Run

1.5
Run
「Run」

 今日はPVRメトロポリタンで、2004年5月14日公開のヒンディー語映画「Run」を観た。監督はジーヴァ、音楽はヒメーシュ・レーシャミヤー。キャストは、アビシェーク・バッチャン、ブーミカー・チャーウラー、マヘーシュ・マーンジュレーカル、ヴィジャイ・ラーズ、アーイシャー・ジュルカー、ムケーシュ・リシなど。

 イラーハーバード出身のスィッダールト(アビシェーク・バッチャン)は、大学に通うためデリーにやって来た。スィッダールトは、姉のシヴァーニー(アーイシャー・ジュルカー)の家に住むことになったが、スィッダールトと姉の夫、ラージーヴ(ムケーシュ・リシ)は仲が悪く、無視し合っていた。

 スィッダールトはバスの中で、ある女性(ブーミカー・チャーウラー)に一目ぼれしてしまう。スィッダールトはその娘に話しかけるが、最初は無視される。名前を聞くと「ステラ」と答えたが、それは口からでまかせで、本当の名前はジャーンヴィーといった。スィッダールトとジャーンヴィーは何度か偶然の出会いを繰り返すが、ジャーンヴィーは彼に対して冷たい態度を取っていた。

 実はジャーンヴィーの兄のガンパト(マヘーシュ・マーンジュレーカル)は、マフィアのボスだった。ガンパトは妹に付きまとっていた男を半殺しにしたことがあった。スィッダールトもマフィアたちに襲撃されるが、返り討ちにする。しかしスィッダールトはますますガンパトから狙われることになった。一方、ジャーンヴィーもスィッダールトのことを恋するようになり、二人は秘密でデートを重ねる。ジャーンヴィーをきっかけに、スィッダールトとラージーヴの仲も幾分改善される。

 ガンパトは、スィッダールトを直接狙うことをやめ、彼の家族を狙い始める。役所に勤めていたラージーヴは汚職の濡れ衣を着せられて失業し、シヴァーニーは交通事故に遭う。それを見たスィッダールトは意気消沈するが、ラージーヴは彼を励まし、一度足を踏み入れてしまったら、行けるところまで突っ走るように助言する。

 勇気付けられたスィッダールトは、ガンパトのアジトに単身乗り込み、「明日の9時にジャーンヴィーを連れに来る!」と宣言して帰っていく。ガンパトは眠れぬ夜を過ごす。次の日、8時50分にスィッダールトから電話がかかってくる。彼は、「もう既にジャーンヴィーを連れ出しており、今から結婚式を挙げるところだ」と言う。怒り狂ったガンパトは部下を引き連れてスィッダールトを探しに行くが、実はまだジャーンヴィーはアジトにいた。スィッダールトは悠々とアジトに入り込み、ジャーンヴィーを連れて行く。

 罠に気付いたガンパトと部下たちは、二人を追いかける。とうとう追いつかれてしまい、スィッダールトは絶体絶命の危機の陥るが、ジャーンヴィーが兄に「勇気があるなら、一対一で対決しなさい」と言い、スィッダールトとガンパトはタイマンで殴りあう。遂にスィッダールトが勝利し、ジャーンヴィーの手を取って去っていく。

 実はこの映画は、同名のタミル語映画のリメイクである。原作の方は大ヒットしたらしいが、残念ながらこの映画はそうはいかないだろう。非常に古風な作りで、ストーリーに捻りがなく、タミル語映画特有の、脈絡のないコメディーシーンやミュージカルシーンは、ヒンディー語映画に適用すると、映画全体が非常にアンバランスになってしまう。どうもタミル人の趣向と北インド人の趣向は、少し違うように思われる。

