Aksar

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Aksar
「Aksar」

 今日は、2006年2月3日公開の新作ヒンディー語映画「Aksar」を観た。題名は「よくあること」という意味。監督は「Dil Maange More!!!」(2004年)のアナント・マハーデーヴァン、音楽はヒメーシュ・レーシャミヤー。キャストは、イムラーン・ハーシュミー、ディノ・モレア、ウディター・ゴースワーミー、ターラー・シャルマーなど。

 写真家でプレイボーイのリッキー(イムラーン・ハーシュミー)はある日、旧知の女性シーナー(ウディター・ゴースワーミー)から呼び出される。シーナーは、リッキーが親友のニシャー(ターラー・シャルマー)を遊び道具にしたことに怒り、リッキーの高価なカメラを破壊する。

 それから3年後、リッキーが個展を開くと、そこに一人の男が現れ、全ての写真を300万ルピーで買い取ると申し出る。その男はラージ(ディノ・モレア)という名の大富豪であった。もちろん、ラージの狙いはリッキーの写真ではなかった。ラージはリッキーにある仕事を依頼する。それは、妻を誘惑して恋に落とし、自分との離婚に同意させてほしい、というものであった。ラージの妻は、資産とステータスを失いたくなくて離婚を拒否していたのだった。しかもその妻は3年前に喧嘩をしたシーナーであった。リッキーはその仕事を受け容れざるをえなかった。リッキーはラージの自宅のあるロンドンへ飛ぶ。

 ラージとシーナーの結婚記念日パーティーの日、リッキーも会場を訪れる。リッキーを見て、「すぐにこの男を追い出して!」と激怒するシーナーに、ラージは、「彼には僕の家の撮影を依頼しただけだから、仕事が終わるまで辛抱してくれ」と言う。

 シーナーはリッキーのひとつひとつの行動に怒りを募らすが、それがリッキーの口説きのテクニックであった。シーナーはいつの間にかリッキーを愛するようになっていた。遂にリッキーとシーナーは一夜を共にする。ところが翌朝、その場にラージが現れる。ラージはシーナーに離婚に同意するように言うが、シーナーは開き直り、「あなたは今まで散々浮気をして来たから、私の浮気に文句を言うことはできない」と言って、リッキーとの浮気を好きなだけ続けることを宣言する。リッキーもシーナーに恋してしまい、そのままラージの家に居座ることに決めたのだった。

 シーナーの誕生日パーティーの日、ラージはニシャーを呼ぶ。パーティーで酒に酔ったリッキーは、その夜ニシャーを強姦してしまう。それを知ったシーナーは怒り、リッキーを殺してしまう。警察はすぐに犯人はシーナーだと断定するが、ラージは妻をかばって自分が殺したと自供する。ラージは逮捕される。だが、警察はたまたまリッキー殺人現場に監視カメラが設置されていることに気付く。そこには、シーナーがリッキーを殺す現場が押えられていた。今度はラージの代わりにシーナーが逮捕される。

 だが、シーナーは心変わりを起こしていた。シーナーは、彼女をかばって警察に自首した上に、財産を全て彼女の名義にしようとした夫の行動を見て、ラージは本当は自分のことを愛してくれていたことに気付く。そして代わりに全ての財産を夫の名義に変更する届けを出す。

 ラージは、その届けを持って刑務所を出る。迎えに来た自動車の中に座っていたのは、ニシャーであった。

 「Ajnabee」(2001年)の頃からだっただろうか、ヒンディー語映画界では大胆な性描写と大どんでん返しの結末が売りの不倫サスペンスがたくさん作られるようになった。「Jism」(2003年)や「Murder」(2004年)あたりがその成功例と言っていいが、その種の映画の多くは失敗作に終わって消えて行ったと記憶している。「Aksar」も失敗作のひとつに数えられるべき駄作である。ストーリーに整合性がなく、大どんでん返しに説得力のない、稚拙な映画であった。

