Swades

3.5

 今日はPVRプリヤーで、2004年12月17日公開のヒンディー語映画「Swades」を鑑賞した。監督は、2001年の大ヒット作で、アカデミー賞外国語映画賞にもノミネートされた名作「Lagaan」のアーシュトーシュ・ゴーワーリカル監督、音楽は同じく「Lagaan」で音楽監督を務めたARレヘマーン、そして主演はインドのスーパースター、シャールク・カーン。期待しない方が無理と言う顔ぶれである。

 「Swades」とは「我らの国」という意味。シャールク・カーン以外のキャストは、ガーヤトリー・ジョーシー(新人)、キショーリー・バッラル、マスター・スミト・セート、ラージェーシュ・ヴィヴェーク、ダヤーシャンカル・パーンデーイなど。

 米国のNASAで気象衛星の開発に携わっていたエリートNRI(在外インド人)のモーハン・バールガヴァ(シャールク・カーン)は、急に幼少時代に母親代わりに自分を育ててくれたカーヴェーリー・アンマー(キショーリー・バッラル)を思い出し、休暇をもらってインドに帰る。カーヴェーリー・アンマーは老人ホームを出て、チャランプルという僻地の村で生活していた。二人は感動の再開を果たす。

 カーヴェーリー・アンマーは、モーハンの幼馴染みでもあったギーター(ガーヤトリー・ジョーシー)とその弟チックー(マスター・スミト・セート)と共に住んでいた。ギーターの父母は村で学校を開いていたが、相次いで急死し、ギーターが後を継いで学校を切り盛りしていた。彼女は、親交のあったカーヴェーリー・アンマーに家の世話をするために来てもらっていたのだった。

 モーハンとチックーはすぐに親友となるが、ギーターはモーハンに心を開かなかった。なぜなら彼女は、モーハンがカーヴェーリー・アンマーを米国に呼ぶためにインドに来ていたことを勘付いていたからだった。ギーターはモーハンに、「カーヴェーリー・アンマーを連れて行かないで」と頼むが、モーハンは承知しなかった。

 チャランプルに滞在する内に、モーハンは村の数々の問題を目の当たりにする。頻繁に起こる停電、カーストによる差別、教育に対する意識の低さ、政府を批判するだけで自分では何もしようとしない人々・・・。モーハンは、郵便局員のニヴァーラン(ラージェーシュ・ヴィヴェーク)、米国行きを夢見る青年メーラーラーム(ダヤーシャンカル・パーンデーイ)らと共に、ギーターの学校にさらに多くの子供たちを入学させるため奔走すると同時に、水力発電により村に自力の発電装置を備え付けることに成功する。この過程でギーターはモーハンに心を開き、二人はいつの間にか相思相愛となっていた。

 ところが、モーハンの休暇は既に終わっており、米国に帰らなければならなかった。モーハンはカーヴェーリー・アンマー、チックー、ギーターや村人らに見送られ村を去っていく。NASAに戻ったモーハンは気象衛星の打上げを成功させるが、彼の脳裏からは村のことが常にちらついていた。遂にモーハンは辞職届けを出し、皆の待つ村へと帰って行った。

 「Lagaan」では、インドを植民地支配していた英国に対する村人たちの蜂起と、その過程での村の団結が描かれていた。「Swades」の大まかな筋もそれと大して変わらず、米国から来たインド人らしからぬインド人が、村の数々の問題を知り、解決を模索する過程で村人の団結が行われていき、そして主人公自身も村に戻って行くというストーリーだった。だが、正直な感想、期待外れだったと言っていい。本当に「Lagaan」と同じ監督なのかと我が目を疑うくらい、ストーリー進行は冗漫かつ退屈で、ミュージカルシーンにも華がなかった。とは言え、この映画で提起されていた、インドの農村の問題は正鵠を射ており、観る価値はある映画である。外国人の中で、インドの村は理想化して語られることが多いが、インドの汚点が最も多く潜在しているのは、やっぱり封建的社会が根強く残っている村なのである。

