Netaji Subhas Chandra Bose: The Forgotten Hero

3.0

 2005年4月末の小泉首相訪印により、日印関係は大きな転機を迎えそうだが、ちょうどそれとほぼ時を同じくして、日印関係に関係のある一本の映画がインドで公開されようとしている。インド独立運動の英雄、ネータージー・スバーシュ・チャンドラ・ボースの半生を描いた映画「Netaji Subhas Chandra Bose : The Forgotten Hero」である。チャンドラ・ボースは世界を股にかけてインド独立のために英国に徹底抗戦したベンガル人で、太平洋戦争中の日本にも来ており、日本軍と協力してインパール作戦に参加した。第2次世界大戦終了直後の飛行機事故で死亡したとされているが、インド人の中には彼が生きていると信じている人も少なくないようで、その存在は数多くのフリーダム・ファイターの中でも異彩を放っている。もし彼が独立後にインドに戻っていたら、ジャワーハルラール・ネルーに匹敵するほどのカリスマ的政治家になっていたとも言われている。マハートマー・ガーンディーと袂を分かった経緯もあるため、国民会議派にとってチャンドラ・ボースの扱いは非常に微妙な問題である。よって、東京杉並区の蓮光寺に眠ると言われるボースの遺骨は、未だにインドに返還されていない。

 僕は去年からこの映画の公開をかなり前から待ち望んでいたのだが、やっと公開日が決定した。2005年5月13日である。だが、その前に試写会でこの映画を観る幸運に恵まれた。映画のサントラをプラネットMで購入すると、5月12日の午後7時からPVRプリヤーで行われる試写会の入場券がもれなくもらえたのだ。実は映画のサントラCDは既に持っていたのだが、試写会のチケットを手に入れるためにもう1枚購入した。CDの値段は150ルピーであり、それで試写会のチケットが2枚もらえるなら安いものである。5月11日にボース所縁の地コルカタで第1回試写会が行われ、その次の日に、ボースがインド国民軍(INA)と共に目指したデリーで第2回試写会が行われるという粋な計らいだった。それ以前にジャイプルで試写会が行われたという情報もある。

 監督は、インドを代表する映画監督であるシャーム・ベーネーガル監督。音楽監督は、これまたインドを代表する映画音楽家であるARレヘマーン。キャストは、サチン・ケーデーカル、ラージェーシュワリー・サチデーヴ、ラジト・カプール、ディヴィヤー・ダッター、クルブーシャン・カルバンダー、ラージパール・ヤーダヴなど。3時間27分に及ぶ大長編である。試写会会場には、ベーネーガル監督や出演俳優などが来ていた。また、観客には約50人のINAの生き残りが招待されていた。映画終了後、ベーネーガル監督と少しだけ話すことができて感激した。

 英国政府から危険人物とされ、カルカッタの自宅に軟禁されていたボース(サチン・ケーデーカル)は、1941年1月15日、密かに脱出してペシャーワルへ向かった。ペシャーワルに到着したボースは、パターン族のバガトラーム・タルワール(ラージパール・ヤーダヴ)と共にカーブルへ向かい、インドから移住したウッタムチャンド(クルブーシャン・カルバンダー)の家に匿われる。ボースはロシア、ドイツ、イタリアとコンタクトを取るが、なかなかうまくいかなかった。だが、イタリア大使がイタリア人パスポートを用意してくれたため、モスクワ経由で同年3月28日にベルリンへ到達することができた。

 ボースは、インド人戦争捕虜を編成してソ連、アフガニスタン経由で英領インドに攻め込む計画を立てており、ナチス政府の外相やヒトラー総裁と会談したが、ドイツのソ連侵攻によりその計画は破綻してしまう。一方、同年12月に日本が米国との戦争を開始し、ボースは日本行きを考え始める。また、ボースはこのとき、秘書のエミリーと結婚しており、子供もいた。だが、ボースは愛するエミリーと子供をドイツに残して日本へ行くことを決める。

 1943年2月8日、ボースはナチスの潜水艦Uボートに乗ってドイツを後にした。喜望峰を巡ってマダガスカル島沖に到達したボースは、同年4月28日、日本軍の潜水艦、伊26号にボートで乗り移った。こうしてボースは日本へ到着し、東条英機首相との会談も実現する。

 1943年7月2日、ボースはシンガポールにてインド国民軍(INA)の司令官に就任し、スローガンを「チャロー・ディッリー(デリーへ進撃せん)」に定める。ボースは女性も戦争で戦うべきだと考え、女性のみで編成されたジャーンスィー部隊を編成し、ラクシュミー(ラージェーシュワリー・サチデーヴ)をジャーンスィー部隊の隊長に任命する。

 1944年3月、日本軍はインパール作戦を開始し、ボース率いるINAも同盟軍として作戦に参加する。しかし物資の欠乏と雨季の到来により作戦は失敗に終わり、INAも退却を余儀なくされた。INAはラングーンまで戻り、ビルマに押し寄せる英印軍の攻撃の防衛にあたった。

