Banaras

Banaras
「Banaras」

 今日は、2006年4月6日公開の新作ヒンディー語映画「Banaras」をPVRアヌパム4で観た。題名の「Banaras」とは、ウッタル・プラデーシュ州東部にあるガンガー(ガンジス河)沿いの都市ヴァーラーナスィーの別名である。インドを代表する観光地のひとつだ。当然のことながら、ヴァーラーナスィーでロケが行われたようで、どのようなストーリーになるのか楽しみにしていた。監督は「Tumko Na Bhool Paayenge」(2002年)のパンカジ・パラーシャル、音楽はヒメーシュ・レーシャミヤー。キャストは、ウルミラー・マートーンドカル、アシュミト・パテール、ナスィールッディーン・シャー、ディンプル・カパーリヤー、ラージ・バッバル、アーカーシュ・クラーナーなど。

 バナーラスの裕福なブラーフマンの家庭に生まれたシュエーターンバリー(ウルミラー・マートーンドカル)は、幼少の頃から音楽の才能を開花させていたが、現在では音楽の道から離れ、バナーラス・ヒンドゥー大学(BHU)で物理を専攻していた。一方、掃き掃除人のおばさんに拾われた捨て子のソーハム(アシュミト・パテール)は、バナーラスのガートに住むバーバージー(ナスィールッディーン・シャー)に可愛がられて育った。ソーハムも音楽の才能があり、やがてBHUで音楽の先生になる。ソーハムとシュエーターンバリーは、いつしか恋に落ちる。ソーハムはシュエーターンバリーへの恋に落ちていくと同時に、不思議な力に目覚めていく。

 ところが、ソーハムとシュエーターンバリーの仲と、ソーハムが低カースト出身との噂はバナーラス中に広まっていた。シュエーターンバリーの父マヘーンドラナート(ラージ・バッバル)と母ガーヤトリー・デーヴィー(ディンプル・カパーリヤー)は、表向きでは二人の結婚を受け容れながら、裏では何とかして二人の仲を引き裂こうと画策していた。ソーハムの従兄弟のマハーマーヤーも、二人の仲をよく思っていなかった。

 ソーハムとシュエーターンバリーの婚約式が行われ、二人は指輪を交換するが、それから間もなくしてソーハムは何者かに暗殺されてしまう。シュエーターンバリーはひょんなことから、暗殺を計画したのは母親であることを密かに知ってしまい、ショックのあまり精神不安定状態となってしまう。心配した両親は、精神科医のバッターチャーリヤ(アーカーシュ・クラーナー)を呼ぶが、シュエーターンバリーはソーハムに教えを授けていたバーバージーが、数百年前に既に死んだ人物だったことを知って以来、次第に不思議な力を持つようになり、逆にバッターチャーリヤの持病をよくしてしまう。

 ある日、シュエーターンバリーはバナーラスを去ってモーリシャスへ移住する。モーリシャスでシュエーターンバリーは宗教指導者として有名になる。それから17年後、父親危篤の報を受けたシュエーターンバリーは久しぶりにバナーラスへ戻り、瀕死の父親と再会を果たす。マヘーンドラナートは娘を見た直後に息を引き取る。また、マヘーンドラナートの死後、今度はガーヤトリー・デーヴィーの様子がおかしくなり、真夜中ガンガーに身を投げて入水自殺を図ろうとする。シュエーターンバリーに助けられた母親は、ソーハムを殺したのは自分であることを白状する。だが、シュエーターンバリーは微笑と共にそれを受け容れる。ガーヤトリー・デーヴィーは、すぐそばにソーハムの姿を見るのだった。肉体は滅びるが、魂は永遠なのであった。

 ヴァーラーナスィーはいろいろな意味でインドで最も魅力的な街のひとつだが、その魅力をスクリーン上で美しく表現しようとする努力がなされていた映画であった。つまり映画の主人公はバナーラス。バナーラスを愛する人が、バナーラスを愛する人のために作った映画と言っても過言ではない。バナーラスへ一度でも行ったことのある人なら、この映画を見たらきっと郷愁を感じるだろうし、バナーラスへ行ったことがない人は、バナーラスへ行きたいという思うことであろう。だが、映画の最も肝心なストーリーの方は、宗教映画的かつファンタジックで、理解の範疇を越えている。ストーリー展開に困ると、「なぜならここはバナーラスだから」というセリフで片付けてしまっているような印象を受けた。しかしながら、終わり方は非常にバナーラス的で美しかった。

