Mangal Pandey: The Rising

4.5
Mangal Pandey: The Rising
「Mangal Pandey: The Rising」

 僕がインドに留学して初めて観た映画が「Lagaan」(2001年)だった。パハールガンジの映画館シーラーで観た。素晴らしい映画だった。映画館の盛り上がりもすごかった。封切りは6月15日で、僕が「Lagaan」を見たのが8月6日だったため、既に公開から2ヶ月が経っていたことになるが、それでも映画館の熱気と興奮は未だ冷めていない感じだった。今でも、インド映画の中でどの作品が一番好きかと聞かれたら、僕は迷わず「Lagaan」の名前を出すだろう。僕はあのとき、インドに住んでいればこのような面白い映画を毎週毎週見ることができるのだと胸を躍らせたが、すぐにそれは早とちりだったことが分かった。その後、なかなか「Lagaan」ほどよく出来た映画が公開されなかったからだ。特に、「Lagaan」で主演を務めたアーミル・カーンは、同年の8月10日に公開された「Dil Chahta Hai」(2001年)というヒット作に出演した後、ずっと沈黙を守り続けていた。そして、「Lagaan」、「Dil Chahta Hai」から4年の歳月が過ぎ去ってしまった・・・。ヒンディー語映画界のトップ男優が4年も映画に出ないことは今まで考えられなかったのではなかろうか。確かにアーミル・カーンはコカコーラのTVCMなどに出演して存在感を示していたが、しかし一般のインド人が本当に待ち望んでいたのは、銀幕に映るアーミル・カーンだった。4年・・・この4年は、個人的にインド留学の時期とピッタリ重なるため、僕にとっては人一倍感慨深い。あれから4年・・・遂に待ちに待ったアーミル・カーンの新作映画が公開されることになった。「Mangal Pandey : The Rising」である。8月15日のインド独立記念日に合わせ、本日12日からの公開である。奇しくも、「Dil Chahta Hai」公開からちょうど4年後ということになる。

 「Lagaan」は1893年の北インドの村が舞台だったが、「Mangal Pandey : The Rising」は、1850年代のベンガル地方が舞台となっている。高校の世界史の教科書で「セポイの反乱」として習う、あの大事件を題材とした映画だ。現在インドでは、この反乱を「第一次独立戦争」と位置づける見方が強い。独立記念日に合わせて公開されたことからも分かるように、今年最大の国威発揚ナショナリズム万歳パトリオット映画である。チケットの入手が困難であることは容易に想像できたため、PVRプリヤーの前売り券が発売される火曜日の午後2時に映画館へ行ってチケットを予め買っておいた。おかげで、この映画を公開初日に観ることができた。

 「Mangal Pandey」とは、1857年の反乱の口火を切ったと言われる実在のスィパーヒー(インド人傭兵)、マンガル・パーンデーイのことである。「セポイ」は「戦士」という意味のペルシア語「スィパーヒー」が英語で「Sepoy」と綴られ、それを日本人がローマ字読みしたためにできた言葉であり、「セポイ=スィパーヒー」だと思っていただきたい。監督はケータン・メヘター、音楽はARレヘマーン。キャストは、アーミル・カーン、トビー・ステファンス、ラーニー・ムカルジー、アミーシャー・パテール、コーラル・ビード、キラン・ケールなど。ヴァルシャー・ウスガーオンカル、ハビーブ・タンヴィールなどが特別出演、オーム・プリーがナレーション。

 バラックプルに駐屯する第34ベンガル歩兵団所属の勇敢な兵士、マンガル・パーンデーイ(アーミル・カーン)は、英国人の上官ウィリアム・ゴードン(トビー・ステファンス)と親友だった。ゴードンは英国人ながら貧しい出であったため、英国人社交界に溶け込めず、抑圧されたインド人たちに同情心を抱いていた。ゴードンは、サティー(寡婦殉死)の習慣により焼死させられそうになっていたインド人女性ジュワーラー(アミーシャー・パテール)を助け、家に匿い、そして彼女に恋するようになる。また、マンガルは、白人向けの娼館で働く娼婦ヒーラー(ラーニー・ムカルジー)と心を通わすようになる。

