名前は「Khurana」から「KKhurana」になった。クラーナーの妄信はエスカレートし、占いでしか物事を決められなくなってしまう。だが、最後にはムンナーの活躍のおかげで目を覚まし、バトゥクを追い出して名前を「Khurana」に戻すのだった。

 ガーンディーを呼び出すときにムンナーバーイーが歌う「ラグパティ・ラーガヴ・ラージャ・ラーム・・・」という歌は、ガーンディーが気に入っていたというバジャン(宗教賛歌)である。基本的にはラームのことが歌われているが、歌詞の中には「アッラー」という言葉もあり、ヒンドゥーとムスリムの融和を説いたガーンディーの哲学に沿った歌となっている。

 ちなみに、ジャーンヴィーがジョッキーを務めるラジオ番組の冒頭の、「グッドモーニング・ムンバイー!」というキャッチフレーズのしゃべり方は、ロビン・ウィリアムス主演の「グッドモーニング、ベトナム」(1987年)の真似であろう。

 最新情報では、ラージクマール・ヒラーニー監督は次回作の構想を既に練り始めているという。次回作では、ムンナーとサーキットが米国へ渡ると言うが・・・いったいどうなることやら。

 「Lage Raho Munna Bhai」は、最近ヒンディー語映画界で流行の第2弾モノ映画だが、前作を凌駕する面白さを実現しており、今年必見の映画の一本に数えられるだろう。オマケとして、マハートマー・ガーンディーの人生、功績、思想を少しだけ垣間見ることができるのもよい(本当に少しだけだが)。インド映画の真髄を見たかったら、「Lage Raho Munna Bhai」を観るべし!