Shaadi Karke Phas Gaya Yaar

1.0
Shaadi Karke Phas Gaya Yaar
「Shaadi Karke Phas Gaya Yaar」

 8月15日。日本は終戦記念日、少ししめやかな気分になる日である。だが、ここインドは独立記念日。打って変わってお祭り騒ぎ、のはずだが、ここ数年は独立記念日を狙ったテロに対する厳戒態勢が敷かれており、それほどお祭り騒ぎでもない。全国的な祝日なので、マーケットの店舗のほとんども閉まっている。特に午前中は町中に検問が敷かれ、非常に出歩きにくい雰囲気となる。昨日、PVRアヌパム4へ行ったら、マーケットの中心部に土嚢を積んだ簡易の要塞が設けられており、銃を持った軍人が高所から睨みを利かせていた。戦場に迷い込んだみたいだった。こんな様相なので、独立記念日には家に閉じこもっている人がけっこう多いと思われる。また、子供たちはこの日には凧を飛ばして遊ぶ。特に低所得層が多く住む住宅地へ行くと、空は凧だらけである。

 しかしながら、独立記念日も午後になると、一応「テロは防げた!」みたいな雰囲気になり、一気に警戒レベルは下がる。車通りがとても少ないので、打って変わってデリーを走り回るのに快適な日となる。暇だったので、午後から映画を観にコンノートプレイスの老舗映画館オデオンに出掛けた。本当は「Anthony Kaun Hai?」という映画を観たかったのだが、新聞の映画欄を見間違えてしまい、オデオンで上映されていたのは2週間前の2006年8月4日に公開された「Shaadi Karke Phas Gaya Yaar」といういかにもつまらなそうな映画だった。しかも、それに気が付かずにチケットを買ってしまった・・・。それでも、買ってしまったものは仕方ないので、そのまま観ることにした。結果、やっぱりつまらなかったのだが、つまらないなりに語るべきことがあったので、一応映画評をここに掲載しておく。

 「Shaadi Karke Phas Gaya Yaar」とは、「結婚してとんでもないことになっちまったよ」という意味。監督はKSアディヤーマーン、音楽はサージド・ワージドとダッブー・マリク。キャストは、サルマーン・カーン、シルパー・シェッティー、リーマー・ラグー、シャクティ・カプール、スプリヤー・カルニクなど。

 アーヤーン(サルマーン・カーン)は、自動車の整備工場を経営する中産階級の若者だった。ある日、妹の誕生日プレゼントを買いにサーリー屋を訪れ、そこでアハーナーという美しい女性(シルパー・シェッティー)と出会う。だが、アーヤーンは、アハーナーが買った高価なサーリーを、妹への誕生日プレゼントのために買った安価なサーリーと取り間違えてしまう。アハーナーは家に帰って購入物が入れ替わっていることに憤慨しながらも、アーヤーンのことはすっかり忘れていた。

 その後、アーヤーンはアハーナーと数回偶然出会い、仲を深めて行く。ある日、アーヤーンはアハーナーが忘れて行った日記を手に入れる。そこにはアハーナーのいろいろな好みのことが書かれていた。アーヤーンはその日記を研究し、アハーナーの気を引こうとする。アハーナーも、アーヤーンが自分の好みにピッタリであることに驚き、運命の人だと考えるようになる。アハーナーの父親(シャクティ・カプール)もアーヤーンのことを気に入る。二人の結婚はそのままスムーズに進んだ。唯一、アハーナーの母親(スプリヤー・カルニク)だけは、娘が中産階級の男と結婚することに反対であった。アハーナーの家は大富豪であった。

 結婚後、アーヤーンの家に住み始めたアハーナーは、アーヤーンの態度の変化や、彼の家族の中での生活に嫌気を感じ始める。アハーナーは妊娠するが、まだ子供を生みたくなかった彼女は堕胎したいと言い出す。アーヤーンはそれに反対する。だが、アハーナーは階段から落ちて流産してしまう。アーヤーンは、アハーナーが故意に堕胎したと思い込んで失望する。こうして夫婦仲は徐々に険悪なものとなって行った。

 アハーナーの不満が一気に爆発したのは、自分の誕生日パーティーの日、アーヤーンの家でたまたま自分の日記を見つけてしまったことからだった。このとき初めて、彼女はアーハーンの好みが自分とピッタリ一致していた理由を知る。アーヤーンが自分の気持ちを弄んだことに怒ったアハーナーは、酒を一気飲みして酔っ払い、公衆の面前でアーヤーンを侮辱する。逆ギレしたアーヤーンは、アハーナーに平手打ちを食らわす。アハーナーはそのまま実家に帰ってしまい、別居状態となってしまう。

 母親に説得されたアーヤーンは、アハーナーの実家を訪れ謝罪し、彼女を連れ戻そうとする。だが、アハーナーはそれを拒否する。しかも、このときアハーナーは再び妊娠しており、彼女の家族は堕胎させようとしていた。それを知ったアーヤーンは、離婚してもいいからお腹の子供だけは生むように頼む。問題はこじれ、法廷で争われることになる。裁判長は、離婚のために1年間の猶予期間を設けると同時に、アハーナーに対して子供を生むように命令する。また、アーヤーンはアハーナーがまた流産させないように、アハーナーのそばに付きっ切りになる必要性を主張する。裁判長もそれを認め、こうしてアーヤーンはアハーナーの家で彼女のそばに住むことになった。そしてアハーナーが出産すると、今度は医者が母乳によって子育てする必要性を主張する。こうして、今度はアハーナーがアーヤーンの家に2ヶ月住むことになった。

