Mumbai Se Aaya Mera Dost

2.5

 今日は2003年8月23日にリリースされた新作映画「Mumbai Se Aaya Mera Dost」を観に行った。前評判を聞いてみるとどうもかんばしくないのだが、映画の雰囲気がよさそうだったし、ヒット作に恵まれないアビシェーク・バッチャンがめげずに頑張っているので見に行くことに決めた。

 「Mumbai Se Aaya Mera Dost」とは「ムンバイーから来た私の友達」という意味。監督はアプールヴァ・ラーキヤー。主演はスモールBことアビシェーク・バッチャンと、2000年ミス・ユニバースのラーラー・ダッター。ラーラーは「Andaaz」(2003年)に続き2作目である。脇役陣には「Lagaan」(2001年)に出演していた俳優が多く、ヤシュパール・シャルマー、アーディティヤ・ラーキヤー、ダヤーシャンカル・パーンデーイ、アキレーンドラ・ミシュラー、シュブロー・バッターチャーリヤ、アジャイ・カーモーシュなどなど。

 ムンバイーに住むカラン(アビシェーク・バッチャン)が10年ぶりにラージャスターン州にある田舎へ帰ってきた。親友のアーリヤ(アーディティヤ・ラーキヤー)や彼の祖父はカランを歓迎する。カランの村はつい最近電気が来たばかりという僻地の村だった。カランはテレビとパラボラアンテナをお土産に持ってきて、家に据え付けた。村の人々は文明の利器に驚き夢中になるのだった。その熱中振りは異常なほどで、村人たちは寺院にも行かなくなり、テレビで見たことをすぐに真似するのだった。

 カランは村で出会った女の子と恋に落ちる。彼女の名前はケーサル(ラーラー・ダッター)。ところがケーサルはカランの父親を殺した宿敵タークル(ヤシュパール・シャルマー)の妹だった。タークルは一帯を支配する地主で、自分よりも大きいテレビを持ってきたカランをただでさえ憎んでいたため、妹とカランの仲は許しがたいものだった。ある日タークルは妹を閉じ込めるが、カランの助けでKCは逃げ出す。タークルはカランの村を壊滅させることに決める。

 最初村人たちはタークルに逆らうことを恐れていたが、アーリヤがタークルに殺されたのを見て一致団結する。タークルの襲撃に備えて老若男女武器の準備をする。やがてタークルは部下を引き連れて村に攻め込んできた。カランたちは村を挙げてタークルの徒党を撃退し、最後はカランとタークルの一騎打ちで見事カランはタークルを打ち負かす。タークルは警察に逮捕され、村に平和が戻った。1ヶ月の予定で村に帰って来ていたカランは、このままずっと村でケーサルと共に過ごすことを決めた。

 ほぼ全編ラージャスターン州ジャイサルメールでロケが行われていた。映画の冒頭からラージャスターンの砂漠を行く満員のバスが映し出されて一気に心はラージャスターンへと飛ぶ。一面の砂漠と独特のカラフルな衣装のコントラストが美しく映し出され、まるでラージャスターン州のプロモーション映画のようだった。主要な役以外のエキストラも現地の人々を使っているようで、非常に田舎の雰囲気が出ている。ラージャスターンに行ったことのある人もない人も、ラージャスターンに行ってみたくなること請け合いだ。

 物語は電気が今まで来ていなかった僻地の村に電気が来たところから始まる。解説によると、インドの10億人の人口のうちの60%、6億人は村に住んでおり、インドに50万ある村の中の8万7千の村には今でも電気が来ていないという。インドでは今でも電気のない場所で中世と変わらないような生活している人が相当いることに驚かされるが、そういう村を舞台に映画を作るという発想もすごい。現代を舞台にしながら時代劇のような映画を無理なく作れてしまうインドもすごい。

 村を舞台にしたためか、ストーリーは非常にスローテンポで進む。退屈になるぐらいのんびりしすぎな場面もいくつかある。また、片田舎であることを強調するために、登場人物が話すヒンディー語は相当訛っている。正確なラージャスターニー語かどうかは知らないが、なんか本物っぽい印象を受けた。当然、聴き取るのには大変苦労する。

 昔見たオリヤー語の映画「Magunira Shagada」(2002年)は、辺鄙な田舎にバスが開通して、職を失った牛車タクシーの運転手の話だった。昔ながらの生活を営んでいた村に、文明が持ち込まれることを題材にした映画を観ると、寂しい気持ちになることが多い。人々は文明の到来に諸手を挙げて喜ぶが、それによって職を失う人もいれば、堕落してしまう人もいる。この映画は基本的に娯楽映画なので、そういう文明の弊害について糾弾するような描写はそれほど鮮明ではなかった。だが、テレビに釘付けになった村人が寺院へ行かなくなって、その寺院の僧侶が困窮したり、テレビに夢中になって、村が危機に陥っているのに気付かなかったたりするシーンなどがあった。最後で主人公が村に永住することを決めるのも、軽い文明批判だろうか。

 テレビには村人たちの興味をそそるいろいろな事象が映し出される。初めてスイッチをつけたときに現れたのはライオンだった。村人たちはあちこちに逃げ惑う。慣れてくると、村人はテレビの真似を始める。料理番組の早切り、カウボーイ映画のカウボーイ、アクション映画のスローモーションなどなど。「ラーマーヤナ」や「マハーバーラタ」などの宗教映画が放映されると、人々はテレビに供え物を捧げる。これは実際にインドでテレビ放送が始まったときに起こったことだと聞いている。著作権は完全に無視なのか、昔のいろいろな映画が登場するのも面白い。ゴーヴィンダー、アーミル・カーン、カリシュマー・カプールなどの若い姿をチラッと見ることができる。

 アビシェーク・バッチャンは今回ハードボイルドな役柄だったが、けっこうはまっていてよかった。苦手のダンスも頑張っていて感心した。これでこの映画がヒットすれば、本人も父親のアミターブ・バッチャンも喜ぶだろうが、今のところそれほどヒットする兆しはない。ちなみにアミターブ・バッチャンは「Lagaan」のように冒頭のナレーションで声だけ友情出演している。

 「Lagaan」といえば、「Lagaan」に出ていた俳優が数人いた上に、砂漠の村を舞台にしていたため、映画の雰囲気がどうしても「Lagaan」と酷似してしまっていた。唯一、ジャイサルメールの旧市街の街並みがたびたび登場することが救いとなっていたか。

 ヒロインのラーラー・ダッターは、見る角度によって表情の印象が変わる面白い顔をした人だと思う。前作「Andaaz」のときよりも才能豊かに見えた。悪女のようにも見え、純愛のヒロインのようにも見え、勇ましい女傑のようにも見える。ダンスも下手ではなかった。このままスターへの階段を順調に上りつめる能力はあると思う。

 村人の一人、シュブロー・バッターチャーリヤ演じるアブドゥルのスローモーションは、映画中しつこいぐらいに繰り返され、なかなか受ける。「Lagaan」でカチュラーを演じていたアーディティヤ・ラキヤーも、この映画では名演をしており、只者ではないことを感じる。同じく「Lagaan」で裏切り者の村人を演じたヤシュパール・シャルマーも、にっくき悪役をやらせたら右に出る者がいないほどうまい。

 残念ながら、中盤のんびりしていてだらけ気味な割に、終盤展開が早すぎてバランスが崩れており、映画の完成度は低くなってしまっている。しかしインド映画のエッセンスは十分すぎるほど詰まっており、普通に楽しめる映画だ。特にラージャスターンが好きな人には自信を持ってオススメできる。