 時は1857年。1757年に本格的にインド支配に乗り出したイギリス東インド会社は、インド統治100周年を記念した式典を計画していた。だが、スィパーヒーの間では、新しく配備されたエンフィールド銃の火薬包に、ヒンドゥー教徒が神聖視する牛の脂と、イスラーム教徒が忌み嫌う豚の脂が含まれているという噂が広まり、不穏な空気が流れていた。英国人上官はスィパーヒーたちにエンフィールド銃を使うよう強要するが、スィパーヒーたちは宗教的禁忌を破ることを恐れて従おうとしなかった。しかし、ゴードンが銃弾に牛の脂も豚の脂も含まれていないと宣言したことにより、彼を親友と信じていたマンガルは率先してエンフィールド銃を使用する。

 ところが、マンガルたちスィパーヒーは、エンフィールド銃の火薬包の工場を発見してしまう。そこには牛と豚の死体が吊り下げられ、脂が混ぜ合わされていた。ゴードンに騙されたことを悟ったマンガルは彼と絶交し、東インド会社に対して敵意を燃やすようになる。

 ちょうどそのとき、反乱の機会を伺っていたスィパーヒーのもとに、マラーター王国のペーシュワー(宰相)、ナーナー・サーヒブ(シュリーラング・ゴードボーレー)の使節とその将軍ターティヤー・トーペー(ディープラージ・ラーナー)が訪れる。彼らは5月31日に一斉蜂起する計画を立てる。ところが、ラングーンに配備されていた大軍がカルカッタに移動することが分かり、計画は前倒しになる。

 1857年3月29日、マンガルは仲間たちを扇動しながら決起し、2人の英国人上官を射殺した。このときマンガルはゴードンとも決闘を繰り広げるが、マンガルはゴードンを殺さず、気絶させるだけに留める。ラングーン部隊が到着し、絶体絶命となったとき、マンガルは銃を自分の胸に付き付け、自殺を図った。だが、あいにく銃弾は反れ、マンガルは一命を取り留める。

 マンガルは軍法会議にかけられ、4月8日に絞首刑に処せられる。しかし、マンガルの反乱はインド全土に飛び火し、ジャーンスィーのラクシュミーバーイー(ヴァルシャー・ウスガーオンカル)、マラーター王国のナーナー・サーヒブとターティヤー・トーペー、デリーの皇帝バハードゥル・シャー・ザファル(ハビーブ・タンヴィール)なども反乱に加わることになる。この反乱は最終的に鎮圧されるが、マンガルの行動は後世のインド人に大いに影響を与え、1947年8月15日の独立につながるのだった。

 ヒンディー語映画界が総力を結集したと言っても過言ではない大作。実在の国民的英雄を主題にした点、また、インド独立運動を美化して愛国主義を発揚することが目的である点で、今年5月に公開された「Netaji Subas Chandra Bose: The Forgotten Hero」(2005年)と非常に似通っており、2作品を比較すると面白いだろう。僕の評価では、映画としての面白さは「Mangal Pandey」に軍配が上がる一方、歴史認識という点では「Bose」の方がより慎重であったと感じた。また、「Lagaan」との比較においては、総合的に「Lagaan」の方が一歩抜きん出ていると感じた。「Lagaan」が果たせなかったアカデミー賞外国語映画賞は、「Mangal Pandey」でも困難だろう。それでも、この作品が今年最も面白い映画であることには変わりないし、ブロックバスター・ヒットは確実である。

 前述の通り、マンガル・パーンデーイは実在の人物であるが、その生涯には不明な点が多い。マンガルは、現ウッタル・プラデーシュ州東部、バッリヤー地区のナーグワー村で生まれたとされている。第34ベンガル歩兵隊に所属するスィパーヒーだったマンガルは、1857年3月29日に英国人上官2人を射殺した上に自殺未遂をし、4月8日に絞首刑に処せられた。マンガルは1857年のインド大反乱で最初に殉死した英雄として名を残し、彼の名前は反英独立闘争のシンボルとなった。