 まず最初にモーハンが直面する問題は電気である。村に電線は来ているのだが、頻繁に停電する。政治家は「すぐに改善する」と言うが、いつまで経っても改善される兆しもない。次に明らかになるのは教育問題である。村では子供たちは大切な労働力なので、親は子供を学校に入れたがらない。ブラーフマンたちはブラーフマン以外の子供と共に自分の子供を学ばせることを拒否する一方で、不可触民もどうせ差別されるということで子供を学校に送ろうとしなかった。ギーターの学校は、そういう村の風潮に押し流される形で、存続の危機を迎えていた。これらの問題の解決に尽力する中でモーハンは、村人たちが誇りとする「サンスクリティ(文化)」と「パランパラー(伝統)」こそが、諸悪の根源であるという結論に達する。村はバラバラで、お互いにお互いを責め合っており、団結するということを知らなかった。

 村人の団結が象徴的に表されるシーンは3つある。ひとつめは、野外映画上映会のシーンだ。村では、時々やって来る巡回映画が大きな娯楽となっている。広場の真ん中にでっかいスクリーンが立てられ、そこに映像が流されるのだが、非常に面白い形となっていた。観客はスクリーンの両側、つまり表側と裏側に座っており、カーストの高い者が正面から映画を観て、カーストの低い者が裏から左右逆に映った映像を観ていた。上映されていた映画はダルメーンドラとズィーナト・アマン主演の「Yaadon Ki Baaraat」(1973年)。しかし例によって上映中に停電となってしまい、村人たちからは怒号が上がる。そのときモーハンは、空を見上げるよう促す。「ほら、鋤が見えるよ」モーハンは、星と星をつないで、鋤の形を作ってみせた。モーハンは言う。「星は単独ではただの瞬く星でしかないが、星々が集まれば何かになれる。」ここで「Yeh Tara Woh Tara」のミュージカルとなり、スクリーンは取り払われて、両側に座っていた子供たちが一緒になって踊り出す。

 ダシャハラーのシーンも印象的である。モーハンらの努力により、村の多くの子供たちがギーターの学校に入学することになり、ダシャヘラーの吉日が入学式となった。村人たちの出席のもと、入学式が行われ、不可触民の子供たちも無事に入学することができる。その夜、ラームリーラーが行われる。ギーターがスィーターを演じ、ニヴァーランがラーヴァンを演じ、舞踊劇を踊る。このときの音楽が「Pal Pal Hai Bhaari」である。この音楽は僕のお気に入りである。

 もうひとつのシーンは、村に水力発電装置を作るシーンである。モーハンは村人100人を集めて、湧き水の水を利用した水力発電装置を設置する。水から電気が生み出されると、村人たちは一緒になって喜ぶ。これらの出来事を通し、バラバラだった村は一体となっていく。

 村人が団結していく過程で、モーハンの心も次第に変わっていく。最初、モーハンはミネラルウォーターを大量に持参して村まで来ていた。現地の水を意地でも飲まないようにしていた。しかし、村の問題に直面し、深く考え込んでしまったモーハンは、25パイサーの水を売りに来た少年から水を買い、現地の水を遂に身体の中に入れる。ギーターに「No Returning Indian」と揶揄されたモーハンが、真の意味で村に帰った瞬間だった。

 シャールク・カーンの演技はさすがである。今回なぜかヌードシーンが多く、パンツ一丁になってクシュティーをするシーンまであった。この映画がデビュー作となるガーヤトリー・ジョーシーは、知的な顔立ちをしており、役にピッタリだと思った。しかしものすごい美人というわけではないので、演技派として成長していくといいだろう。郵便局員のニヴァーランを演じたラージェーシュ・ヴィヴェークと、米国でダーバー(安食堂)を開店することを夢見るメーラーラームを演じたダヤーシャンカル・パーンデーイは、「Lagaan」にも出演していた。

 ARレヘマーンの音楽は今回も素晴らしく、「Swades」のサントラCDは買う価値があると思う。だが、音楽の使われ方があまりにひどかったので落胆してしまった。特に冒頭の「Yuhi Chala Chal」は、せっかくいい音楽なのに、かなり低予算でやっつけ仕事なミュージカルとなってしまっていて残念だった。

 舞台となったチャランプル村がどこでロケされたのかは情報がないが、典型的なインドの農村であり、ちょうど田舎を旅してきた僕の心を打った。米国NASAでのロケはインド映画初とのこと。

 「Lagaan」と同じ感動を求めて見ると失望する映画であるが、インドの農村がどんな問題を抱えているのか垣間見てみたい人にはオススメの映画である。