Rakht

3.5
Rakht
「Rakht」

 今日はPVRグルガーオンで、2004年9月3日公開の最新ヒンディー語映画「Rakht(血)」を観た。監督はマヘーシュ・マーンジュレーカル、音楽はサンディープ・チャウター。キャストは、ビパーシャー・バス、サンジャイ・ダット、スニール・シェッティー、ディノ・モレア、アビシェーク・バッチャン、アムリター・アローラー、ネーハー・ドゥーピヤー、ヒマーンシュ・マリク、シャラト・サクセーナーなど。

 タミル・ナードゥ州の避暑地ウータカマンド。ドリシュティ(ビパーシャー・バス)は予知能力を持つ女性だった。1年半前に夫に先立たれた後、一人息子と共にひっそりと暮らしていた。いつしか彼女の予知能力を聞きつけた人が相談にやって来くるようになり、彼女はタロットカードで占いをしてあげていた。例えば、リヤー(ネーハー・ドゥーピヤー)は夫サニー(ディノ・モレア)の暴力に悩まされており、ドリシュティは離婚することを勧めていた。しかし、サニーはリヤーに占い師のところへ行っていることを面白く思っておらず、ドリシュティにも執拗に嫌がらせをする。

 ドリシュティの息子が通う学校の校長ラーフル(サンジャイ・ダット)はドリシュティに惚れていたが、市長(シャラト・サクセーナー)の一人娘ナターシャ(アムリター・アローラー)と結婚することになっていた。精神障害を持った機械工のモーヒト(スニール・シェッティー)は、ドリシュティを唯一の友人と思っていた。また、ドリシュティには過去にマーナヴ(アビシェーク・バッチャン)という親しい友人がいた。マーナヴはドリシュティにプロポーズするが、彼女は「まだ自分の夫には思えない」と言って断る。マーナヴは米国へ去り、そのままずっと音信不通だった。

 そんなある日、市長の娘ナターシャが突然行方不明となる。警察の必死の捜索にも関わらずナターシャは発見されなかった。そこで市長はドリシュティの元を訪れる。ドリシュティの占いにより、ナターシャはサニーの所有地の池の中から遺体で発見される。サニーは逮捕され、裁判で有罪となって終身刑に処せられる。また、時を同じくしてモーヒトは父親を焼き殺し、精神病院に入れられる。

 ところが、それ以来ドリシュティはナターシャの亡霊に悩まされることになる。ナターシャを殺害したのはサニーではないことを直感したドリシュティは、検事のアビ(ヒマーンシュ・マリク)のところへ行って事件の再調査を要請する。実はドリシュティは、アビーとナターシャがいちゃついているところを市長のパーティーでチラッと見ていた。その夜、ナターシャは行方不明になったのだった。真犯人はアビである可能性があった。アビは密かに拳銃に手を伸ばすが、そこへラーフルが現れたため、何も起きなかった。

 家に帰ったドリシュティだったが、いろんな映像が頭の中に入ってくるようになる。なぜかモーヒトの姿も一瞬だけ見えた。ドリシュティはラーフルと共に、ナターシャの遺体が見つかった池へ行く。そこでドリシュティは、真犯人を直感する。それはラーフルだった。ドリシュティがそれに気付いたことを知ったラーフルは、彼女を殺そうとする。そこへアビが駆けつけるが、あえなく返り討ちにされて池に放り込まれる。いよいよラーフルはドリシュティに迫るが、そこへちょうどモーヒトが現れる。モーヒトはラーフルの頭を殴って気絶させる。

 ドリシュティとモーヒトは、ラーフルを連れて警察署へ行く。ドリシュティは事件の真犯人がラーフルであることを伝え、ラーフルもそれを認める。ところがそのとき、ドリシュティは既にモーヒトが精神病院で自殺していたことを知る。モーヒトの魂は、最期にドリシュティを助けに来たのだった。