 一応ストーリーの主軸はソーハムとシュエーターンバリーの恋愛だが、話は魂とか悟りとか超人的パワーとか、そういう方向へ向かって行ってしまうので、この映画を純粋な恋愛映画と認めることはできない。最終的には、バナーラスに漂う無数の偉大な魂たちを感じ取る映画になってしまっていた。その象徴は、魂を信じていなかったバッターチャーリヤが、数百年前に死んだバーバージーの姿を目の当たりにして改心するシーンである。バナーラスなら起こりうる!そう納得するしかない・・・。だが、バナーラス旅行を1.2倍くらいは楽しいものにさせてくれそうなエネルギーは映画の中にあった。駄作と一言で片付けるのは不当であろう。

 インドには宗教映画というジャンルがあり、その中では神様の偉大さや、清く正しく生きることの大切さが、伝承や比喩を用いてとうとうと語られる。インド人は口だけは達者なので、こういう説法調の台詞回しは非常に巧い。「Banaras」の中でも耳障りのいい言葉がいくつもあった。例えば、ナスィールッディーン・シャーが愛について語るセリフはよかった。「愛は根である。愛により花は咲き、香りが満ち、実が成る。それを楽しむがよい。だが、愛とは何か、考えてはならない。もし根っこを掘り起こしたら、木は枯れてしまう。愛とは感じるもの。見るものではない。」これから「愛とは何か?」「なぜインドが好きなのか?」と質問されたら、こう答えようと思う・・・。

 僕は、アミーシャー・パテールの兄アシュミト・パテールをあまり認めていない。おそらく彼が持つミステリアスな雰囲気が、彼をこの映画の主役に抜擢させたのであろう。だが、アシュミト・パテールは全く映画の中に溶け込んでいなくて、演技もぎこちなかった。ヒロインはウルミラー・マートーンドカル。もう女学生を演じる年齢ではないと思うのだが、ソーハムの死後に精神に異常をきたすシーンがあり、それを演じるために彼女が選ばれたのだな、と理解できた。精神異常を起こす女性の役は、ウルミラーの十八番である。ただ、ソーハムが殺されたことを知ったときの彼女の演技はわざとらしすぎて白けてしまった。

 バーバージーを演じたナスィールッディーン・シャーは、はまり役であろう。「Iqbal」(2005年)と言い、「Being Cyrus」(2006年)といい、とぼけた調子の役が多いが、彼が演じると絶妙なキャラクターになるのだから文句は言えない。彼が演じるバーバージーは、実は数百年前に死んだサードゥの霊魂だったというオチである。ディンプル・カパーリヤーは、序盤から中盤までほとんど見せ場がなく、なぜ彼女が出ているのか分からなかったが、マヘーンドラナートの死後に急に演技力を要するシーンが出てきて、このためのディンプルだったのか、と合点がいった。

 バナーラスが舞台になっており、言語はサンスクリット語の語彙混じりのいわゆる「準ヒンディー語」と、ウッタル・プラデーシュ州東部からビハール州にかけて話されているボージプリー方言のチャンポンになっている。聞き取りは難解な方であろう。

 バナーラスと言ったら、まずはやっぱりガンガーとガート。ダシャーシュヴァメード・ガートやアッスィー・ガートと言った有名なガートが登場する。マヘーンドラナートの邸宅になっていたガート沿いの建物はどこのハヴェーリーであろうか?その他、バナーラス・ヒンドゥー大学(BHU)のキャンパス、トゥルスィーマーナス寺院、サールナートのダメーク・ストゥーパなども出てくる。だが、ヴァーラーナスィーのガートを常にうろついている外国人旅行者の姿は、不思議なまでに全くカメラに映し出されなかった。

 そういえば、少しだけヴァーラーナスィーで観光客をだます悪質なインド人のことが触れられていたが、騙されている観光客はタミル人であった・・・。

 また、オープニングのクレジットシーンはなかなかかっこいい。懲りすぎというくらい凝っている。

 「Banaras」は、題名通りバナーラスを楽しむための映画である。バナーラスへ行ったことがある人もない人も、バナーラスという言葉に何かを感じる人は、見てみるといいだろう。心を洗われるかもしれない。