Mr. and Mrs. Iyer

5.0

 今日は本日(2002年12月27日)封切られた新作映画「Mr. and Mrs. Iyer」を見にPVRアヌパム4へ行った。この映画のサントラはあらかじめ購入していた。なぜかというと、あのタブラー・マスターのザーキル・フサインが音楽監督を担当し、彼が歌声も披露しているからである。聴いてみた第一印象は、実はあまり大したことなかったが・・・。

 この映画を観に行った理由は、ザーキル・フサインが音楽を担当していたこともあるが、ラーフル・ボースという僕の好きな俳優が出演していることもあった。ラーフル・ボースは今年の夏に公開された「Everybody Says I’m Fine!」(2002年)を監督し、また脇役ながらマッドな演技もこなしていた人物である。彼は底知れない才能を持った男と見た。これから要注意人物である。

 「Mr. and Mrs. Iyer」の監督は、アパルナー・セーンという女流監督。「36 Chowringhee Lane」(1981年)という有名な映画を作った人で、フェミニストとしても名を馳せている。今作は彼女の20年振りの映画ということになる。アパルナー・セーンの娘、コーンコーナー・セーンシャルマーが主演女優として出演している。

 ミーナークシー・アイヤル(コーンコーナー・セーンシャルマー)はタミルの厳格なブラーフマン家系の娘。北ベンガルからカルカッタに、子供を連れて一人で向かう途中だった。ちょうど同じバスに乗り合わせた写真家ラージャー(ラーフル・ボース)が、家族に頼まれて道中彼女の面倒を見ることになった。

 バスの中は、インドのどこにでもありそうな人間模様を描いていた。いちゃつきまくる新婚夫婦、厳格なムスリムの老夫婦、スィク教徒のおっちゃんたち、どんちゃん騒ぎをする若者のグループなどなど・・・。ところがバスは辺鄙な場所で交通渋滞に巻き込まれてしまう。こんなところでなぜ交通渋滞なのか・・・?不審に思う乗客たち。そこへ警察のジープが駆けつけてくる。なんとその地域でヒンドゥーとムスリムのコミュナル暴動が起こっていたのだ。ムスリムがヒンドゥー教徒を殺し、今度はヒンドゥー教徒がムスリムへ報復攻撃を加えていた。乗客たちは急いでバスの中に逃げ込み、閉じこもる。

 夜になった。不安な表情を隠せない乗客たち・・・。そんな中、バスの周りを無数の松明が囲む。そしてとうとう暴徒がバスの中へ入り込んでくる。暴徒たちの目的はムスリムの殺害。暴徒は一人一人乗客の名前を聞いていく。なぜなら名前を聞けばヒンドゥーかムスリムか分かるからだ。

 実はラージャーの本名はジャハーンギール・チャウドリーといい、ベンガル生まれのムスリムだった。最初ミセス・アイヤルは彼がムスリムであることを知って動揺するが、暴徒たちの前で「彼は私の夫、ミスター・アイヤルです」と言ってかばう。暴徒たちはそのバスの中からムスリムの老夫婦を連れ去って行った。

 翌朝、ラージャーとミーナークシーは近くの村まで歩いていく。そこで宿が見つからなかったので、警察に連れられて森の中の寂れたロッジに泊まることになった。しかし厳格なブラーフマン家庭に育ったミーナークシーは、見知らぬ男と共に過ごさなければならないことに気を悪くする。

 しかし、ラージャーとミーナークシーは次第に心を交わしていく。2人は表向きは夫婦ということになっていたので、皆の前では話を合わせなければならない。若者たちにハネムーンのときの思い出などを聞かれて、ラージャーが勝手にロマンチックな話をでっち上げていくのを聞き、そして必死でミーナークシーを守ってくれるラージャーを見て、ミーナークシーもだんだん彼に淡い恋心を抱くようになる。

 警察の厚意により、ラージャーとミーナークシーは軍のトラックに乗ってその暴動地域を脱出することができ、カルカッタ行きの列車に乗ることができた。列車の中で2人は言葉ではなく、目で愛を交換し合う。

 翌日、列車はカルカッタのハーウラー駅に到着した。駅ではミーナークシーの本当の夫、スブラマニアン・アイヤルが待っていた。ラージャーはミーナークシーにそっと別れを告げる。ミーナークシーは最後に彼につぶやく。「グッバイ、ミスター・アイヤル・・・。」