 なぜマンガルが上官を射殺したかについては諸説がある。一説によると、マンガルはバーング(大麻)を摂取して酔っ払っており、誤って上官を射殺してしまっただけとも言われている。だが、確実なのは、当時のスィパーヒーの間に、東インド会社に対して数々の不満が蓄積されていたことだ。最も有名なのは、1856年にスィパーヒーたちに新配備されたエンフィールド銃の火薬包である。スィパーヒーの間で、新式銃の火薬包には牛と豚の脂が塗られているとの噂がどこからか広まった(映画中では不可触民の男が噂を広めていた)。しかも、火薬と銃弾を銃に込めるには、火薬包を口で噛み切らなければならなかった。牛はヒンドゥー教徒にとって神聖な動物、その脂を口にすることは許されなかった。一方、豚はイスラーム教徒にとって不浄な動物、こちらも、その脂を口にすることなど言語道断であった。英国人はインド人のこのような宗教的感情に配慮することを怠ったため、スィパーヒーたちの不満が爆発したと言われている。その他にもいくつかの理由が挙げられる。例えば、1856年にスィパーヒーが当時英国領になっていたビルマに配備されることになったこと。ヒンドゥー教徒の間には、「カーラー・パーニー(黒い水)」という禁忌があり、彼らは異国に行くとカーストを失い、村八分になるという迷信を信じていた。よってスィパーヒーたちはビルマへの配属を好まなかった。また、1848年にインド総督に就任したダルハウジーや、後任のキャニングが強引な併合政策を推し進めたこと。王に嫡子がいない国は自動的に東インド会社の領土となると規定した「失政政策」により、プネー、ナーグプル、ジャーンスィーなどの藩王国が次々に東インド会社領となり、遂に1856年には北インドの文化の中心地として栄華を誇っていたアワド王国が併合されてしまう。さらに、インド人の間に、英国人によるキリスト教の布教活動に対して危機感もあったし、「英国統治は1757年から100年後の1857年で終わる」という根拠のない予言も広まっていた。ザミーンダーリー制(大地主制)の導入による、農民たちの小作人への転落の進行、産業革命後の英国の安価な綿布の大量流入によるインドの伝統的手工業の衰退、鉄道の導入による交通革命など、インドの社会が急速に変化していたことも、インド人の不満や不安を蓄積していた。英国人があまりにスィパーヒーに頼りすぎたために、1857年には20万人のインド人兵士を4万人の英国人兵士が監督するという、いびつな構造が出来上がってしまっていたことも、反乱を容易にした要因であろう。

 映画中では、マンガルが決起した理由はもっと単純化されている。まず、やはりエンフィールド銃の銃弾の噂が大きな原因として描かれていた。歴史上、果たして本当にエンフィールド銃の銃弾に牛と豚の脂が含まれていたのかについては不明だが、映画ではそれが事実とされていた。それが発覚したことをきっかけに、マンガルは親友だった英国人上官のゴードンと決別し、反旗を翻す決意をする。また、英国人兵士のインド人に対する差別的待遇も、マンガルの怒りを募らせていたし、同胞に対して銃を向けなければならない苦しみも、マンガルの心をかき乱していた。だが、最も映画的だったのは、娼婦ヒーラーの一言である。マンガルはヒーラーたち娼婦を、「せいぜい白人に身体でも売ってろ」と侮辱するが、ヒーラーはそれに対し、「私たちは確かに白人に身体を売っているけど、あなたたちみたいに魂まで売ってないわ」と答える。その言葉を聞いて、マンガルの心には変化が訪れるのだった。

 19世紀のインドは、英国による支配との闘争が始まった時代であったと同時に、社会に根付いていた悪習を自覚し、それを改善するための葛藤が始まった時代でもあった。その端的な例がサティー(寡婦殉死)である。サティーとは、夫を亡くした女性が、夫の屍と共に生きたまま焼かれる慣習である。歴史上では、宗教・社会改革団体ブラフマ・サマージの事実上の創始者ラーム・モーハン・ローイが、1815年にサティー禁止運動を始め、イギリス東インド会社は1829年にサティーを禁止した。それでもサティーは根絶せず、つい最近でもサティーの事例が報告されている。映画中では、ゴードンがサティーの慣習に従って焼かれそうになっていたジュワーラーを助けるシーンがある。しかしながら、サティーを妨害された村人たちは尊厳を汚されたと怒り、ゴードンに嫌がらせをするようになる。結局、ラストではマンガルがあまりにクローズアップされるあまり、ゴードンとジュワーラーの恋愛の行方が最後まで語られずに終わってしまったのは残念な点である。

 「Mangal Pandey」では、メーラー(市場祭)における女奴隷のオークションのシーンもあった。ゴードンと一緒にいた英国人女性エミリーは、「奴隷制はとっくに廃止されたのに、どうして会社はこのインドで奴隷制が横行するのを許しているの?」と聞く。ゴードンは、「英国人自身が奴隷を利用しているから、廃止にはできない」と事情を説明する。このとき売られていた女性は白人専門の娼館に買い取られ、ヒーラーという名前を与えられて娼婦となる。ヒーラーはあるとき、英国人将校に無理矢理連れさらわれそうになるが、それをマンガルが助ける。これをきっかけにマンガルとヒーラーは愛し合うようになり、マンガル処刑前に二人は結婚の契りを交わす。