 アハーナーは子育てをしている内に、次第に子供に対して情が移ってくる。2ヶ月が過ぎ去り、実家に帰ることになると、アハーナーは帰ることを拒否する。だが、母親は彼女を無理矢理連れ出す。だが、今まで黙っていた父親が急に怒り出し、アハーナーをアーヤーンの家に帰らす。アーヤーンも、アハーナーの心変わりを待っており、帰って来た彼女を温かく迎える。

 大スター、サルマーン・カーンを起用した映画ではあるが、非常に古風で前時代的な映画だった。映画が発信するメッセージも、「女性は結婚して、子供を生んで、夫に従うべき」という伝統主義的なものだった。だが、デリーの中でも比較的庶民が集う映画館で見たことが功を奏し、いろいろ思うところのある映画であった。インド映画の本音が最も如実に表れるのは、映画賞を取るような良作、大作、ヒット作ではなく、こういう低予算のB級C級映画なのかもしれない。

 題名通り、この映画は結婚後の夫婦生活のギクシャクを描いている。その点は先日見た「Kabhi Alvida Naa Kehna」(2006年)と共通している。だが、夫婦仲がうまく行かない原因の多くは、妻と妻の家族側に求められている点で、非常に一方的な脚本であった。まず、妻アハーナーの家は上流階級で、夫アーヤーンの家は中産階級であるというアンバランスさが、結婚生活の不成功を暗示していた。そして、モデルをしていたアハーナーは、自立した考えを持ったモダンな女性であった。彼女がアーヤーンに言う、「私はあなたの家族と結婚したんじゃないの、あなたと結婚したの」というセリフは、陳腐ではあるが、彼女の考え方を明確にしていた。しかも、結婚後4ヶ月で妊娠したアハーナーは、「私はまだ若いから」と言って、子供を生みたくないと言い出す。こういう我がままな女性は、インド映画では悪役以外の何者でもない。この時点で、完全に観客の同情はアハーナーから離れる。また、アハーナーの家は女性が権力を握っていた。アハーナーの母親は、最初から娘が中産階級の男と結婚することに反対しており、結婚がうまく行っていないのを知ると、離婚と堕胎を躊躇なく勧める。アハーナーの姉は既に4回離婚しており、はなっから結婚を信じていない。その一方で、アハーナーの父親は娘の結婚の成功を祈ってはいるものの、いつも黙ってばかりで、それがさらに家の女たちを付け上がらせる原因となってしまっていた。

 このような設定なので、結末の予想は非常にたやすい。アーヤーンとの離婚を求めるアハーナーは、裁判所の命令によって嫌々子供を生んで育てることになるが、次第に母親としての喜びを見出すようになり、最終的にはアーヤーンの妻として元の鞘に収まる。映画の最後のシーンで、「なぜ戻って来た?」と聞くアーヤーンに対し、アハーナーは「子供のために」と答える。子供のためだけかよ、と少し落胆するアーヤーンに対し、はにかみながら「つまり、2人目の子供のために」と言い直す。この終わり方は悪くはなかった。アハーナーの心変わりと同時に、彼女の母親の心変わりも描かれる。アーヤーンはアハーナーの父親に対し、「あなたが言いたいことを言わないから、女どもが付け上がるんだ」と責める。それを聞いた父親は急に変貌し、我がまま放題だった妻を2回平手打ちし、「これからは俺は黙ってないぞ!」と一喝する。これが原因で、アハーナーの母親は一転して夫に尽くす忠実な妻となってしまう。

 このように、この映画は男中心社会を美化し、自立した女性を伝統的な価値観に引き戻そうとする明確なメッセージが込められていた。そして、観客もそれを楽しんでいたようで、アーヤーンがアハーナーを平手打ちするシーン、アハーナーの父親が母親を平手打ちするシーンでは、大きな拍手喝采が沸き起こっていた。別にフェミニズム的観点からこの映画を批判するつもりはない。ただ、インド映画と観客の本音を改めて知ることができる映画だと思った。

 演技の面では、脇役であるシャクティ・カプールとスプリヤー・カルニクの好演が光った。シャクティ・カプールはいつも変な役ばかり演じているが、この映画では珍しくシリアスな役に挑戦しており、とても落ち着いた演技をしていた。スプリヤー・カルニクは、「タカビーなマダム」をよく演じる脇役女優であるが、この映画でも自分の十八番を演じて映画中最大の悪役となり、観客の感情をうまく方向付けていた。

 主演のサルマーン・カーンは可もなく不可もなくの無難な演技。彼のファンへのアピールであろうか、取ってつけたような格闘シーンが一瞬だけ挿入されていたが、全体としては物静かな好青年の役を演じていた。ヒロインのシルパー・シェッティーは役をもっとよく選ぶべきだ。彼女のような、名の売れた女優が演じるべき役ではなかった。よっぽど売れていないのだろうか?

 インド映画なので、途中でダンスシーンがあるのは必然のことであるが、無意味なダンスシーンが多く、映画を盛り下げていた。

 「Shaadi Karke Phas Gaya Yaar」は、現代のヒンディー語映画の潮流とはかけ離れた古風な映画である。わざわざ観る必要はないが、インド映画や、インド映画とインド人の関わりを語ろうと思ったら、こういう駄作もたまには観なければならない、と思わされたことで、個人的には価値のある映画であった。