 ただし、ヒンディー語映画ではひとつの「ヒットの方程式」が成り立ちつつあるように感じる。それは「音楽×エロ=ヒット」である。音楽がよく、エロい映画は、ある程度の興行的成功を収めることが多い。「Jism」しかり、「Murder」しかり、最近では「Kalyug」(2005年)しかり、である。ただし、インド人はどうも「Neal ‘N’ Nikki」(2005年)のような明るいエロよりも、粘りつくのようなネットリとしたエロの方が好みのようだ。そういう意味で、「Aksar」はヒットの方程式をよく押えていた。「Aksar」のサントラCDは大ヒットしており、ウディター・ゴースワーミーの妖艶さが最大の売りとなっている。また、イムラーン・ハーシュミーが出演する映画はかなりの高確率で音楽が大ヒットする、というジンクスも確立しつつある。イムラーン・ハーシュミーが出演し、音楽が大ヒットした映画には、「Murder」、「Zeher」(2005年)、「Aashiq Banaya Aapne」(2005年)、「Kalyug」などがある。

 「Aksar」は結局、ラージが妻シーナーの親友ニシャーと結婚したいがために複雑な計画を立て、それにリッキーとシーナーがはまる、という筋書きである。しかしラージの計画にはいくつもの穴や不明な点があり、エンディングには納得できない。最大の疑問点は、シーナーはラージの財産の半分の権利を持っていながら、どうして離婚を拒否していたのか、ということだ。その他にも、シーナーがリッキーを殺した現場にどうして都合よく監視カメラが設置されていたのか、警官が監視カメラを発見するまでのプロセスはあまりに稚拙すぎないか、ラージが持っていたボールの意味がよく分からない、など疑問が尽きない。また、こういう映画を観るといつも、心の中のどこかにどうしても、「この手の複雑な計画は、インド人には立案不可能だろう」というちょっとインド人に対して失礼な疑問が沸き起こってしまう。インド人は目先のことしか考えていない人が多く、犯罪も非常に単純な手口のものが多い。インドでこの手の複雑犯罪をテーマにした映画を作ろうと思ったら、まずは犯罪者が複雑な犯罪を仕組めるようになるのを待つべきではなかろうか?ハリウッド映画のストーリーをそのままインドに適用するだけでは、やはり説得力のある映画にはならない。

 インド人の間ではどうもイムラーン・ハーシュミーの人気が沸騰中のようだが、なぜ彼が人気なのか、日本人観客にはなかなか理解できないだろう。対してハンサムでもなく、身長が高いわけでもなく、踊りが特別うまいわけでもない。僕は、イムラーン・ハーシュミーの「おいしいところをちゃっかり持っていくチャーミングさ」と、「いざというときに見せる男らしさ」が受けているのではないかと予想している。いずれにせよ、今最も勢いのある若手男優の1人である。

 ウディター・ゴースワーミーも不思議な女優だ。美人でもなく、かわいくもなく、要するにブスなのだが、なぜかヒンディー語映画界で女優をしている。デビュー作の「Paap」(2003年)から既に肌の露出度が高かったが、おそらく「濡れ場を演じられる女優」ということで声がかかるのだろう。「Aksar」でもイムラーン・ハーシュミーとキスシーンやベッドシーンを演じていた。近くのインド人観客が携帯電話のビデオでイムラーンとウディターの濡れ場シーンをこっそり撮影していたが・・・それほど大したものでもなかった・・・。

 ターラー・シャルマーは「Page 3」(2005年)で女優の卵を演じていた女優である。彼女はまだまだ脇役女優の域を出ない。ディノ・モレアは落ち着いた演技をしていたが、アルジュン・ラームパールと同じく俳優よりもモデルの方が似合っている人物であり、モデル業に戻った方がいいのではないかと助言したくなる。

 音楽はヒメーシュ・レーシャミヤー。前述の通り「Aksar」の音楽は大ヒット中。音楽のヒットにより、映画の興行収入もいい影響を受けていると言っていいだろう。特に「Lagi Lagi」、「Soniye」、「Jhalak Dikhlaja」などが秀逸。

 「Aksar」は音楽以外あまり取り柄のない映画である。サントラCDは買いだが、わざわざ観る必要のある映画とは言えない。