 映画中、インド総督が「我が会社は未開のインドに文明をもたらしている」と述べて、植民地支配を正当化する発言をしていた。その一方で、生涯の大部分をインドで過ごし、英国社会よりもインド社会に同情心を抱く英国人将校、ウィリアム・ゴードンがいた。サティーなどのインドの悪習を放っておかなかったのもゴードンであった。そしてもちろん、英国人に人間性を否定され、奴隷のようにこき使われる哀れなインド人たちの姿があった。さらに、英国人に抑圧されるインド人が、不可触民をさらに抑圧するというシーンも、わずかながらあった。皮肉なことに、不可触民が一番自由に人生を過ごしているような暗示もあった一方で、マンガルが「英国の支配下では、俺たちは皆、不可触民だ」と呟くシーンもあった。これら多面的な描写により、インドにおける英国の植民地支配の複雑さの一端がよく表現されていたと思う。

 東インド会社の将校による阿片の密売の話も映画中に出てきた。東インド会社は阿片の専売権を有し、ケシをインドで栽培して阿片を中国に輸出していたが、どうやら会社の将校や官僚たちが阿片を密売して金を儲けることも行われていたようだ。映画中ではパールスィーの商人が、会社の将校と結託して阿片密貿易を行っていた。英国政府の徴収官の監査によりその密貿易が発覚するが、商人は徴収官に対して3,000ポンド(当時は大金だったようだ)の賄賂を提案し、「インドはリッチな国ですぜ、旦那ぁ~」と薄笑いを浮かべるシーンがあった。阿片のプロットから、インドは決して貧しい国ではなく、富が搾取されてごく一部の者の手に渡っているだけであるとの指摘を見た。

 ところで、この映画では1857年の大反乱が「第一次インド独立戦争」と規定されており、その口火を切ったマンガル・パーンデーイの精神が後世まで受け継がれて、1947年のインド独立が達成されたという主旨のエンディングとなっていた。最後にはマハートマー・ガーンディーやジャワーハルラール・ネルーの実際の映像も流れていた。高校の世界史で習った「セポイの反乱」というのは、英国側から見た一面的な名称で、現在では「インド大反乱」と呼ばれることが多い。それからさらに一歩進んで、この反乱が1947年のインド独立までの90年間に渡る全インド的独立闘争の開始点だったという観点から、「第一次インド独立戦争」と呼ぶ考え方もある。1857年の大反乱を「第一次インド独立戦争」と最初に呼んだのは、ヒンドゥー教至上主義の生みの親、ヴィール・サーヴァルカルである。サーヴァルカルは自著「1857: The First War of Independence」(1908年)の中で1857年の大反乱を最初の独立運動と呼び、後世の独立運動家たちに影響を与えた。だが、本当に1857年の反乱が「独立戦争」と呼べる性格のものだったのかについては議論の余地がある。もしそれが「独立戦争」であるなら、反乱は計画的かつ組織だったものである必要があると同時に、全インド的視野の下、全ての階級の人々がそれに参加する必要がある。しかし、それを示す証拠は乏しい。マンガル・パーンデーイはたった1人で偶発的に英国人上官に反抗しただけである可能性が強いし、インド各地のスィパーヒー同士の横の連携がどの程度までなされていたかも疑問である。また、反乱に加わった皇帝や藩王たちも、英国人をインド亜大陸から追い出すという大きな野望を持っていたとは考えにくく、ただ自分の領土を回復するためだけに反乱に加わった可能性が高い。反乱は1859年に完全に鎮圧されるが、最後まで頑強に抵抗していたのは農民たちである。つまり、最終的には反乱は農民一揆と変わらなくなってしまっていた。これを果たして一口に「独立戦争」と呼ぶことができるだろうか?だが、「Mangal Pandey」では、スィパーヒーたちと藩王たちが連携を取っていた様子が事実として描かれ、また反乱には不可触民も加わっていた。ちなみに、当時のスィパーヒーは、ヒンドゥー教徒ではブラーフマンやラージプートがほとんどで、マンガルもブラーフマンである。

 実はインド大反乱をテーマとしたこの「The Rising」は3部作であり、「ジャーンスィーのラーニー」として知られるラクシュミーバーイーと、ムガル朝最後の皇帝バハードゥル・シャー・ザファルを主人公にした映画も今後作られる予定らしい。「Mangal Pandey」では、ラクシュミーバーイーは女優ヴァルシャー・ウスガーオンカルが演じ、バハードゥル・シャー・ザファルは、演劇監督・俳優のハビーブ・タンヴィールが演じていた。このキャストのままそれらの映画が撮影されるのだろうか?