 1945年8月、広島と長崎に相次いで原子爆弾が落とされ、日本はポツダム宣言を受諾して降伏した。ボースはINAを解散し、側近と共にラングーンから飛行機で飛び立つ。だが、台北にて飛行機事故により死亡したと報道される。

 第2次世界大戦、INAの捕虜たちはデリーに連行され、裁判にかけられるが、それがインド人の愛国主義を呼び覚まし、インド独立の実現に大きく寄与したのだった。

 ボースの最後の5年間を忠実に追った伝記映画。ボースに何の思い入れもない人には退屈な3時間半だろうが、ボースの人生とその意義を知る者には至福の3時間半である。よって、チャンドラ・ボースや20世紀前半のインドの歴史に興味のある人は必見の映画だが、インドの歴史に何の興味のない人は観ない方が賢明であろう。

 長らくインドでタブーとされてきたチャンドラ・ボースの映画であるし、インド最高の映画監督の一人に数えられるシャーム・ベネガル監督の最新作であることもあり、非常に期待していた。だが、残念ながら映画としての面白味はあまりない。ボースの人生を年代を追って再現しただけであり、登場人物やストーリーに深みがなかった。また、ボースの人生そのもののスケールが大きすぎるため、映画にすると何だか逆にB級スパイ映画みたいになってしまっていた。ドイツから日本まで行くのに潜水艦を使い、しかもマダガスカル島沖で潜水艦から潜水艦へボートで乗り移る、というストーリーをもしフィクション映画で見たら、「そんな馬鹿な」と酷評したくなってしまうだろう。だが、ボースは本当にそんな無謀なことをしたのだ。

 3時間半の大長編だったにも関わらず、まだまだ時間が足らなかった印象を受けた。各シーンがかなり急ぎ足で、目まぐるしく展開していった。せっかくARレヘマーンが魂を込めて作曲した挿入歌も、フルで使われていなくて残念だった。日本人が登場するシーンはかなりすっ飛ばされていた。潜水艦でインドネシアに上陸した後、いきなり東条英機との会談になっており、それが終わると一気にシンガポールでのINA司令官就任シーンだった。日本ロケも行われていない。

 ちょくちょくコメディアンっぽいキャラが登場したのもマイナス要因だったと思う。インド映画にコメディアンが必ず登場するのは常識だが、この映画には必要なかった。ラージパール・ヤーダヴ演じるバガトラーム・タルワールや、酔っ払ってINAから追放されそうになった兵士など、蛇足的お笑いシーンがあり白けた。インパール作戦などの戦闘シーンも未熟だったように思える。ただ銃をぶっ放して手榴弾を投げてお終い、という感じだった。ジャングルの戦闘を迫力あるシーンに仕上げるのは難しいと感じた。また、あまり残酷なシーンはなかった。

 ボースを演じたサチン・ケーデーカルの顔や演技にも疑問が残った。サチンの顔や体格はボースと非常によく似ているが、目がいけない。サチンの目は、少女漫画のようにキラキラ輝いていて、ボースにしてはかわいすぎるのだ。本物のボースがどのような仕草をする人間だったのか知らないが、サチンの行動や表情は何だか女性的で、僕のイメージする勇猛果敢なボースと違って違和感があった。「私に君たちの血をくれ、そうすれば、私は君達に自由を与えよう!」という有名な演説も、良くも悪くもないレベルだったように感じた。ボースの人物像もあまり鮮明に浮かび上がって来なかった。

 しかしながら、この映画を一通り見れば、ボースがどのようにカルカッタからベルリンまで、ドイツから日本まで移動したのかが分かる。まるで歴史の教科書の副教材のような映画である。当時の英印政府にとってボースは、突然ベルリンに現れたり、はたまた日本に現れたりと、さぞや神出鬼没の不気味な存在だったことだろう。また、ボースとマハートマー・ガーンディーとの複雑な師弟関係もさりげなく説明されていた。ボースは、ガーンディーとインド独立という目的を共有しながらも、その手段の違いから袂を分かったのだが、それでも彼はガーンディーを慕っていた。その関係が、冒頭のボースとガーンディーの会話シーンや、途中の所々のシーンでうまく表現されていた。

 ヒトラーや東条英機との会談も映画の見所であろう。どちらも世界史の中であまり好意的な評価を受けていない人物である。映画中、ヒトラーはやたら神経質で落ち着きがなく、ボースとインド独立に対して消極的な見解の持ち主として描写されていた一方で、東条英機は礼儀正しく威風堂々としており、ボースに協力的な人物として描写されていた。東条英機を誰が演じていたのかは情報がない。日本人ではなかったかもしれない。この映画中に出てきた日本語は、「ボースさん」などの「~さん」と、「ようこそ」ぐらいか。

 「中村屋のボース」として有名な、ラース・ビハーリー・ボースも一瞬だけだが数回スクリーンに登場した。だが、作業服みたいな変な服を着ており、痩せこけて眼鏡をかけた変なおっさんだった。最近、中島岳志著「中村屋のボース」(白水社)という本が出版されたが、その表紙に載っているボースの写真とはだいぶ違った。