 ヒンディー語映画の観点から見て奇妙に思えたシーンをいくつか挙げていく。まず、スィッダールトがジャーンヴィーに一目惚れするシーンは、ヒンディー語映画の技法と違って非常にストレートかつシンプルだった。そういえばマニ・ラトナム監督のタミル語映画「Kannathil Muthamittal」(2002年)を翻案したヒンディー語映画「Saathiya」(2002年)の男女の出会いのシーンも、ヒンディー語映画とは異質のものだった。一目惚れしたスィッダールトが強引にジャーンヴィーに言い寄るシーンも、ヒンディー語映画のそれを越えた強引さがあった。タミル人の方が押しが強いということか?地下道でマフィアがスィッダールトを襲撃するシーンがあったが、十人ほどの悪党を一人で、しかも全く無傷で退治してしまう圧倒的な強さも、ヒンディー語映画にはあまり見られない特徴である。ヒンディー語映画だと、血まみれになりつつも何とか撃退する、という方が好まれるように思う。ガンパトがラージーヴの家を襲撃するシーンがあったが、そのとき同時になぜかスィッダールトはガンパトのアジトに侵入しており、ガンパトの妻と娘を人質にとって、逆にガンパトを脅迫していた。この非現実的なご都合主義も、ヒンディー語映画よりさらに強い。上のあらすじには書かなかったが、イラーハーバードからスィッダールトの友人のガネーシュ(ヴィジャイ・ラーズ)がやって来るが、彼がコメディー役を務めていた。しかしガネーシュとスィッダールトのストーリーはほとんど交差せず、ガネーシュのコメディーシーンは全くのオマケだった。こういう構成もタミル語映画の特徴なのかもしれない。ミュージカルシーンもヒンディー語映画より脈絡がなく、夢や妄想の中で繰り広げられる踊りがほとんどだった。クライマックスでは、スィッダールトとガンパトが死闘を繰り広げるが、スィッダールトが勝った途端、映画は終わってしまった。インド人は映画が終わる直前に席を立って帰り始める習慣があるが、そのインド人に席を立つ暇を与えないほどあっさりとした終わり方だった。もしかしてこれが、インド人の趣向に合致した正統派インド映画の終わり方なのだろうか・・・。

 ロケはイラーハーバード、デリー、アーグラーなどで行われており、イラーハーバードのサンガム(ヤムナー河とガンガー河の交差点)も映っていたし、デリーの各地の風景、例えば大統領官邸、コンノートプレイス、プラガティ・マイダーンなども出ていたし、アーグラーのタージマハル(対岸から)も使われていた。

 ガネーシュのコメディーシーンは映画をアンバランスにしていたものの、映画中一番面白いシーンもやっぱりガネーシュのシーンであった。デリーに来るはいいが、スーツケースをなくし、財布を盗まれ、時計を取られ、衣服まで持っていかれ、病院からは追い出され、AV映画に出演させられそうになり、散々な目に遭って笑わせてくれた。最後には頭が狂って、ペチコートを着てゴーバル(牛糞)を投げ散らしていたところ、人々から「ゴーバル・バーバー(牛糞和尚)」、「ペチコート・バーバー(ペチコート和尚)」と呼ばれて尊敬を集めるというオチだった。ガネーシュを演じたヴィジャイ・ラーズは、今まで悪役を演じていたところをよく見てきたが、コメディーをやらせてもかなりうまいということが分かった。ガネーシュのコメディーシーンは、多少デリー市民への批判が含まれていたように感じる。これもタミル語映画のエッセンスのひとつかもしれない。

 アミターブ・バッチャンはだいぶ落ち着いた俳優に成長してきて嬉しい限りだ。踊りも一昔前に比べたらだいぶマシになったが、まだ固い動きをしている踊りもあった。ブーミカー・チャーウラーは「Tere Naam」(2003年)に出ていたが、僕の好みの顔ではなく、しかも果たしてインド人の好みの顔なのかもはなはだ怪しい。演技力はなかなかだと思う。ムケーシュ・リシは、典型的な公務員といった感じのラージーヴを演じていた。彼は普段は軍隊、警察、マフィアなど、もっと男らしい役を演じていたため、新鮮だった。

 「Run」は、言わばタミル語映画をそのままヒンディー語映画に当てはめて失敗した映画だ。無理して観る必要はないだろう。