 4年振りのスクリーン復活となったアーミル・カーンは堂々たる演技であった。長髪に髭という風貌(どちらも本物である)が意外と似合っていることもあるのだが、ゴードンと泥だらけになって相撲を取ったり、大砲の前までつかつかと歩いて行って「ファイヤー!」と叫んだり、たった一人で大軍に向かって銃を発砲したりと、大活躍であった。乗馬もなかなかうまい。特に絞首刑前、神妙な面持ちをして向こう側からのっしのっしと歩いて来るシーンはかっこよかった。映画中、マンガルは「ハッラー・ボール!」とよく叫ぶ。処刑される前の最後の言葉もこれだった。「ハッラー」とは、「攻撃」という意味の「ハムラー」が訛った形。「ボール」とは「言え」という意味。「ハッラー・ボール!」で「攻撃の声を上げよ!」みたいな意味になる。これは、インド大反乱時のスィパーヒーたちが実際に使っていた合言葉である。マンガルが公開処刑になった後、一瞬の沈黙を置いて、群集が「ハッラー!」と声を上げて蜂起するシーンは感動的だ。また、ホーリーを祝うミュージカルシーン「Holi Re」では、アーミル・カーンが歌声を披露しているので注目である。

 共演のトビー・ステファンスは、「007/ダイ・アナザー・デイ」(2002年)に悪役として出演していた英国人俳優である。英国人としての立場と、マンガルとの友情の間の葛藤に揺れる苦悩がよく表現されていた。また、マンガルの軍法会議においてゴードンが大声を上げてマンガルを弁護するシーンは迫力がある。英国植民地時代の映画を撮ろうと思うと、どうしてもいい英国人俳優を集めなければならないが、その点で「Lagaan」も「Mangal Pandey: The Rising」も妥協がなかった。また、当時インドを支配した英国人はヒンディー語などの現地語を話していたのだが、それを再現するために英国人俳優は一生懸命ヒンディー語を勉強したようだ。英国人キャストの多くがヒンディー語を話していた。はっきり言って非常に聴き取りづらいヒンディー語なのだが、その中でも最も流暢にヒンディー語を話していたのがトビー・ステファンスであった。

 マンガルとゴードンの友情は、アフガニスタンでの戦いで重傷を負ったゴードンをマンガルが身を挺して守ったことから始まる。片や英国人将校、片やインド人傭兵という立場の違いはあったが、二人は大の仲良しで、一緒に相撲を取ったり、傲慢な英国人将校に二人で悪戯したりしていた。だが、エンフィールド銃の火薬包の問題をきっかけに二人は絶交し、マンガルが蜂起したときには二人は剣を抜いて決闘をすることになる。決闘はマンガルの勝ちだったが、彼は敢えてゴードンを殺さず、殴って気絶だけさせるだけに留める。その後マンガルは自殺未遂をするも一命を取りとめ、病院に搬送される。病床のマンガルをゴードンは見舞い、マンガルに許しを乞う。だが、マンガルは「あなたはあなたのカルム(行為)をしただけ、オレはオレのカルムをしただけ。謝る必要はない」と答える。これは「バガヴァドギーター」でクリシュナがアルジュンに説いたこととリンクしており、インドの文学や映画の中でもよくこの思想が登場する。

 去年に引き続き今年も大活躍しているラーニー・ムカルジーだが、残念ながらこの作品の中の彼女はあまり光っていなかった。娼婦ヒーラーの役だが、一瞬見せる笑顔に妖艶さがなく、彼女にあまり娼婦役は似合わないのではないかと感じた。「Devdas」(2002年)で娼婦チャンドラムキーを演じたマードゥリー・ディークシトとは比べるべくもない。ミスキャストと言っていいだろう。一方、サティーにより焼かれそうになっていた美しいインド人女性、ジュワーラーは、アミーシャー・パテールが演じた。当初はアイシュワリヤー・ラーイが演じる予定だったらしいのだが、サルマーン・カーンとのいざこざなどいろいろ問題があったために降板させられたと聞く。アミーシャー・パテールの活躍の場は多くなかったが、献身的にゴードンに奉仕する姿が印象的であった。