 さて、問題なのはこの映画における日本軍の描写のされ方であるが、はっきり言ってあまり好意的ではなかった。特にインパール作戦中の日本軍の身勝手さと非協力的な態度が批判的に描かれていた。まるでインパール作戦が失敗したのは、全て日本軍の責任であるかのようだった(実際、そうだったのかもしれないが)。だが、実際の映像が使われた真珠湾への奇襲シーンは、ボースにとって日本行き決定の要因になった出来事でもあるので、賞賛を含んだニュアンスで語られていた。また、広島と長崎に原爆が落とされたことを聞いたボースは、何日間も部屋に閉じこもって犠牲者に哀悼を捧げていた。

 やはりボースは多くの伝説と謎に包まれたカリスマ的指導者であるため、この映画もトラブルに巻き込まれている。ボース自身が設立した政党フォワード・ブロックは、この映画が、まだ結論が出ていない「ボースの結婚」と「ボースの死」を事実として描いていることに批判の声を上げた。ボースはオーストリア人の秘書エミリーとの間に一子をもうけるが、二人が正式に結婚したかどうかは分からないようだ。映画中では、エミリーの願いにより、ドイツ人のインド学教授に無理矢理サンスクリット語のマントラを読ませて結婚式を挙げるシーンがあった。また、それよりももっと大きな問題は、ボースが1945年8月17日に台北で飛行機事故により死亡したかどうかである。映画中では、死亡のシーンは描写されず、エミリーがラジオでボースの死を聞く、という表現に留まっていた。別にボースが死んだことを既成事実化するような意図は見受けられず、悪くない終わり方だったと思うのだが・・・。

 この映画の重要性は、インド独立の実現に結びついた数ある要因の中で、今まで軽視または無視されがちだったチャンドラ・ボースの功績を今一度再評価するきっかけを与えることにある。とかくマハートマー・ガーンディーの非暴力・非協力の運動がインド独立を実現したと単純に考えられることが多いのだが、この映画を観ると、ガーンディー一人だけではインド独立は達成できなかったのでは、という気分にさせられる。武力を使い、敢然と英国に立ち向かったボースの存在が、インド独立に寄与しなかったはずはない。また、第2次世界大戦後にデリーで行われたINA捕虜の裁判が、国民のインド独立の気運を最高潮に盛り上げたことは、既に歴史家の認めるところとなっている。それに加え、この映画は我々日本人に、かつて日本とインドが手を取り合って戦ったことがあるという歴史的事実を思い出させてくれる。残念ながらインパール作戦は失敗してしまったのだが、もし成功していたら日本軍とINAの間で内紛が生じて、日印関係の負の要素になっていた可能性もあるから、現在から見ればこれでよかったのかもしれない。今、日本とインドにとって大切なのは、「我々はかつて友人だった」と自覚することである。そうすれば、未来の関係を築く際に役に立つだろう。

 最後のスタッフロールと同時に、ボースに関する本物の映像や写真が流される。これらはかなり貴重な資料だと思われる。一番最後は、サングラスをかけた本物のボースのドアップだった。

 ロケはラダック、ドイツ、ビルマの3ヶ所で行われたとのこと。アフガニスタンのシーンがラダックで撮影された他、ドイツのシーンはもちろんドイツで、そしてラングーンのシーンがビルマで撮影された。特にラダックのシーンと、カーブルのシーンが映像的に素晴らしかった。ラングーンではボースはムガル朝最後の皇帝、バハードゥル・シャー・ザファルの墓で祈りを捧げていたが、今でも残っているのだろうか。急に行ってみたくなった。ザファルは、1857年のインド大反乱の後、ラングーンに流刑となってそのままそこで没した。デリーを目指して進軍するINAと、ザファルの望郷の気持ちがうまくシンクロしていた。

 言語は、半分ヒンディー語、半分英語である。よって、ヒングリッシュ映画に分類できる。試写会で上映されたのは英語字幕付きだったが、一般上映される映画にも字幕が付いているのかは分からない。ただ、多民族国家インドを表現するため、いろんな発音、いろんな方言のヒンディー語が随所で使用されていた。例えばパターン族の話すヒンディー語、スィク教徒の話すヒンディー語、グルカー(ネパール人)の話すヒンディー語、それぞれ異なっていた。

 愛国主義映画の決定版、「Netaji Subhas Chandra Bose : The Forgotten Hero」は、インドの近代史に興味のある人は必ず観るべき映画である。映画自体の面白味はあまりないし、チャンドラ・ボースの評価は日本でも微妙なので、日本で公開されることがあるかどうかは何とも言えない。だが、チャンドラ・ボースの映画が作られたということは、日印関係の歴史の中で考慮すべき出来事だと思う。映画を見終わったら、みんなの合言葉は「ジャイ・ヒンド!(インドに勝利を)」だ。