 全ての事件が解決した後、米国からマーナヴが帰って来る。

 インド製ホラー映画は当たり外れが激しいので、あまり期待していなかったのだが、豪華キャストの映画だったために見に行った。結果、期待以上の出来であることが分かった。

 2002年の「Raaz」以来、ヒンディー語映画はホラー映画とインド映画の融合を試行錯誤しているように思える。ラサ理論を適用して言えば、ホラー映画というのはその名の通り、恐怖のラサを唯一無二の要素とした映画であるのに対し、一般的インド映画というのは、恋愛、笑い、涙、冒険、スリルとサスペンスなどなど、ありとあらゆるラサの集合体である。つまり、ホラー映画とインド映画は相互に矛盾する映画なのだ。しかし、ヒンディー語映画界は果敢にもこれらの全く別の概念の映画を融合させようとしている。ざっと「Raaz」以来のインド製ホラー映画を列挙してみると、2003年の「Kucch To Hai」、「Bhoot」、「Darna Mana Hai」、「Sssshhh…」、2004年の「Krishna Cottage」「Hum Kaun Hai?」などである。これらの中には、ホラー映画としてある程度成功を収めたものも含まれている(「Bhoot」など)。しかし、ほとんどの映画はゲテモノ映画の域を出ない作品に留まっており、失敗作と言ってしまっても過言ではない。インド製ホラー映画の最大の欠点は、ミュージカルシーンが挿入されてしまうことである。どれだけおどろおどろしい雰囲気になっていても、ミュージカルシーンになった途端、せっかく盛り上がった恐怖感が一気に冷めてしまうのだ。確かに「Bhoot」や「Hum Kaun Hai?」などはミュージカルシーンが入らず、ホラー映画として徹底されていた。だが、僕から言わせてもらえば、それは「逃げ」である。インド映画とホラー映画の融合とはつまり、ホラー映画にいかにして効果的にミュージカルシーンを挿入するか、であり、インドの映画制作者は、その困難な仕事に果敢に立ち向かって行かなければならないと思う。こんな苦悩は、ハリウッドでは絶対に考えられないだろう。

 この「Rakht」も、インド特有のミュージカル付きホラー映画である。ミュージカルが映画の雰囲気をぶち壊しにするようなことはなかったものの、効果的にミュージカルシーンが挿入されていたとは言えない。まだまだインド製ホラー映画の完成形が出来上がるには時間がかかりそうだ。しかし、それを除けばこの映画は非常によく出来た作品だった。

 この映画の核は、市長の娘ナターシャが行方不明となった事件である。その犯人が果たして誰なのか?観客の興味をそそる。最後に明かされる真犯人は、誰もがあっと驚く人物だった。まずこのサスペンスがよく出来ていた。主人公ドリシュティの、自身の予知能力や霊視能力に悩まされながらもなるべく人のために活かそうとする健気な姿もよかった。そしてドリシュティを取り巻く登場人物たち――ある者は彼女を支え、ある者は彼女を貶めようとする――も、それぞれ特徴があって映画を盛り上げた。映画中頻繁に使われた、雨の音とカエルの鳴き声の効果音が、どんな音楽よりも恐怖感を増長させていた。最後に、モーヒトの幽霊がドリシュティを助けるシーン、またドリシュティから借りたハンカチを返すシーンは、ホロリとさせてくれた。よって、ホラー映画なのにも関わらず、見終わった後にアーナンド(芸術的爽快感、充足感)が生じる映画だった。

 いろんな俳優がいつもとは違った役を演じていたのが面白かった。セックスシンボルとして名高いビパーシャーは、初めて子持ちの未亡人の役を演じ、落ち着いた渋い演技を見せていた。急に演技力が上がっており、今までで最高の演技だと言える。顔もただの美人顔ではなく、知性が加わったように思えるのは気のせいか。スニール・シェッティーは精神障害を持つ男の役で、やはりあまり彼が演じることのない種類の役だった。多少オーバーアクション気味ながら、最後で非常にいい演技をしていた。アムリター・アローラーは尻軽女&幽霊役。特に幽霊になったときの表情が必要以上に怖くて、この映画にピッタリだった。あの変な顔は幽霊顔だったか!と新たな発見ができた。ディノ・モレアは、ブラッド・ピットが得意そうな、ちょっと頭がいかれた男役。彼もはまり役でよかった。サンジャイ・ダットの演じた役も、いつもの彼のキャラクターとはかけ離れた、静かな好青年役だった。ただ、やっぱり最後で彼は腕力に物を言わせる。サンジャイの出る映画に、血の流れない映画はない。ネーハー・ドゥーピヤーはアピールが少なかった。アビシェーク・バッチャンはゲスト出演だが、ミュージカルシーン「Kya Maine Socha/One Love」で一生懸命かっこよく踊っていたのが印象的だった。ちなみにこの曲は、英国のバンド、ブルーの名曲「One Love」のカバーで、インド人歌手シャーンが歌っている。ブルー自身もレコーディングに参加しているようだ。

 映画中、サニーがドリシュティに何度も「チュライル」という言葉を浴びせかけていた。「チュライル」とは妊娠中または出産中に死んだ女性の幽霊、または、妊娠中の女性が住む家の屋根にいて子供を害する、鳥の格好をした悪霊のことである。それから転じて、「魔女」の意味で使われたり、「このアマ!」みたいな女性に対する蔑称にもなっている。

 舞台はタミル・ナードゥ州ウータカマンド(ウーティー)で、途中のミュージカルシーンのシンガポール・ロケを除けば、大部分は本当にウータカマンドで撮影されていたと思われる。そういえば「Raaz」もウータカマンドが舞台だった。ウーティーは元々映画のロケ地として非常に有名だが、ホラー映画のメッカになって行くかもしれない。なぜかホラー映画とインドの避暑地は、相性がいいように思える。「Kucch To Hai」はシムラーが舞台だった。

 「Rakht」はビパーシャーのための映画とも言えるが、それ以外の俳優もいい演技をしていた。インド製ホラー映画の完成形とは言えないものの、完成形に近づいた映画として、僕はイチオシしたい。