 もう2002年も終わろうとしているが、今年もっとも感動した映画のひとつとなった。こんな素晴らしい映画を作る人物がインドにいるとは・・・!全くインドの奥の深さにはいつまでたっても驚かされる。

 まず、この映画はヒングリッシュ英語だった。つまり、基本的に英語がベースとなっている英語だ。ベンガル地方のストーリーだが、現地語はヒンディー語が使用されていた。また、ミセス・アイヤルがタミル人という設定なので、タミル語も字幕入りで入っていた。つまり、英語、ヒンディー語、タミル語というインドの主要言語3つが飛び交う、まさにインドの複雑な言語状況を顕著に体現している映画だった。その点でまず面白い。

 また、インドの生々しい旅行事情が堂々と描かれているところも注目である。インドを貧乏旅行したことのある人なら、誰もが一度は経験するあの過酷なバス移動、そして列車移動の旅情がよく出ていた。特にバスの中の人間模様は前半のもっとも面白い部分だ。「そうそう、こういう奴絶対いるよ」という面々が乗り込んでおり、「あ~、こういうこと起こるなぁ」という出来事が起こり、しかも途中バスが意味不明に停車したりして、なんだか自分の思い出と重ね合わせて見てしまう。そういえば今までこういうインドの生の旅行風景を描いた映画があまりなかった。ただ、コミュナル暴動に巻き込まれることなって滅多にないのだが・・・。

 音楽は前述の通りザーキル・フサイン。そういえばラーフル・ボースが監督した「Everybody Says I’m Fine!」でもザーキル・フサインが音楽を担当していた。この映画は普通のインド映画ではないので、インド映画特有のミュージカルシーンはほとんどなかった。歌と音楽が流れ、軽くそういう雰囲気のシーンはあるのだが、映画の流れを止めない自然な挿入のされ方で好感が持てた。ザーキル・フサインの音楽は、単体で聴いたらあまりパッとしなかったが、映画の中で聞くとなかなか印象的だった。

 監督のアパルナー・セーンはフェミニストということだが、それほどフェミニズムに言及した映画ではなかった。メインテーマはヒンドゥーとムスリムのコミュナル暴動である。なんとあのグジャラート州のコミュナル暴動が起こる数ヶ月前に脚本を書き終えたらしい。偶然にしては不気味な一致である。ヒンドゥーとムスリムの対立を背景に、厳格なヒンドゥー教徒の人妻と、先進的なムスリムの男との、禁断の恋を絡ませるところは、すごい発想だと思った。

 ヒンドゥー至上主義者たちがバスの中に乗り込んできて、ムスリムを探すシーンがある。ここで暴徒たちは一人一人名前を聞いていくのだが、これはインドのことについて少し知識がないと理解できないかもしれない。インドでは名前を聞けば、その人の宗教はおろか、カーストや出身地まで大体分かってしまう。だから時々フルネームを明かさない人がいたりする。主人公の本名はジャハーンギール・チャウドリー。名字こそヒンドゥー化しているが、ファーストネームはバリバリのムスリム名である。アイヤルという名字は、タミルのブラーフマンの典型的な名前である。

 また、暴徒たちは名前を聞くだけでなく、ムスリムだと疑われる男のズボンを脱がす。ムスリムは割礼をしているため、男性器を見ればムスリムかどうか分かるからだ。それを見た一人の男が、バスの中にいたムスリムの老夫婦を指差して、「こいつらはムスリムだ!」と暴露する。その老夫婦は暴徒に連れ去られ、結局殺されてしまうのだが、なぜその男が突然そんな密告をしたかというと、そいつはユダヤ教徒だったのだ。ユダヤ教徒も割礼をしているため、男性器に包皮がない。ムスリムだと間違われて殺されるのが嫌で、わざとスケープゴートを差し出したのだ。この辺りもインドの複雑な宗教事情を垣間見せてくれて非常に面白い。

 ラージャーとミーナークシーの恋はとうとう成就しない。しかし、最後の列車の中で二人はキスを交わしたのか、それは映画の中ではうまく遮られていて観客は勝手に想像を膨らませるしかない。ラストシーンはこれ以上考えられないほどいい終わり方で、最初から最後まで全く隙のない素晴らしい映画だった。今年最高傑作の称号を与えてもいい。こんないい映画を観ることができて幸せだ。僕の隣に座っていたインド人も、何度も「これはいい映画だ」とつぶやいていた。国際映画祭でもいくつか受賞しているようだ。