 ところで、白人マダムの家で乳母として働いているインド人女性が出てくるシーンが序盤と終盤であった。そのインド人女性にも赤ちゃんがいるのだが、白人マダムの赤ちゃんに優先的に授乳しているため、自分の赤ちゃんに飲ませるおっぱいがなくなってしまっていた。母親の乳の搾取に、英国によるインド全体の搾取を重ね合わせたかったのだろうが、いまいち説得力に欠けた。結局この乳母が、スィパーヒーが反乱を企てていることを英国人に漏らしてしまうという伏線になっていた。

 音楽は、「Lagaan」と同じくARレヘマーン。テーマ曲の「Mangal Mangal」は、魂を揺さぶるような勇ましい曲で、映画中何度も挿入される。「町全体が目覚めた、家全体が目覚めた、全ての村が今目覚めた、庭が目覚めたら木々も目覚めた、木々の陰も目覚めた」という歌詞で、抑圧されて来たインド人全体の怒りが爆発する様子が歌になっている。マンガルが絞首刑になるシーンでもこの曲が流れ、「身体を処刑することはできるが、夢を処刑することができようか」という歌詞が流れた瞬間にマンガルが処刑される。だが、この曲以外の曲には、はっきり言ってあまりいいものがなかったし、削除してもストーリーに影響ないものばかりだった。もう1曲だけ取り上げるとすれば、メーラーのシーンで流れる「Takey Takey」だ。近代ヒンディー語と近代ヒンディー文学の始祖とされるバーラテーンドゥ・ハリシュチャンドラの戯曲「Andher Nagri(暗愚の町)」(1881年)の第2幕を思い出した。同戯曲の第2幕では、全ての物が1セール(約1kg)につき1タカー(当時の最小の貨幣単位)で売られる退廃的市場の様子が描写されている。「Takey Takey」でも、全ての物が1タカーで売られる市場のことが歌われていた。物に適切な価値がない社会をして、英国の悪政を糾弾していると考えられる。

 これは驚きの豆知識だが、なんと英国王室のチャールズ皇太子が「Mangal Pandey」の撮影に参加したらしい。チャールズ皇太子は、2003年10月28日から9日間、インドを訪問したが、そのときに「Mangal Pandey」の撮影現場を表敬訪問したようだ。彼の仕事は・・・カチンコ・ボーイらしい。数シーンだけのようだが。どのシーンのカチンコを担当したのか、気になるところである。

 ベンガル地方が舞台になっていただけあり、背景として登場する寺院などの建築物には、いわゆるバーングラー型屋根のものが多かった。バーングラー型とは、カーブを描いた切妻屋根と表現すればいいのだろうか、ベンガル地方に行くとよく見かけるユニークな形の屋根である。

 言語はヒンディー語と英語のミックスである。英国人キャストは、英国人同士では英語で会話をするが、インド人が相手のときは片言のヒンディー語を話す。英語の会話シーンの多くでは、英語が分からない一般のインド人観客に配慮して、ヒンディー語のナレーションが入る。「Lagaan」でも同じ手法が使われていた。ちなみに、インドで公開されたのは、ヒンディー語版の「Mangal Pandey: The Rising」だが、全編英語のバージョン「The Rising Ballad of Mangal Pandey」も同時に作られたようだ。

 「Lagaan」は4時間近くある大長編映画だったが、「Mangal Pandey : The Rising」は2時間半と、インド映画的にちょうどいい長さに収められていた。「Lagaan」は日本人に馴染みのないクリケットをテーマとしていたので、日本での一般公開は難しかったが、果たしてこの「Mangal Pandey」はどうであろうか?やはり、インド人のナショナリズムに訴えかける映画であるし、当時のインドの状況やインド大反乱のことを知らないと何が何だか分からないから、困難かもしれない。

 とにもかくにも、2005年のヒンディー語映画は、この「Mangal Pandey: The Rising」を抜きにして語れないだろう。「Lagaan」は完全にフィクションの時代劇映画だったが、この作品は一応史実に基づいた時代劇映画なので、ちょっと歴史を勉強して観ないと難しい部分もあるかもしれない。ただし、これはあくまで映画であって、歴史ではないので、史実に完全に基づいていないからといってこの作品の価値が減じるということはないし、歴史を知らないからと言って楽しめないことはないだろう。そういう意味で、「Mangal Pandey: The Rising」は、歴史を脱却できずに歴史の教科書みたいな映画になってしまった「Bose」よりも何倍も面白い映画であり、インドとインド映画を愛する全ての人に勧めたい映画である。合言葉はハッラー・ボール!